レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
プロフィール

まくり王

Author:まくり王
FC2ブログへようこそ!



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



訪問No.



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

千島艦事件の光と陰 Ⅳ
Ⅳ、西条にある殉職者の碑
鷺宮神社境内にある殉職者の追悼碑


 千島艦沈没で殉職した74人の中には、愛媛県人が1人含まれている。西条市壬生川出身の信岡菊蔵一等水兵である。その慰霊碑が、地元・壬生川の鷺森神社本殿横に建っている。「信岡君之碑」と題して、彼の略歴等が刻まれているのだが、その碑文はただでさえ難しい漢文調。それに石碑自体も風雨にさらされて汚れ、文章の判読を一層難しくしている。これが千島艦事故での被害者の慰霊碑と知る人は少ないだろう。

 信岡一等水兵は、「桑村郡大新田村」の出身というから、今の西条市壬生川になる。幼少期に父親を亡くし、明治17年に海軍に入り、横須賀海兵団に入団、その後、各艦を転属し、運命の千島艦の乗組員になっていた。
 遭難の一報を聞いた壬生川の人たちは、信岡一等水兵の救助のため漁船を現場海域に出動させ、捜索活動を展開している。同郷者を想う、温かい壬生川の海の男たちの友情が感じられる。

 碑文は上司だった内田正敏海軍大佐が書き、同僚らの手によって建立された(碑文では、菊造となっているが、これは通称で戸籍名は、菊蔵である)。境内に何の案内板もなくポツンと立つ石碑の姿は、一抹の寂しさを覚える。


【「千島艦事件の光と陰」の参考文献】
「千島艦沈没」(松尾忠博著、伊予民俗の会)
「軍艦千島の沈没と正岡子規」(松尾忠博著、子規会誌34号)
「千島艦衝突事件と水先人北野由兵衛」(村上貢著、海事史研究42号)
「千島艦遭難について」(近藤勲著、東予史談6号)
「郷土誌資料第12号、千島艦号追録」等
また、軍艦千島沈没事件調査研究所(松山市堀江町)の松尾忠博代表から直接お話を伺いました。深く感謝いたします。





スポンサーサイト

テーマ:愛媛県 - ジャンル:地域情報

千島艦事件の光と陰  Ⅲ
Ⅲ、子規と千島艦事件
浄福寺にある子規の句碑


 松山市堀江町の浄福寺境内にある「千島艦遭難碑」のすぐ隣に、正岡子規の句碑が建立されている。「もののふの河豚(ふぐ)にくはるる悲しさよ」。千島艦衝突・沈没の惨事を詠んだものだ。子規と千島艦、何の関係もないようで、奇妙な縁でつながっている。

 子規は東京大学を中退して、明治25年(1892年)12月1日に日本新聞社に入社した。その記念すべき日に飛び込んだニュースが、前日の未明に郷里の沖合で起こった千島艦沈没事故だった。サラリーマンとして、また記者としての初仕事が、この大惨事を“俳句時事評”という形で書くことだった。
 新聞「日本」(明治25年12月2日付)に、「海の藻屑」と題して掲載された初原稿、その文末に添えられた俳句が「もののふの・・・」の句である。

 ◎海の藻屑
 奔浪怒涛の間に疾風の勢を以て進み行きしいくさ船
 端なくとつ国の船に衝き当るよと見えしが
 凩に吹き散らされし木の葉一つ渦巻く波に隠れて跡無し。
 軍艦の費多しとも金に数ふべし。数十人の貴重なる生命如何。
 数十人の生命猶忍ぶべし。彼等が其屍と共に魚腹葬り去りし愛国心の値問はまほし。
 ものゝふの河豚に喰はるゝ哀しさよ


 句碑に使われている句と若干、字句が違っていることにお気づきだろうか。この新聞に掲載された句が、子規句集「寒山落木」に掲載された時は、“千嶋艦覆没”という詞書(ことばがき)がつき、「哀しさ」が「悲しさ」などに修正されている。句碑では、句集掲載の自筆の句を拡大して使っている。

 一瞬どきっとする句で、子規の句としては異質のものに思える。この句について、句碑の除幕式(昭和43年11月30日)で、当時の松山子規会の越智二良会長(故人)は、次のように解釈されている。
 「有為の帝国の軍人が海底に沈んで、海の藻屑となり魚の餌食となる。何といたわしい悲しいことであろう」。さらに「悲しいというよりも、もっと強い憤り、怒りという国民の気持ちが、この句の中に込められ、ほとばしっている」という。

 この句碑は、堀江校区老人クラブ連合協議会(当時・石丸修次郎会長)が明治100年の記念事業として計画し、建立された。
 子規の句碑は、日本中に数多くあるが、時事問題を詠んだ句は、これが唯一のもの。異彩を放つ句碑である。


【浄福寺への交通ガイド】松山中心地からだと、国道197号から松山市平田町、松山北条バイパスには入らず、県道347号へ直進。「かまはちうどん」のある堀江交差点をさらに直進、約200メートル行き、モービル石油前の、駐車場とフェンスで囲った空き地の間の道を左折、約300メートル直進すると浄福寺に着く。

(参考文献:郷土誌千島艦号追録、子規句碑建立記念号、昭和44年)



(第4部、「西条に犠牲者の碑」は、3月中旬掲載予定です)
 



テーマ:愛媛県 - ジャンル:地域情報

千島艦事件の光と陰  Ⅱ
Ⅱ、2人の日本人の悲劇

 二つの船が運命の糸に操られて釣島水道で出会ったとき、大きな惨事が起こった。74人もの尊い人命が失われたが、悲劇はこの人たちだけにとどまらない。千島艦で運命を狂わされた2人の日本人がいた。一人は「千島」の分隊長だった二木(ふたつき)勇次郎大尉。そして、もう一人は相手のラベンナ号に乗船していた、ただ一人の日本人で、水先人の北野由兵衛だ。

①部下の後を追った元分隊長
 
 千島は日本海軍が明治22年(1889年)11月、フランスのロアール社に発注した水雷砲艦とか通報艦(艦隊司令官の指示を各軍艦に伝える)といわれる小型の軍艦である。当時の日本は軍艦の建造能力に乏しく、イギリスやフランスへ建造を依頼していた。千島は速度が売りで、当時の軍艦は平均13ノット程度だったが、千島は22ノット出る設計だった。翌明治23年の1月に起工、同年11月進水、明治24年4月には機関の据え付けも終わり、試験走行を始めたのだが、困ったことが起こった。汽缶の不具合で蒸気のパワーが上がらず、蒸気漏れがあったりして、どうにも設計速度が出ないのだ。
 欠陥のある危険な船と知ったら、あなたならどうするだろうか。千島の艦長に次ぐ地位にあった二木分隊長は、フランスからの受け取りに反発した。しかし、その行動は上司にうとまれる結果を招いた。海軍上層部は軍備増強と対仏関係を優先的に考えていたからだ。二木分隊長に待っていたのは“左遷”だ。千島回航委員から外され、突然、フランスへの留学の異動を発令されたのだ。
 千島艦事件を研究している松尾忠博氏(松山市堀江町)によると「この留学は、普通なら官報に載せるべきものなのに、それが載っていない。恣意的な異動である証拠」と言う。千島受け取り交渉の妨害になる二木大尉を追放することに狙いがあったとみる。
 二木大尉フランスに留学という形で残り、一方、千島はそれからも試験運航、補修の繰り返しをすることになる。最終的には19ノット出ると認定、価格を値下げさせて千島を受け取ったのは明治25年4月。試験走行開始から1年もたってのことだ。新造船なのに千島は最初から、とても新鋭艦といえる状態ではなかった。

 日本へ回航を始めても、やっぱり機関が故障し、リスボンで修理するなど多難なスタートだった。フランスを4月17日に出港、地中海からスエズ運河、インド洋を経て約7カ月かけて11月24日ようやく長崎にたどり着いた。この地で新たに12人を乗組員として補充、総員90人として、最終目的地の神戸に向かうことになる。この補充が、結果的に犠牲者を増やすことになっていく。11月30日未明、神戸まであと少しのところで、悲劇が起こるのである。
 殉職者74人の中には、二木大尉の後任として千島分隊長に任命された貴島才蔵大尉も含まれていた。これも運命のいたずらか。二木大尉の不自然な異動がなければ、貴島大尉が千島に乗ることもなかっただろうに。

 二木大尉は約1年間フランスに留学。回航中の千島がまだ地中海にいた明治25年7月に帰国していた。その4ヵ月後の同年11月に、千島艦事故が起こり、多くの戦友を失った。そして、翌年5月、二木大尉は東京の自宅で自殺する。(海軍は、彼の死を病死として記録しているが、親族がその後、自殺と語っている。)

 なぜ、彼は自殺したのか。「千島の受け取りに反対しきれず、そのために多くの同僚を死なせてしまった」との思いが強かったといわれる。またさらに、死によって、軍部に抗議するとともに、受け取り交渉の経緯や恣意的な異動などの真相を解明してほしかったのだとも推測されたりしている。それに加えて、千島分隊長から異動後の彼に対する軍の処遇等を考えると、兵学校を首席で出たエリート軍人の挫折と孤立感が、彼を死に追い込んでいったのかもしれない。ただ一方では、自殺動機は複合的なものが多いし、現代人の今の考え方や判断では捉えられないものが、明治の軍人の考え方にはあるようにも思うのである。
 結果的に、鹿児島出身の29歳の海軍軍人は、自らの命を絶って、兵士たちの後を追った。

 今、二木大尉は東京・青山霊園に眠る。その墓の近くに「軍艦千島乗員死者哀悼碑」が建立されている。彼はあくまでも千島の乗員と一緒にいたかったのだろうか。


②歴史から消えた水先人

 パイロットという職業は、空だけに限らない。海にもパイロットはいる。水先人とか、水先案内人という職業である。船舶の往来の激しい内海などでは、不慣れな船長は操船が大変。そのために船長を補助し、船を安全かつ効率的に導くのが、水先人の仕事だ。
 千島艦事件の相手船・ラベンナ号にも一人の日本人の水先人が乗船していた。北野由兵衛(きたの・よしべい)という。彼こそ、日本人初の水先人免状(西洋型船)の取得者だ。当時、将官待遇を得ていたほどの人物。しかし、この千島艦事件で人生は暗転。彼の栄光は、闇の中に消えていく。


 海軍の出来たばかりの船が沈み、犠牲者も74人。相手船の水先人として、北野は日本中から非難を浴び、矢継ぎ早に裁きの場に引き出されていく。誰かに事故責任を押し付けないと、メンツの立たない海軍。その格好の標的に北野はされてしまった。領事裁判権のため、日本人にイギリス人船長は裁けないが、日本人なら日本の手によって自由に裁けたのである。
 明治25年(1892年)11月30日が運命の事故日。北野は翌年2月24日、長崎地裁で過失致死傷罪で罰金200円の有罪判決を受けた。そして、同年4月1日の長崎船舶司検所での海難審問では、「臨機の処置を施するに当たり、その時期を逸した」と認定され、3か月の免状停止の判定を下される。当時の不平等条約のもとでは、ラベンナ号船長の取り調べさえできず、日本人・北野への調べだけでスピード決着が図られたのである。
 今となっては、真の事故原因を究明するのは難しい。ただ、現在では「事故は千島艦側の操船ミスで起こった可能性が高い」と指摘する研究者もいる。

 北野という人物についてふれておこう。正確な出身地や生年月日はわかっていない。ただ、長崎地裁判決(明治26年)で、年齢は58歳7カ月と、記載されている。また、「因島市史」の水先人の活動の項目で、郷土史家が北野のことに触れている談話があり、因島市(現在は尾道市)椋浦町(むくのうらちょう)の出身と推定されている。

 北野がまず歴史に名を残すのは、「日本パイロット協会史」(社団法人日本パイロット協会発行)である。明治10年(1877年)10月に施行された「西洋型船水先免状規則」によって行われた初の水先試験で、北野は合格者3人のうちの1人だった。1人はドイツ系のイギリス人、もう1人は北野の後輩の富田市兵衛という人物である。この年、水先免状を授与されている。北野は以後、神戸を拠点として、「和泉灘より瀬戸内を通過して長崎まで」の水先業務に従事し、日本の水先人の先駆者だったことは間違いない。

 明治20年代には、日本海軍の軍艦を香港から回航し、その際には将官待遇を得ていた北野。だが、千島艦事件後、彼はすべてを封印した。いや、海軍によって封印させられたというべきか。彼の事件後の生活や心情を伝えるものは一切残っていない。「何も話さないことを条件に、海軍が彼の生活の面倒を見たのではないか」と、この事件を研究している松尾忠博氏(松山市堀江町)は推測する。
 日本人初の水先人という栄光は、明治という時代によって蹂躙(じゅうりん)されていった。


(第Ⅲ部 子規と千島艦事件は、3月上旬掲載予定です)
 
 




テーマ:愛媛県 - ジャンル:地域情報

千島艦事件の光と陰 Ⅰ
IMG_3148_convert_20130219154645.jpg


千島艦事件の光と陰

chisima.jpg


愛媛県で起こった事件、それも国際問題化した事件でありながら、時の流れとともに人々の記憶から消えていく。そんな事件を伝える碑が、松山市堀江町の浄福寺境内にひっそりと建っている。
「千島艦遭難碑」。力強く大書された字は、あの東郷平八郎元帥の揮毫である。日本海軍の軍艦「千島」とイギリスの商船が衝突、千島はあっという間に沈み、乗組員90人中74人が死亡した大惨事である。
 明治という時代を背景に、事故は事件へと姿を変えていく。千島艦事件の光と陰を以下の4部構成でまとめてみた。
Ⅰ、事故から事件へ
Ⅱ、2人の日本人の悲劇
 1、部下の後を追った元分隊長
 2、歴史から消えた水先人
Ⅲ、子規と千島艦事件
Ⅳ、西条にある殉職者の碑


Ⅰ、事故から事件へ

 事故が起こったのは、今から121年前。日清戦争の足音が近づいていた明治25年(1892年)11月30日午前4時57分ごろ。場所は松山市の興居島(ごごしま)と睦月島との中間、釣島水道でのこと。日本海軍の水雷砲艦「千島」(排水量750トン)とイギリスのP&O社の商船「ラベンナ」(3,257トン)が衝突。千島の右舷中腹にラベンナ号の船首が、いわゆるT字形にぶつかり、千島はわずか2分で沈んだ。千島乗組員90人のうち、救助されたものは、艦長心得の鏑木(かぶらぎ)誠大尉ら16人だけ、残る74人が犠牲になった。ラベンナ号は船首に損傷があったが、死傷者はゼロ。千島は海軍がフランスに発注して建造した新造船で、フランスから神戸に回航している途中、あとわずかのところで悲劇の船となってしまった。
 ラベンナ号は、生存者を乗せて、松山・堀江沖に来て錨を下ろした。その時、当時の堀江村民は全長119.6メートルのその巨体に驚くとともに、船に駆けつけて何が起こったのかを初めて知るのだった。村民約50人が5昼夜にわたって救助捜索活動に従事した(のちにこの活動を県知事が表彰)。軍艦「筑波」「葛城」「摩耶」なども駆けつけ大捜索を繰り広げたが、一人として救助も遺体収容もできなかった。翌年1月になって、2遺体が発見されたが、残る72人の遺体はついに確認できなかった。
 
 巨費を投じた軍艦が沈み、74人もが殉職したとあっては、相手商船への非難が一気に高まるのは当然だろう。
その一方で、軍部は自らに責任追及の火の手が上がるのを防ぐのに躍起になる。当時開かれたていた国会の質問にこんなくだりがある。「千島艦が死んで、その艦長がいきているが、はなはだおかしいことである」-。千島の艦長が艦と命をともにしなかったことを糾弾する声さえ上がっていたのである。軍部は翌年1月25日に軍法会議を開き、艦長(心得)の鏑木大尉に「怠慢の行為なきを以って免訴」と判決を出す。艦長の責任を不問とする一方で、事故の責任を相手に向けていく。その標的になったのが、ラベンナ号の水先人で唯一の日本人の北野由兵衛(きたの・よしべい)だった。彼は2月には罰金の有罪判決を受け、4月には水先免状3か月停止の審問決定も受け、事故責任のすべてを背負わせられていく。(北野については、Ⅱ部で詳述する)

  軍部のメンツと国民の声に押されて、日本政府はイギリス企業を相手に法廷闘争へ突入する。
明治26年(1893年)5月6日、P&O社を相手取って横浜のイギリス領事裁判所に85万円の損害賠償を提訴した。P&O社は逆に10万円の賠償を求めてきた。この1審では、P&O社の10万円の請求は却下されたものの、日本側の請求には判断がされなかった。P&O社は上海のイギリス高裁へ控訴。この2審判決(26年10月25日)では「瀬戸内海は公海であり、日本国の領海ではなく、その主権の及ばない海域である」と、驚くべき法理を展開しており、日本の完全敗訴になってしまった。ここでのイギリスの無茶な主張に国民の憤りはますます高まった。
 海軍大臣・西郷従道は、宇和島出身で“民法の祖”といわれる穂積陳重ら司法関係者で6人委員会を設置、この事件の審査をさせている。その結果、同委員会は12月2日、「勝訴すると敗訴するとを問わず、日本帝国政府は意を決して、英国枢密院へ上訴すべき」と進言した。国のメンツをかけた戦いとなっていく。
 ついに明治27年1月、英国枢密院に上訴。同年7月に判決がでた。判決は、「上海での判決を破棄、横浜に差し戻し」だった。日本にとっては、訴訟費用は膨らむばかりで、時間だけが過ぎていくことになった。
 そんな時、イギリスは日本との関係を考慮して和解の打診をしてきた。結局、日本は明治28年9月、P&O社が1万ポンド(当時約9万円)と訴訟費用を支払うことで和解する。2年以上もの歳月をかけて、日本が得たものは、当初要求額85万円のわずか11%だった。

 この千島艦事件の歴史的位置づけとしては、大きく2点が指摘できよう。1点は、日本が訴訟当事者として外国の法廷に出た初めての訴訟事件であったこと。2点目は、領事裁判権という不平等条約について、その改正に向けて大きな世論を巻き起こす一つのエポックになったことだ。領事裁判権というのは、日本国内での外国人犯罪を日本が日本の法律で裁けないことを意味する。千島艦事件でも、相手・ラベンナ号の船長を直接取り調べることはできていない。訴え先はイギリス領事裁判所で、日本人には全く不平等な扱いだった。
 領事裁判権の不利益を痛感させる事件が、千島艦事件の6年前、明治19年(1886年)10月24日、紀州沖で起こっている。イギリスの貨物船ノルマントン号が座礁沈没し、イギリス人ら乗組員は全員助かったが、日本人乗客23人は全員船中に取り残されて死亡した。これがノルマントン事件だ。イギリス人船長らはイギリス領事によって神戸で裁かれ、「早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語が分からず、船内にこもって出ようとしなかった」との乗組員の陳述を認め、船長以下全員無罪の判決だった。
 この判決に国民の怒りは爆発。それらによって、兵庫県知事は、イギリス人船長を殺人罪で告訴、これにより横浜のイギリス領事館判事は禁固3か月の有罪判決を下したが、死亡者への賠償金はなにもなかった。
 領事裁判権への批判が渦巻いている中で、またも起こった外国船の事故が千島艦事件。不平等条約改正への機運を高める結果となり、明治27年(1894年)7月の日英通商航海条約の調印を皮切りに、欧米各国と次々に条約を改正、領事裁判権は撤廃されていった。多くの犠牲を払って、日本の近代化は進んでいった。

*千島艦遭難碑

 事故から25年後の大正6年(1917年)1月14日、当時の堀江村長や浄福寺住職ら村民有志の手によって「千島艦遭難碑」が、救助基地となった堀江・浄福寺境内に建立された。25周忌で建てられ、以降、110周忌まで法要が営まれてきた。碑が建ってからでも100年近い歳月がたち、碑の裏面の刻字は、まったく読み取れなくなっている。当時どのような文言書かれていたのか。ここに記載しておこう。

「明治25年千島艦建造功竣リ佛国ヨリ回航ノ途11月30日拂暁堀江湾ニ於テ英国商船ラベンナ号ト衝突シ貴島海軍大尉以下74名艦ト共ニ沈没又大正5年11月有志相謀リテ其英霊ヲ弔シ此ノ碑ヲ建ツ」


(第二部「2人の日本人の悲劇」は、2月末掲載予定です。)





 
 

テーマ:愛媛県 - ジャンル:地域情報





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。