レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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“新3大”日刊新愛媛の前代未聞
日刊新愛媛という新聞社があったことを、あなたは知っているだろうか。
その本社だった建物が、近く姿を消そうとしている。

一時は四国で最大の発行部数を誇りながら、27年前、突然廃刊となった。
文字通り、前代未聞の出来事が次々と飛び出す、マスコミ界の“超異端児”的な新聞。
形は消えても、人々の記憶のなかに、しっかりと納めておいてほしい新聞でもある。
某TV番組にあるのを真似て、その“新3大”日刊新愛媛の前代未聞ーをまとめてみた。


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       (廃刊1日前の昭和61年12月30日付、紙面に本社の写真が掲載されている)
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     (旧日刊新愛媛本社=松山市問屋町。廃刊後は、愛媛新聞の印刷センターとなっていた)

<1、前代未聞の急成長> 
 日刊新愛媛の前身は、昭和35年(1960)に本社・宇和島市で創刊された「新愛媛」で、南予エリアに読者をもっていた。しかし、経営的には不振で、昭和51年(1976)に坪内寿夫氏率いる坪内グループの傘下に入り、社名を日刊新愛媛(以下、日刊と略す時もある)と改めた。その時の部数は、18,000部だった。まず本社を松山に移し、県紙として愛媛県下全域に販売網を築く一方、坪内グループの従業員をフル活用して、部数を急激に伸ばしていくのだった。値段の安さに加えて、映画の無料券や奥道後入場券をばらまく手法も駆使して、2年半後には58,000部、5年後には110,000部、昭和59年(1984)7月にはなんと25万部達成記念式典を盛大に開くのである。

 わずか10年足らずで、1万8千部から、25万部へ。新聞業界の常識を覆す、驚異の部数増である。一時は毎週日曜日に約300人がバスで拡張に走り、毎月1万部増えていったという。だから、当時無理やり取らされた人も多いのではないか。恐ろしいほどの坪内グループの人海戦術である。その躍進のあおりを受けたのは、言うまでもなく、もう一つの県紙・愛媛新聞である。伝統の上に胡坐をかいていたが、気がついたときには、日刊新愛媛に部数で追い越される事態になった。業績の落ち込みは激しく、あわやというところまで追い詰められていくことになったのである。

 それもそのはず、平均年齢で見ても愛媛が40歳代半ばに対し、日刊は26歳。社員数にしても5倍もの差があり、人件費は10倍程度の差があったと推定されている。愛媛は、昭和56年(1981)5月には小回りの利かない編集上の問題も露見した。午前1時前に飛び込んだ共同通信からの重大ニュース(「ローマ法王撃たれ重体」)に対し、日刊は1面トップをこれに差し替えたが、愛媛はその対応ができず、“特オチ”する。古い体質の企業が、新興企業にその座を脅かされる、ほかの業界にも通じるパターンがここにあった。

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            (日刊新愛媛の社旗。イベント時によく掲揚されていた=元同社社員提供)
<2、前代未聞の取材拒否>
 ネットで取材拒否を検索したら、必ず登場するのが、「日刊新愛媛取材拒否事件」。全国的なビッグニュース。信じられないことが、起こったのである。愛媛県が日刊新愛媛に対し、取材に応じないことを通告したのだ。

 きっかけは、県立高校増設に絡んで、愛媛県が地方財政法に違反して松山市に負担金を要求したという記事。日刊だけでなく、読売新聞、サンケイ新聞も同趣旨の記事を掲載した。ところが、日刊に対してだけ、「事実のねつ造」として、取材拒否を通告したのだ。読売やサンケイには抗議もしていない。3社がそろって、ねつ造記事を書くとは常識的に考えられないことぐらい、誰だってわかることではないか。この記事に問題があったのではなかろう。

 ではなぜ、日刊に取材拒否をしたか。
 これは、当時の愛媛県の白石春樹知事と日刊のオーナー・坪内寿夫氏の確執を抜きには語れない。両者とも、松山市の隣町・松前町の出身。政界と経済界の両巨頭なのだが、どちらもお山の大将。両雄並び立たずで、日刊には白石県政批判の記事がしばしば登場、対立に拍車がかかっていた。坪内憎しの私憤がベースにある。

 もうひとつ、批判を恐れず、私見を述べると、上記の“新聞戦争”でピンチに陥ったもう一方の県紙・愛媛新聞を救済するための強権発動ではなかったのかと思う。
 白石知事は昭和57年(1982)2月に「県紙・愛媛新聞と語る集い」に来賓として出席。「人間の裏をかき、弱みにつけ込むなど、公共倫理や常識が十分でない人物がマスコミを握ったら最も恐るべき言論の暴力の時代が来る」と、坪内・日刊を批判、返す刀で「愛媛新聞は県紙としての責任と使命の重大性認識して、『集い』を節目に今後さらに文化の振興、地域社会の発展のため一丸となって精進してほしい」と、公人の立場を忘れて愛媛新聞を激励している(当時の愛媛新聞報道)。白石知事と愛媛新聞は完全な蜜月関係にあったのだ。その新聞が、ピンチになり、反対に坪内氏の新聞が急上昇している、これはもう、放置できないところまできて、追い込まれた窮余の一策と考えられる。

 白石知事は、取材拒否について「事実を歪曲し、誤った報道を行うことは県民の正しい認識を阻害する。取材拒否は県民の知る権利を保護することになる」と、議会などで強弁していたが、後に「(取材拒否は)無謀なこととは十分承知していたが、当時は他に方法がなかった」(朝日新聞、1988年4月30日)と、本音を漏らしている。

 この取材拒否事件は、愛媛県だから起こったといえよう。その政治風土や県民性の問題が、白石知事の思っていたこと以上の恐ろしい結果を招くことになるのだから。

 「国や役所などのいわゆるお上には、従っておいた方がよいと考える人が全国で最も多い」のが愛媛県(NHK放送世論調査所「日本人の県民性」1979年)。確かに思い当たる。今でもそんな人が多い気がする。
 そんな県民性だから知事が、日刊を取材拒否すると言ったら、さまざまな団体が付和雷同して右にならえして、大きなうねりとなった。

 自民党県連を始め、県建設業協会、県農業会議、県立学校、県体協、愛媛経済同友会など、文化や教育界までが知事の顔色をうかがい、拒否組に参加した。祭りを取材する日刊の記者に立ちはだかり写真撮影までも妨害する県職員が出る始末。取材だけでなく日刊への広告自粛や不買にまでエスカレート。皆が、当時の白石知事の威光を恐れ、どんどん拡大解釈して行動していったのだ。もう完全な“いじめ”の世界だ。いじめなければ、いじめられると考える人や団体が日ごとに増えていった。

 それに情けないのが、日ごろ「知る権利」をふりかざして取材現場を闊歩している記者さんやその所属する報道機関。公権力による取材拒否が目の前で起こっても、抗議文一つださない。自分に火の粉がかからなければ、見て見ぬふり。ここも、権力者にモノが言えない連中がほとんどということをいみじくも露呈することになった。日本新聞協会の対応も鈍い。7か月も経ってからようやく、取材拒否特別委員会が事態の収拾に乗り出す。前代未聞の出来事に戸惑いがあったのだろうか。

 日刊新愛媛の県政批判や知事に近い人物への批判は、時には誹謗中傷的のものまで掲載されていたように思う。それに坪内氏への礼讃記事も目立った。しかし、それだからと言って、新聞を選別するのは知事ではなく、住民であり、公人の知事が取材を拒むなどもってのほかだ。どっちもどっちではない。権力者は批判にさらされなくてはならない。そうでなければ、いつのまにか、周りはイエスマンばかりで裸の王様になっていく。

 この問題は、拒否通告から3ヵ月後に、日刊が県と知事を相手取り取材拒否の取り消しと損害賠償を求めて松山地裁に提訴。県は拒否通告から1年4ヵ月後の昭和60年(1985)に、取材拒否の解除を日刊に通告した。訴訟の審理は進み、証人尋問なども行われ、判決が間近かになっていたが、日刊の廃刊から1ヵ月後に訴訟の取り下げが行われ、結局、取材拒否の是非を問う世紀の判決は出ないまま、終結したのである。

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                (廃刊、最後の紙面、昭和61年12月31日付)
<3、前代未聞の廃刊>
 県下最大、四国でも最大の発行部数を誇った日刊新愛媛。ところがである。

 25万部達成式典からわずか2年後、昭和61年12月末に突如廃刊した。その時点でも、日本ABC協会(新聞雑誌の実売部数を調査する第3者機関)で19万2千部あった新聞が、忽然と消えていくのである。経営危機に陥った時は、普通は、合併とか新会社にして、発行継続のケースが多いのだが、一気に廃刊とはー。日本新聞協会加盟の新聞が廃刊したのは、史上初めてのことだった。

 快進撃をしていた日刊新愛媛に、大きく立ちふさがり、結果として命取りになっていったものが、3つあった。一つは、上記の取材拒否による業績の悪化。二つ目はグループの本業の造船業を襲った“造船不況”、三つ目はオーナーの坪内氏の病気入院だ。この3つが絡み合って、急降下していく。

 まず、白石知事の取材拒否だが、取材を拒否するだけでなく広告掲載の拒否、不買へとエスカレートして、紙面から次々広告が消え、ボディブローのように体力をそいでいった。次に造船不況だが、これは昭和60年(1985)9月のプラザ合意以降、円高ドル安が進み、製造業、とりわけ造船業はピンチになっていった。坪内グループの拠点・来島どつく㈱は耐えきれず、当時の日本債券信用銀行(1998年経営破たん、現・あおぞら銀行)の主導での再建に取り組むことになった。同行の常務が、副社長として乗り込んできて、グループの命運を左右することになるのである。

 そして3番目は坪内氏の病気入院だった。「グループが経営危機に陥った最大の原因は、坪内オーナーの持病の悪化、入院にあった。オーナーは極めてカリスマ性の強い突出した経営者。グループの信用イコール坪内オーナー個人の信用といっても過言ではなかった。」「それだけに再起不能というデマが流布されたことが、信用不安を招き、これに三光汽船の倒産や造船不況が追い討ちをかける形となった」と、当時坪内氏の側近だった佐伯正夫氏は自著(「再建人生ここにあり」)の中で分析している。

 県の取材拒否は、昭和60年12月に解除されていたのだが、白石知事の「坪内=日刊新愛媛」への怨念の火は消えることがなかった。だから、日刊の存続とか継承は決して許さない、いや彼の持つすべての権力でもって日刊を抹殺する強い意志があったと思われる。
 
 それを裏付けるような話が、佐伯正夫氏の著書に出てくるので引用させてもらう。「日債銀から送り込まれていた副社長らに対し、白石知事が日刊新愛媛を廃刊にしなければ地元との協力関係は築けないーそういう主旨を伝えたという話が、私の耳に入ってきた」。さらに、その後、佐伯氏自身が日債銀本社に呼び出されて、当時の常務から言われたことが掲載されている。「廃刊ならば、ご要望にお応えするし、できる限りの保障もしたい。だが、続けるというならば、例え誰が引き受けたとしても、私どもとは一切関係ない。覚悟して行動してもらいたい」。日債銀は、最初から廃刊しか考えていなかった。

 昭和61年のおおみそかが、最後の紙面だった。1面には、長浜町・金山出石寺からの雲海の陽光がカラーで掲載されている。明るい希望にあふれたエヒメが来ることを信じて、日刊新愛媛の人は、編集したのではないかと思う。

 その後、日刊新愛媛の本社は、愛媛新聞の印刷センターとして使われていたが、老朽化に伴い、愛媛新聞社は伊予市に印刷工場を新設。7月からは新工場での印刷開始となる。それに伴い、旧日刊新愛媛本社ビルは早晩、解体の道をたどるだろう。

<エピローグ>
 激しく争った両雄も、鬼籍に入った。白石知事は平成9年3月に、坪内氏もその2年後の平成11年12月に。ともに85歳だった。あまりに大物すぎた2人。その後、2人を凌ぐ人物は政界にも経済界にも出てこない。

 白石VS坪内、愛媛新聞VS日刊新愛媛は、いったい何を残したのだろう。愛媛新聞は、ジャーナリズムの王道をいき、権力者にペンで立ち向かう新聞になっているだろうか。愛媛の政治風土や県民性に変化は出たのだろうか。事なかれ主義でなく、自分の頭で考え、行動する人が増えたのだろうか。

 戦いが終われば、戦いのことを忘れ去るが、今一度、新聞戦争の一コマから学ぶことがあるのではないか。

 
参考文献:宮住冨士夫「県紙の興亡」(自費出版)、佐伯正夫「再建人生ここにあり」(愛媛ジャーナル)、藤岡伸一郎「取材拒否」(創風社出版)、東玲治「記者物語」(創風社出版)、日刊新愛媛労働組合「輪転機止まる」
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