レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
プロフィール

まくり王

Author:まくり王
FC2ブログへようこそ!



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



訪問No.



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

コンクリートでなく石組で造った「銚子ダム」(砥部町)
ダムと言えば、コンクリート製を連想するが、石で組み上げた珍しい工法のダムが砥部町にある。
ロックフィルという型式の「銚子ダム」。
松山から国道379号の万年トンネルを過ぎ約1キロのところに、入り口の案内看板がある。
道が狭いのが難点だが、約2・6キロ走れば到着。
付近は公園化されていて、トイレも完備、キャンプもできる。夏場訪れるのにピッタリの場所だ。

  DSCF2806.jpg
  DSCF2812.jpg
ダムの造り方は、その材料で3つに大別できる。
日本のダムで一番多いのは「土」、次いで「コンクリート」、そして大きく離れて「石」となる。
土を盛って造れば、アースダムという。愛媛で代表的なのは大久保山ダム(愛南町)や大谷池(伊予市、西条市)。
そして、石を主体に土を加えて造るダムをロックフィルダムと言う。
石だけでは水が漏れてしまう。だから、ダムの中心部を粘土で固め、これを遮水壁にしている。銚子ダムはこの型式で、厳密には「中央コア型ロックフィルダム」という。昭和52年(1977)完成した。

  DSCF2813.jpg
大水が堤体を越えると意外にもろいのがこの型式。だから堤体の右か左に「洪水吐き(こうずいばき)」を設けている。
これはコンクリート製で、水がスムーズに越境するように造られている。
越えた水は、コンクリート水路を通って行くのだが、この水路を追跡すると面白い。実はこの水路、ぷっつりと切れている。コンクリートが切れて、そのあとは岩盤の斜面。つまり、水路から出た水は滝のように岩盤を下り落ちる。この光景は、台風時期しか見れない、珍しいシーンとなる。

  DSCF2818.jpg
このダムが珍しい点は、堤体(高さ47・2メートル)に階段が付いていること。
堤にはガードレールが設置してあるから、階段を下りるのはダメなのかも。それに、かなりの段数だから降りるのはともかく、再び、上って来るのは大変な運動だ。下に見える光景が、下写真。小さな砂防ダムなんかがあるようだ。

  DSCF2824-001.jpg
愛媛にあるロックフィルダムのうち、一番堤高があるのがこの銚子ダム、他には東蓮寺ダム(宇和島市)、横谷調整池(東温市)がこの型式だ。
ダムを中心に「銚子ダム公園」が広がっている。キャンプ場、運動広場、あずまや、トイレ、共同洗い場、駐車場などが整備されている。無料。それに、ダム湖は釣り禁止になっていないようだから、バス釣りも楽しめる。
一面緑だらけ。鳥のさえずりだけが聞こえる。静かな別天地。

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

愛媛県 ブログランキングへ
スポンサーサイト
木造アーチ橋「神の森大橋」(砥部町)
国道11号から砥部町の旧広田村へ、国道379号を走る。
道の駅「ひろた」の手前でいやでも目につくのが、この大きな橋だ。
「神の森大橋」。
木造ながら、20トン車が通れる日本でも珍しい丈夫なアーチ橋、デザイン的にも一見の価値ありなのだが、
残念、来年1月いっぱいの予定で塗装工事が行われていた。

DSCF0472.jpg
林業振興のシンボルとして、今から20年前の平成6年(1994)に旧広田村が造った。
長さ26メートル、幅5メートル。
スギ材で造られている。
DSCF0475.jpg
下の玉谷川は清流そのもの。
この橋が、神の森公園の入り口。ここから農村工芸体験館や道の駅ひろた・峡の館などの施設へとつながる。
新年には、また新しい装いでお出迎えしてくれるだろう。

所在地:伊予郡砥部町総津1786先

にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

愛媛県 ブログランキングへ


伊予港のスピーダーを覚えていますか。
覚えているだろうか、伊予港から大分港へスピーダーという“海の新幹線”が走っていたことを。
この航路が開設されたのは、平成7年(1995)7月7日。実に縁起のいいオール「7」のゾロ目の日だった。
しかし、3年も持たずに航路は夢のように消えた。
あれから15年余の歳月がたった。ということは、
10代の若者の多くは伊予港に定期旅客航路があったことさえ覚えていないだろう。

今、伊予港に行ってみると、場違いなモダンな建物に出会う。
そう、これが、航路のあったことを今に残す乗客待合室の建物なのだ。
それに、屋根付きだったと思われる通路が約50メートル岸壁近くまで伸びている。
いわば夢の果ての遺産、深まる秋のなかでわびしさが募る。

  DSCF0261-001.jpg
    (雑然とした港の一角に、色も鮮やかでモダンな建物が建っている。これが伊予ー大分航路の名残の待合室だ)
       DSCF0256.jpg
       (待合室の建物そばに建つ「伊予市観光案内図」の絵地図には、まだスピーダーが描かれたまま残されていた。)

 航路が開設された平成7年とは、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件と、大きな事故・事件が起こった不穏な年だった。その7月に海の新航路として伊予ー大分のスピーダーが開設、そして空では、4月には松山空港から初の定期国際航路松山ーソウル便が開設された年でもあった。現状を見ると、海路はなくなり、空路は今も飛ぶ。海と空で明暗を分けた格好だ。

 7・7・7の日の愛媛新聞には、航路開設の全面広告が出ている。「きょうから九州⇔四国、日帰り圏」のキャッチコピーで超高速双胴型旅客船「スピーダー」(375トン)を大々的にアピールしている。航海速力39ノット(時速72キロ)、最高速力42・5ノット(同79キロ)で、伊予港と西大分港を1時間45分で結び、1日3往復した。331人乗り。運賃は片道エコノミーシートで4,800円、ファーストシートで6,800円。-あなた、乗りますか。

 就航時の記念式典には、船がオーストラリア製だった関係で駐日オーストラリア大使も列席、市長をはじめお偉方がざっと130人出席して盛大に就航を祝った。伊予港第一便には259人が乗船、「従来のフェリーに比べ所要時間は約半分になり、九州がぐっと身近になりました」との声を愛媛新聞は伝えている。このブログの読者の方で、乗った方がいらっしゃるだろうか。

 伊予港と松山までは距離にして11キロで、松山地方と九州との日帰り観光やビジネスが可能になった-と、運航会社のダイヤモンドフェリーは、PRに努めたのだが、、、。

 残念ながら、利用客は伸び悩んだ、それを打開するため、同社は平成9年(1997)7月には、別府港への延伸を開始。伊予ー西大分ー別府にして、観光客の取り込みを企画したが、どうにも焼け石に水。年間の赤字は2億円にも上ったと言われ、翌平成10年(1998)3月26日に休止となり、再開されることはなかった。
              DSCF0259.jpg
                   (乗船口に向かってアクリル板の屋根がなくなった通路が、むなしく伸びている)

 乗り場だった場所には今、釣り人が糸を垂れていた。海鳥の声と楽しげな家族連れの釣り人の声が聞こえる。航路があった時のざわめきは全くない。歴史はこうして忘れ去られていくのだろう。後日談だが、あのスピーダーは、メキシコに売却されたという。今はどうしているのだろうか。

 伊予港に残るモダンな待合室の建物は、今は伊予市シルバー人材センター事務所となっている。さらに、屋根付き通路が待合室から乗船口まで約50メートルが伸びていて、ここに旅客航路があったことをしのばせている。この通路も、今は、屋根のアクリル板がなくなっていて、骨組みだけがさびしげに残っている。
  にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

愛媛県 ブログランキングへ


徳冨蘆花の心の“闇”と今治、そして文学碑
来島海峡大橋を臨む今治港。その地に異色の文学碑が建っている。
世界的な建築家の丹下健三が設計した珍しいもので、2メートル余の高さの御影石をモニュメントに使う。
明治の文豪・徳冨蘆花(明治元年1868-昭和2年1927)の文学碑だ。
蘆花は、思春期の多感な1年余をここ今治で過ごした。
今治を愛し追憶している蘆花。
さまざまな心の葛藤と戦ってきた蘆花は、瀬戸内の今治にひとときの安らぎを見出していたのではないだろうか。

  DSCF0405.jpg
      (丹下健三設計の個性的な蘆花の文学碑。バックには、来島海峡がー。蘆花もここで海をながめていたのだろうか。)
 明治時代の最大のベストセラーといわれるのが、徳冨蘆花(本名・健次郎)の代表作「不如帰」(ほととぎす)だ。蘆花は熊本県水俣の代々、惣庄屋や代官をつとめる経済的には恵まれた旧家で生まれた。しかし、5歳上に兄が、ジャーナリストの徳富蘇峰(文久3年1863-昭和32年1957)のいたことが、蘆花を終生苦しめることになる。秀才とたたえられる兄、いわゆる「賢兄愚弟」の関係にあって、内向的な性格が、劣等感をどんどんエスカレートさせていくのである。徳冨の「とみ」という字にしても、蘆花は冨を使い、蘇峰は富。蘆花はどうしても兄とは別にすることにこだわった。

 蘆花が今治に来ることになったのも、蘇峰との確執が大きな原因だった。

 明治11年(1878)の10歳の時に京都・同志社英学校に入学。12歳の時に退学して熊本に戻っていた。兄との劣等感に苦しむとともに、若い男の血潮とも戦っていた。蘇峰が新妻を迎えたことがさらに、鬱屈した関係になり、明治18年(1885)に、母親らとともに16歳でキリスト教の洗礼を受けたが、それ以降も、兄弟の溝は日に日に深まっていった。

 これを心配した両親が同年3月、蘆花を今治にいたいとこの横井時雄(今治教会牧師、のち同志社社長、衆議院議員)に預けることになったのだ。蘆花はキリスト教の伝道を手伝うとともに、今治英学校で英語教師となって過ごす。京都で2年余英語を学んだだけの16歳が、英語を教えるというのだから驚かされる。当然、語学力不足で、失敗も多かったというが、徐々になれてきて生徒にも人気があったとも言う。今治でようやくこころの平穏をえたのではないか。この今治滞在中に、漢詩の詩作を始め、文学に目覚めたという。蘆花という雅号をつけたのもこの時であった。

 今治の暮らしは、横井が京都・同志社へ移ることを転機にして、ピリオドを打つことになる。1年4カ月の日々だった。明治19年(1886)6月7日、今治を去る。その時の今治伝道日記、末尾の記述は名文である。

「夕風そよぐ甲板に佇み、後に去り行く今治の町を眺めていると、銀河につづく墨絵の陸(おか)に灯火の影がちらちらと映り、まるでそれは夢のように美しかった。いや、ひょっとすると今治における一年四カ月にわたる伝道生活は、夢の中の出来事であったかも知れぬ…と、暮れなずむ景色の中に、すでに点景となって遠ざかる今治の町をながめながら、そう思ったのである。」
             DSCF0412.jpg
            (この碑文を書いたのは、大三島出身の“現代書道の巨匠”村上三島だ)

 文学碑に刻まれているのは、「伊豫の今治 今治は余に忘られぬ追憶(おもいで)の郷(さと)である」-。
これは、大阪から別府までの船旅をした際の紀行文「木浦丸」の一節である。蘆花が今治での思い出を書いた作品は、「黒い眼と茶色の目」、「思出の記」(舞台を宇和島に変えている)、「冨士」などがある。

 蘆花は、今治を後にして、再び同志社へ入学。そこで新島襄の義姪と恋をしたが、反対されて熊本に帰郷した(この恋愛は「黒い眼と茶色の目」に詳しい)。余談ながら、この“恋愛事件”には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の八重も登場し、彼女にも反対されることになる。

 放浪の後、21歳で蘇峰の経営する民友社に入り、記者となる。そして、明治31年(1898)11月から国民新聞に連載を始めたのが「不如帰」。主人公・浪子の「人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は、日本の近代文学の名セリフのひとつといわれる。そのあとの「自然と人生」「思出の記」で、ベストセラー作家となった。漱石がでるまでは、蘆花が明治最大の文豪と言われたのだが、今日、文学史上での評価は未確定ともいう。代表作が文語体で書かれていることが不人気の要因の一つと見られるが、前記の日記の一節を読んだだけでも、名文家であったことは間違いない。

 永年精神的に葛藤していた兄の蘇峰とは、思想的にも相容れなくなり、明治36年(1903)についに「告別の辞」を発表して絶縁するのであった。

 物心ついてから、兄と比較し比較され続け、半世紀にも渡ってこころの闇となって引きずり続けていた兄との不和ー。蘆花が病で倒れた昭和2年(1927)9月、伊香保温泉で和解する。
 病床で蘇峰が言う。「おまえは日本一の弟だ」。
 蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうか今までのことは水に流してくれ。後のことは頼む」
 和解が成立した翌日、蘆花は息を引き取った。58歳だった。

(敬称略)
参考文献:「蘆花徳冨健次郎第1部」中野好夫、筑摩書房、「瀬戸内しまなみ海道 歴史と文学の旅」森本繁、浪速社、「愛媛の文学」図子英雄、愛媛県文化振興財団

 にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

愛媛県 ブログランキングへ


 
“丹下建築”の宝庫・今治
20世紀を代表する世界的な建築家、丹下健三。
父の故郷が今治だった関係で、彼も小・中学校の多感な時期を今治市で過ごした。
ここ今治には、初期“丹下モダニズム建築の宝庫”といわれるほど、数多くの丹下建築が今も残っている。
丹下が、今治を深く愛していたことの証左でもあろう。
生誕100周年のことし、その生誕日の9月4日(水)に「丹下健三と今治」のシンポジウムもここで開かれる。
丹下の残した“作品”を改めて見てみよう。
 DSCF0442.jpg
①今治市公会堂。昭和33年(1958)完成。丹下45歳時の作品。側面をギザギザの形状にした折板構造が印象的。壁自体にリズミカルな面白さがある。
 DSCF0444.jpg
②今治市庁舎。昭和33年(1958)完成。丹下45歳時の作品。立体感のあるファサードの構成がいい。右側に写っているのが平成6年(1994)完成の市庁舎別館。これも丹下の作品。
 DSCF0455.jpg
③旧今治信用金庫本店(現愛媛信用金庫今治支店)。昭和35年(1960)完成。丹下47歳時の作品。格子状の外観、まるで浮いているような大きな屋根が目を引く。常盤町4-1-15。
 DSCF0447.jpg
④今治市民会館。昭和40年(1965)完成。丹下52歳時の作品。大きなひさしは、3階の和室を広場の視線から隠す役割を持つとともに、近代建築と、伝統的な和風建築との融合を図っている。広場を挟んで市庁舎、公会堂、市民会館の丹下作品が並んでいる。
 DSCF0385.jpg
⑤旧今治信用金庫常盤町支店(現愛媛信用金庫常盤町支店)。昭和42年(1967)完成。丹下54歳時の作品。コンパクトな建物。愛媛信金になってから、青のカラーに。完成当初はシックな雰囲気だったという。常盤町6-6-8。
 DSCF0441.jpg
⑥今治地域地場産業振興センター。昭和59年(1984)完成。旭町2-3-5。
        DSCF0461.jpg
 今治シンポジウム「丹下健三と今治」は、瀬戸内国際芸術祭2013丹下健三生誕100周年プロジェクトの一環として開かれる。9月4日(水)19:00-21:00(開場18:30)、今治市公会堂(今治市別宮町1-4-1)で。定員1,000人。入場無料(先着順)。公会堂前駐車場は有料。
 パネリストは、磯崎新(建築家)、富永譲(同)、豊川斎赫(建築史家)、神八達成(元今治市建設部長)の4氏。丹下と瀬戸内のかかわりの出発点となった今治において、今治と丹下建築や、これからの街づくりについて考える。問い合わせは、今治市教育委員会文化振興課・電話0898-36-1608。

<丹下アラカルト>
・丹下健三(大正2年1913-平成17年2005)。大阪府堺市生まれ、父親が今治市出身で、住友銀行に勤務。父の転勤で中国・漢口、上海へ。7歳の時、一家で今治に帰郷。中学卒業まで今治で過ごした。
・17歳で広島高等学校理科甲類に入学。2浪して、22歳で東京帝国大学工学部建築科に入学した。33歳で同大学大学院修了、助教授に就任し、「丹下研究室」が誕生した。

・その後は、広島ピースセンターコンペで1等入選を皮切りに、64年の東京オリンピックの国立屋内総合競技場(現国立代々木競技場)、70年の日本万国博覧会でお祭り広場を手掛け、好評を博した。活動は日本だけにとどまらず、世界31カ国で330以上の建築や都市を設計した。また、多くの人材を育てたことでも知られ、彼の元から、槇文彦、黒川紀章、磯崎新、谷口吉生、浅田孝ら多数が活躍している。

・受賞歴は国内外で数知れず。愛媛県関係では54年に、愛媛県民館で日本建築学会作品賞を受賞している。文化勲章受章。今治市名誉市民。

・20世紀の日本を代表する建築家はだれか。雑誌「日経アーキテクチュア」の読者アンケート(2005年)によると、1位丹下健三、2位安藤忠雄、3位槇文彦、4位村野藤吾、5位谷口吉生の順。丹下と安藤との差は、わずか。丹下には、50歳代以上の人に支持者が多く、それ以下の人は安藤支持が多い。

・松山では、昭和60年(1985)愛媛県民文化会館が丹下の作品。

・平成17年(2005)3月22日、心不全のため死去。91歳だった。
(文中敬称略)
参考文献:「丹下健三 時代を映した“多面体の巨人”」日経アーキテクチュア、「丹下健三を知っていますか?」マガジンハウス
にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

愛媛県 ブログランキングへ





上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。