レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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これも木子七郎の傑作!
この建物が何かわかるだろうか。
和洋の見事な調和の建造物。伊予がすりの始祖・鍵谷(かぎや)カナの頌功堂という。
松山の萬翠荘や愛媛県庁を設計したあの木子七郎(きごしちろう)の傑作のひとつである。


IMG_2709.jpg 鍵谷カナ頌功堂
IMG_2697.jpg 長楽寺にある鍵谷カナの墓

 松山市西垣生町の長楽寺参道前にある。
 そもそも、頌功堂(しょうこうどう)なるものは、あまり聞いたことがない。手元の広辞苑をみても、なぜだか「頌功」という単語さえ載っていない。まあ、意味としては、「人の功績や人柄をほめたたえること」で、頌功碑というのは各地にあるが、お堂まで造った頌功堂は、それ自体珍しい存在ではなかろうか。

 ここで頌功されているのは、鍵谷カナさん(1782-1864)。この人こそ、久留米絣、備後絣とともに3大絣と言われた伊予絣の生みの親。伊予郡垣生村今出(現在の松山市西垣生町)の生まれ。研究熱心な人で、わら屋根に使っていた古竹にできていた縄目の跡にヒントをえて、新しい絣模様を織る方法を考案したといわれる。

 カナさんのおかげで、伊予絣は明治以降、隆盛を誇り、明治半ばには生産量日本一となった。発祥の地の今出地区では、機音が家々で響き、大いに繁栄したという。

 これだけの功績のある人物だから、伊予織物同業組合が昭和4年(1929)にこの頌功堂を建設した。設計したのは、愛媛にコンクリート建築を広めたあの木子七郎、萬翠荘や県庁、石崎汽船本社ビルなどを設計した優れた建築家が和と洋の合体したユニークな堂を造り上げた。八角形の反りの強い屋根をエンタシスの8本の柱(コンクリート造り)で支えている。中央に配置したのが、伊予絣始祖・鍵谷カナの頌功碑である。強い頌功の気持ちがあふれているような建物である。
 平成13年8月には、国の登録有形文化財に指定されている。

 余談になるが、実は長楽寺への道案内をたまたま通りかかった地元の女子小学生にしてもらった。途中、「カギタニかなさんの記念碑の場所も知ってますか」と聞いたら、「すぐ近くです。でもカギタニではなくカギヤです」と、訂正されて、こちらは恥ずかしかった。今でも、地元の人は鍵谷カナさんへ深い敬愛の念を持ち続けているのだ。
(写真撮影:平成25年3月21日)


交通ガイド:松山市西垣生町の市役所垣生支所や、三島大明神神社を目標に行く。その南側約100メートル。長楽寺を目標にすれば、頌功堂もすぐわかる。その長楽寺境内に鍵谷カナの墓(県指定史跡)がある。
所在地:松山市西垣生町751

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日本の農村の原風景を思い起こす、田丸橋
愛媛の屋根付き橋③ー<内子町⑥ー2>
田丸橋


 屋根の付いた橋、見たことのある人は、あまりいないのでは、、。それもそのはず、全国でも165橋しかない。その珍しい橋が、なんと21橋もあるのが愛媛県。
 なぜ愛媛に多いのか?。そのなぞ解きを徐々にこのブログシリーズでしていきたいが、さしあたって今回の橋は、内子町の田丸橋だ。

IMG_2848.jpg
               (農村の空気の中に溶け込んでいる田丸橋)
            IMG_2846.jpg
                          (橋の下は麓川の清流が流れる)                 
IMG_2838.jpg 
(屋根の内側には、橋の利用状況を描いた絵が数枚掲げられている)
 

 愛媛の屋根付き橋では、露出度トップ級の有名な橋がこの田丸橋である。なにしろNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」で秋山真之が帰郷の際にバックに登場してるし、NHKのドラマ「歩く、歩く、歩くー四国 遍路道ー」(田中麗奈主演)にも、映っている。ロケ地に選ばれる名所でもあり、内子町の町有形民俗文化財に指定されているし、土木学会選奨土木遺産にも認定されている。

 名所が必ずしも、感動の場所とはならないことは、しばしば実感することだが、田丸橋は一味違う。川沿いの道を屋根付き橋を探しながら、どんどん進んでいた時、「あっ、あれだ!」。その橋の見えたシーンが一番上の写真の光景だ。懐かしくて、心ときめく光景といったらおおげさか。畑のなかに、小さな橋が農村の風景に溶け込んでいる。屋根も含めて何の違和感もないのだ。どこかで見た日本の農村の原風景というか、ジオラマのよう。とにかく絵になる光景とはこういうのを言う。

 田丸橋が、全国的に注目されるのは、生活橋であることだ。屋根付き橋は、北海道から九州まで存在するが、その多くは、神社・寺院橋や公園橋。橋の学者の記述(昭和59年初版)の中には、一般生活のための屋根付き橋は「希有の例にちかい」とまで書かれている。愛媛には田丸橋を始め、生活橋がかなりある。それが愛媛の特徴の一つ。近年、ようやく愛媛の素朴な屋根付き橋に光が当たり始めたのだ。

 田丸橋は、元は麓川(ふもとがわ)にかかる土橋(丸太や橋桁を並べ、その上に敷き土をして、歩きやすくした橋)だったが、昭和18年の水害で流された。そして、翌年、今のような屋根付き橋に改修された。木造杉皮葺きで、方杖式構造(下側斜めに配置した方杖で桁を支持した橋)にして、水害に耐えるようにした。長さ14メートル、幅2メートル、高さ2.86メートル。

 水害で橋が流された時、なぜ屋根付き橋に変える発想が出たのだろう。それは、土地柄が大きい。この麓川流域には、元々屋根付き橋の多いところだった。ざっと10橋はあったという。田丸橋を、屋根付きに改修した理由は①木炭の集積場所が必要だった②橋の耐用年数が延びるーが大きい。

 木橋の寿命は普通20年といわれるが、屋根を付けたら、少なくとも2-5倍延びるといわれる。歩行者専用なら100年もつとも。(もちろん気象条件等によって変わる)。このほか、農作業時の昼食や休息、交流、憩いの場にも使えるメリットもあった。

 流域の屋根付き橋がコンクリート橋に次々変わり、姿を消していった中で、田丸橋が、まもなく古希を迎えることができるのは、①上流に清田橋ができ、車は清田橋を利用した②田丸橋保存会が昭和58年にでき、点検整備に力を注いでいる③内子町も屋根付き橋を風景の点景ととらえ、住民と一体となって橋の保存に努めているーーの3点が指摘できる。

 昭和40年には杉皮葺きを、トタン屋根に変えたことがあった。トタン葺きでは、興ざめもいいところだ。そのことに、内子町や住民自体も気づき、昭和57年に再び、杉皮葺きに替えた歴史もある。その後も修理や葺き替えを行い、保存活動に努めている。地域の宝物を、これからも守り続けてほしいと思うのは私一人ではなかろう。
(写真撮影:平成25年4月10日)

交通ガイド:国道56号の田中橋交差点から、石畳地区に向かう県道243号へ。約5キロ、待避所の道路が広いところに戦没者の碑があり、そこから間もなく右手に田丸橋が見えてくる。専用の駐車場はないが、道路にやや広い待避所があり、ここに5,6台駐車できる。
所在地:内子町河内(かわのうち)。


参考:全国屋根付き橋巡りホームページ
「郷土うちこ」28号、内子の屋根付き橋・大野千代美
「土木史研究」20号、日本の屋根付き橋の全国調査とその概要・長谷川英男、伊東孝、市古太郎
「橋と日本人」上田篤、岩波新書


 
  
今も現役です、大正湯
 前回は今治の昭和初期の洋風銭湯を紹介したが、お風呂つながりで今回は、大正湯。
八幡浜市にある和風レトロの銭湯の登場だ。

IMG_3739.jpg
        (ライトブルーのペイントで存在感を主張する大正湯)
 
 大正4年(1915年)にできた建物の銭湯。八幡浜で最も古い銭湯という。そして現在も、銭湯として営業されている。大正時代に開業したから、大正湯なのか?、それとも町名が大正町だから、大正湯なのか?。その答えは、後者。まあ、それはさておき、大正町に行って、少し歩いているだけで、タダものでないこの建物に気付く。なにしろ、写真で見たらわかるとおり、下見板張りの木造2階建て、独特のライトブルーの彩色だ。風格がある。ペンキがはげかかっているのは、歳月の経過を考えると仕方のないところ。

 建物の骨組みは、創業時のままだが、内部はこれまでに2回改修した。昭和20年代には、イモを洗うほど客が詰め掛けていたそうだ。そして、30代半ばまでは客が多かったが、自宅にお風呂が多くなってからは、お客さんは下降線の一途をたどり、今では高齢者の社交場のようになっているそうだ。 

 各地で、銭湯の廃業が相次いでいる。この大正湯とて、ずっと安泰というわけではなかろう。いつまで営業が継続できるか、心配になる。できるならば、あと2年で「100歳」を迎える大正湯は、近代化遺産の文化財として残してほしいのだが、、。
(写真撮影:平成25年4月16日)

参考資料:愛媛県生涯学習センターデータベース「えひめの記憶」

交通ガイド:港に向かって県道27号線(昭和通り)を行く場合は、大正町交差点を右折すると、見えてくる。
所在地:八幡浜市大正町1132



ワンダーランド!今治ラヂウム温泉
「今治には過ぎたるものが三つある。公会堂と今治北高、そしてラヂウム」。

昭和2年(1927年)に完成して以来、今治市民にもてはやされた銭湯、ラヂウム温泉。今治空襲にも耐え、86年を経過した今でも、現役でがんばっている。

IMG_3178.jpg
                (正面からみた今治ラヂウム温泉)
IMG_3185.jpg
            (後部から見ると八角ドーム型の浴室棟やレンガ煙突が異彩を放つ)

 愛媛県下で摩訶不思議な建物を選ぶなら、三本のうちに必ず入るだろう。今まで見たことのないような、何かアンバランスでユニーク。まさに、ワンダーランドの産物と言えまいか。

 なんといっても、気宇壮大な発想から産み出されているのがすごい。大島出身で製材業などで財をなした実業家・村上寛造氏が、孫子の代まで残るものとして、当時大阪にあった一大娯楽施設の市岡パラダイスの千人風呂を今治に持ってこようとしたのだ。業者も大阪から呼び、3年がかりで作り上げた。鉄筋コンクリート造り3階建てのダンスホール付きの大衆浴場が昭和2年にできあがった。

 今は、鉄筋コンクリート造りてなんてどこにでもあるが、日本で最初に造られたのは、明治42年(1909年)のこと。愛媛での鉄筋コンクリート造り3階建ては、大正11年の萬翠荘(松山)=国の重要文化財=が、今も残るものとしては最も古い。

 このあと、3階建て以上の鉄筋コンクリート造りをみると、一部3階建ての石崎汽船本社ビル(同)=登録有形文化財=が大正13年にできている。今治のラヂウム温泉の昭和2年建築は、県下で3番目の古さであり、近代化遺産として、文化財クラスであることは間違いない。ちなみに、愛媛県庁(同)は昭和4年にできている。
 余談になるが、ラヂウム温泉を除く、萬翠荘、石崎汽船、県庁の建物は、木子七郎の設計。彼こそ、愛媛における鉄筋コンクリート造りのパイオニアである。
 
 鉄筋コンクリート造り3階建てが幸いして、今治空襲の火災からも被害を免れ、また外地からの復員兵がこの建物をいわばランドマークにして、家路を探したとも伝えられる。

 元祖の大阪の千人風呂は昭和9年(1934年)の室戸台風で被害にあって、わずか10年で閉鎖したが、このラヂウム温泉は、今も銭湯として営業中。2階のダンスホールは、バレエ教室に替わっている。3階部分は昭和40年代に宿泊施設に改造されたという。創業者の希望通り、孫の世代まで残ったが、これからも、ぜひとも保存しておいてほしい建物である。
(写真撮影:平成25年3月2日)
所在地:今治市共栄町4丁目2-8

参考文献:愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)




 
内子町の「旭館」、登録有形文化財に申請中
内子町で知る人ぞ知る、観光名所が新たな脚光を浴びようとしている。
活動写真館「旭館」(のちに電気館と改称)。
内子町が、国に登録有形文化財の申請をしている。

     IMG_2898.jpg大正時代の映画館・旭館

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                            (入り口に掲げられている解説文)

 活動写真館なんて、その響きを聴いただけで何ともいえず、懐かしさでいっぱいになる。娯楽の王様だった映画が、TVの普及や別の娯楽の流行とともに衰退して、町からは映画館が次々と姿を消していった。
 松山では、スバル座、銀映、大劇によく行った。それに奥道後でもよく映画を見たものだ。今では知る人が少なくなったかもしれないが、奥道後には、確か4館ほどの映画館があって、入場すれば見放題。よくお世話になっていたが、、。今、奥道後にその面影はない。

 昔の映画館といえば、切符売り場は手が半分入るほどの小さなアーチ型の窓があって、お金と入場券を交換した。窓の向こうの女性がどんな人なのか、指先を見て想像した。そして入場券を半券を切る人に渡して入る。売店もあり、またトイレもあったが、ここにはアンモニア臭がつきものだった。ちょっと秘密めいた、ときめきみたいなものがあって、映画館にいくことは一種高揚感を伴うことだった。シネコンにはない、ロマンが「映画館」にはあったのだ。どんどん話が横道にばかり入っていくので、元の旭館へ戻そう。

 そんなこんなで、以前から、内子を訪問するたびにこの旭館の行方を見続けてきた。

 旭館の由来は、写真の解説文を読んでいただき、建物もまた写真をご覧いただきたい。いい雰囲気の建物とは思いませんか。これを内子町が国に登録有形文化財の申請をしたとの報を聞いて、うれしくなった。まだ文化財指定が決まったわけではないが、、。一時は、芝居小屋の内子座(大正5年=1916年建築)と興行を競い合ったこの旭館。今一度、光を当てたいと思う。

 所有者の方が、内部を一部改装したとも聞く。ただ、まだまだ内外装ともに、かなりの修理が求められているような気がする。問題は予算だろう。この建物は、内子の近代化を見守ってきた近代化遺産であることは間違いない。広く、町民、県民、国民から改修予算を募ることは難しいのだろうか。

 入り口の戸が開いていたので、少し中を見ると、東映映画のポスターが6,7枚貼られていた。カラーと言わず、総天然色という文字がポスターに。美空ひばり、大川橋蔵、古い古い古い、、、。
 予算が許せば、内部は昔の映画のポスターを展示してもいいかも。世の中には、コレクターが多いから、協力を仰げば、すごいお宝の記念館になるかもしれない。

 なお、「愛媛県の近代化遺産」(県教委発行、平成25年3月)では、建築年を大正15年(1926年)3月としている。これは発起人の徳田徳三郎氏が役所に提出した建物建築申告の写しに基き、その後援会記録に「大正15年3月起」とあることから、15年説を採用している。
(写真撮影:平成25年4月10日)

交通ガイド:所在地は内子町内子。大森和蝋燭屋の前、森文醸造株式会社のそば、案内標識があるから、森文醸造を目当てに行けば、すぐわかる。


**次回からブログのタイトルを「レトロ旅えひめ巡り」に変更いたします。読者の方からブログのタイトルが内容としっくり合っていないとの指摘があり、より内容にマッチしたものにいたしました。

聖の世界に向かう橋/内子の太鼓橋
愛媛の屋根付き橋②ー内子町⑥-1
弓削神社の太鼓橋


     IMG_2875.jpg

 離合も難しいような山道をどんどん行く。ほんとうにこんなところに神社があるのか。不安が脳裏をよぎる。さらに山を登って行ったら突如、出会ったのがここ、内子町石畳東の弓削神社。やっぱり、あるじゃないか、お目当ての屋根付き橋。ため池の上に木造の橋が参道となって、弓削神社の森へと通じている。

 長さが22メートルもあって、この橋を一歩一歩進むごとに、俗界から聖界へ近寄っていく感覚になる。ここはまさに、俗と聖を結ぶ結界の橋である。

 地元の人は、弓削神社の太鼓橋と呼ぶ。いつごろからあるのか。神社自体の創建は今から600年余も昔の室町時代、応永3年(1396年)なのだが、太鼓橋については詳細が分からない。ただ、池の手前にある大師堂(文化2年=1805年=に再建)の記録によると、「橋は江戸時代からあった」とされている。県下の屋根付き橋としては、西予市城川町の竜沢寺にある堰月橋(えんげつきょう=嘉永2年=1849年建造)が最も古いとされているが、実際はこの太鼓橋の方が古いのかもしれない。

 橋の概要に触れておくと、全長は22.05メートル、幅1.58メートル、高さ2.5メートル。屋根は杉皮葺き、床板は檜材、橋脚には水に強いといわれる栗の丸太が使われている。昭和37年には、太鼓橋を含む弓削神社の境内は、内子町文化財に指定されている。

 最近では、平成17年に地区住民の手で橋脚2本の取り換えや杉皮屋根の葺き換え修理を行っている。外見からは何か橋自体がひずんでいるようにもみえるが、渡ってみると造りは意外に頑丈。今しばらくは、修理なしで風雨に耐えてくれそう。ぜひ後世に残しておいてもらいたい橋だ。
(撮影日:平成25年4月10日)


交通ガイド:国道56号線の田中橋交差点から石畳地区への道、県道243号を進む。石畳小ー満穂郵便局ー石畳の宿ー石畳清流園を通って山道を進めば、弓削神社。
この石畳地区への道は、拡幅工事のため6月30日まで、時間制限で交通規制が1か所行われている。日曜日とGW期間(4月27日‐5月6日)は規制なし。また、11:40-13:00の時間帯も規制なしだが、その他の時間帯では、最悪では1時間ほど赤信号になるので、途中の規制看板で規制時間のチェックを。


松山市に今も残る掩体壕
平和な松山に今も残る掩体壕は何を語る

「えんたいごう」?。漢字で書くと掩体壕。百聞は一見に如かずで、写真を見れば、なんとなく利用目的が分かるだろう。そう、戦闘機の格納庫なのだ。

 松山空港近くの松山市南吉田町には、今も太平洋戦争時の掩体壕が3か所残っている。
 歴史の証人のようなこの壕も、時代の流れとともに姿を変えている。ぜひ今のうちに見ておいてほしい。

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(松山の掩体壕1ー改造されて事務所に変わっている)

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(松山の掩体壕2ー農業倉庫として利用されている)

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(松山の掩体壕3ー民家とすごく接近、駐車スペースとしても使用)

 松山空港には太平洋戦争時の昭和18年に、松山海軍航空基地がおかれていた。その翌年から、掩体壕が造られ始め、その数はコンクリート製38基、土製25基の合計63基にも上る。貴重な機体を広範囲に分散し、敵の爆撃を避けようとする意図のもとに計画された。当初は、鉄筋コンクリート製だったが、だんだん資材不足で竹筋や土製に変わっていった。

 終戦後、借り上げていた土地は、掩体壕の付いたまま所有者に返還され、昭和23年にアメリカ極東空軍が撮影した松山海軍航空基地の航空写真には、コンクリート製の掩体壕が6基しか映っていないことから、かなりの速さで取り壊しが進んだようだ。今残っている掩体壕を見てもわかるとおり、大きさは幅が約25メートル、奥行約15メートル、高さ約8メートルの代物。爆撃から飛行機を守るのだから、コンクリートの厚さは半端じゃない。解体するのは大変な作業。取り壊し料を所有者にわたして、返還されたようだが、その料金ではとても壊せなかったともいう。そんなこともあって、解体を免れた掩体壕が今、3基残っているわけだ。

 とはいえ、この南吉田の地は、宅地化の波がどんどん押し寄せている。農業倉庫として使われている(写真2)を除けば、あとの2つは新しい住宅群の中に喰いこむような形で残っている。そのうちの(写真1)は、これまで松山での代表的な掩体壕として、田の中に孤立してあり、建造当時のままの姿を見せて格好の撮影媒体だったのだが、宅地化がこの壕にも迫り、ついに数年前には壕自体が改造され事務所に変わっていった。見方を変えれば、戦後もすでに68年たち、新しい平和な用途に使われていると言えるのかもしれない。
(写真撮影:平成25年3月21日)


(参考:「翔べなかった少年兵ー松山海軍航空隊始末記ー」池田宏信著、晴耕雨読社)

【交通ガイド】空港通り(県道松山空港線)を松山空港に向けて走リ、スーパーABCのある交差点を左折して県道伊予松山港線に入る。約150メートル進み、堂之元橋のそば、右手に見えるのが、写真2の農業倉庫になっている掩体壕。
 堂之元橋からそのまま約100メートル松前方面に進み、新しくオープンした「麺喰亭しんさく」近くの交差点を右折し、約50メートル行ったところ付近の空き地から、よく見ると掩体壕の後部が見える。ここが写真3で、最もわかりづらいところ。
 再び県道伊予松山港線へ戻り、約100メートル進み、ファミリーマートのある信号交差点を左折、約100メートル進めば、写真1の事務所に変わった掩体壕が目の前に見えてくる。

 参考までに、掩体壕の付近番地を記載しておきます。大体の目標にしてください。
写真1(事務所使用)南吉田町512-7付近
写真2(農業倉庫使用)南吉田町1020-10付近
写真3(住宅に喰いこむような掩体壕)南吉田町639-3付近 

松山市で唯一の屋根付き橋
愛媛の屋根付き橋①ー松山市ー      

 愛媛県は全国的に最も屋根付き橋が多く残っているところである。特に内子町や旧河辺村(現大洲市)に現存数が多いが、松山市にもただ1箇所、屋根の付いた橋がある。ここは、四国88か所47番札所の八坂寺(松山市浄瑠璃町)である。

    IMG_2792-001.jpg
                                 八坂寺の入り口にある極楽橋 

           IMG_2798-001.jpg 天井の極楽図

 山門を彩る唐破風銅板葺き屋根の風格ある姿。擬宝珠(ぎぼし:欄干の柱頭などにつける宝珠の飾り)の付いた朱色の欄干も美しい。その名を、「極楽橋」という。天井には極楽図が描かれている。
 長さは3.86メートル、幅員2メートルしかないから、すぐにわたり切ってしまう。橋上には、木製のベンチが置かれていて、遠来のお遍路さんらのくつろぎの場にもなっている。平成6年に完成した。側面から見ると、石造のアーチ橋のように見えるが、実際はコンクリート製で、石にさほどの厚みはなく、単に装飾として使われていた。

 季節は春。訪れる車のナンバーは、全国さまざま。そして、歩き遍路も、金剛杖と一緒にゆるやかな坂を上り、この門に一礼して境内に入っていく。白装束が、またひとり、またひとりと。
【写真撮影:平成25年4月4日】


(愛媛県内にある屋根付き橋をこれから不定期に順次、紹介していきます。)



 
存続は風前のともしび、松山市三津浜の洋館
 松山市の三津浜地区は、知る人ぞ知る「近代化遺産」の宝庫の町である。

濱田医院/2013.4.1撮影
    (建築から約90年、屋根や窓などの傷みが目立つ旧濱田医院の建物=松山市住吉2丁目)

 戦災を免れたため、明治から昭和初期にかけての建築物が数多く残っている。そのうちの一つの洋館は、老朽化が進み今や存続は風前のともしびである。今見ておかないと、再び自分の目で見ることはできないだろう。(平成25年4月1日撮影時点)

 この洋館は、三津浜地区のほぼ中央にある旧濱田医院の建物。古い和風の民家の目立つ三津浜地区だが、その中で大正ロマンのムードを漂わせ、ひときわ異彩を放っている擬洋風建築(日本の大工棟梁が、見よう見まねで洋風を表現した建物)だ。内科・産婦人科医の濱田徳次郎氏が建てた。建築年は明確ではないが、大正12年(1923年)から大正15年(1926年)のモノと推定される。徳次郎氏は、昭和47年(1972年)までざっと半世紀にわたって地域医療に貢献してきた。

 2階建ての屋根下に「濱田医院」の文字が刻まれ、見ただけで医院とわかるし、建物自体の雰囲気も病院らしさを漂わす。入り口にレンガの門柱、鉄製のフェンス、前庭にはヤシの木が伸び、洋風に彩りをプラスする。

 しかし、閉院してから放置された状態が続き、今では建物の傷みが激しくなっている。ガラスは10枚ほど割れているし、特に屋根の傷みが目立ち崩壊の危険性が出てきている。また、しっくいもはげ落ちつつある。立ち入り禁止の柵で囲われ、いつ解体作業に入ってもおかしくない。本当に、今見ておかないとー、である。
 松山市内でここ5,6年内になくなった近代化遺産といえる建物は、立花の洋館・T氏邸(昭和9年建築)、道後湯月町の旧遊郭「朝日楼」(大正初期建築)などがある。まだあるだろうと思って見に行ったら、駐車場に変わっていた光景は、本当にショックなものだ。

 旧濱田医院の場所は、松山市住吉2丁目2-20。伊予銀行三津浜支店の交差点を西へ約500メートル、正覚寺のある押しボタン式信号交差点を北に入り、最初の交差点を西へ曲がり、30メートル進めばそこが、旧濱田医院。この付近を含め、三津浜地区は、道が狭い。三津浜の古民家を見学するなら、車は離れたところに止めて歩いて見学することをお勧めする。

 気候も良くなって、三津浜の古い建築物を散策するのはどうだろうか。有名な見どころは、登録有形文化財の石崎汽船本社ビル(大正13年)と森家住宅(昭和4年)だが、三津浜の通りを歩くといたるところに大正や昭和初期の建物がある。結構見あきない。洋館も旧石川医院(昭和初期)が“健在”だし、松山西警察署近くには、旧白楊会館(昭和9年)があり、ここは洋食屋「からす」として盛業中だ。