レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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木造3階建ての迫力と美
木造の3階建て。それだけで、風雅を感じる。
ここは八幡浜市北浜の元旅館「竹家(たけのや)」。
今も、街角にたたずみ、往時のロマンを語りかける。


   IMG_3769.jpg
          (思わず、“いいね”と言いたくなる木造3階建ての元旅館「竹家」)

 八幡浜市役所の近く、広い通りから道1本隔てたところにある。威風堂々としているが、周りの建物とは異質の存在で、ちょっと浮き上がっているようにも見える。周囲を見渡しても、これといって景色のいいところはない。この3階部分からお客はどんな景色を見たのか。なぜ、この地に建てた?ー疑問に思っていたら、当初の場所から移築して昭和20年ごろからここにあるのだそうだ。

 最初に建ったのは昭和初期。八幡浜港の別府航路の乗り場そば。3階から見れば、出船入船の展望のいい、潮の香漂う格好の場所だったろう。当時の八幡浜は、後背地に西宇和の機業を持ち、「伊予の大阪」といわれるほどの一大商業地で、人・モノの往来でにぎわっていた。そんな港にこんな立派な旅館があれば、大繁盛したことだろう。

 八幡浜では今でも、各所に木造3階建ての建物が残っている。木造3階建てが多いのは、八幡浜の特殊性による。同地は平地が少なく、海を埋め立てて発展した町だから、垂直に伸ばしていくしかなかったという事情があったという。それでも、多額の金がかかるのにあえて3階建てを選択したことは、それだけの財力が八幡浜にはあったということ。往時の八幡浜の繁栄を、木造3階建てが物語っている。

 戦災を免れた八幡浜。中心地を歩いていれば、突然3階建てに出会うこともあるし、「擬洋風」や「看板建築」という大正から昭和初期にかけての建物も数多く残っている。ゆっくり町並み探訪してみるのも面白い。
(写真撮影:平成25年4月16日)

交通ガイド:所在地・八幡浜市北浜1丁目6-17

参考文献:愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)

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珍しい! 煉瓦造りの燈明台
高さは5.7メートル。赤レンガの燈明台がどっしりと瀬戸内海を見つめる。
海運で近代化の扉を開いた今治・波方。
その船主たちの、熱い想いが全国的に珍しい煉瓦の燈明台を造らせた。
これを、金毘羅燈明台という。


    IMG_3172.jpg
            (今は、移築されて玉生八幡神社境内に建つ)

 ここ、今治市波方は、一杯船主の多いところで、明治末期には帆船組合ができ、瀬戸内海を舞台に活発な商いを繰り広げていた。
 
 その海運業と金毘羅さんは、切っても切れない関係にある。商売繁盛、航海の安全の神様。だから、この地の明治の海運関係者は、燈明台を、それも文明開化のシンボルとなっていたレンガで造った燈明台を、玉生八幡神社の境内にある金刀比羅神社に常夜灯として奉納したのだ。進取の気質に富み、時代の波を乗り越えるパワーを持つ波方の海の男は、いち早く文明開化をこの地に持ってきたのだ。

 ただ、正確な建造年はわかっていないが、古老の話などから明治時代後期と推定されている。波方港フェリー桟橋前に建てたが、平成17年の県道拡幅工事によって、約10メートル移動して、現在の玉生八幡神社境内に移築された。レンガ部分だけでは高さ4.2メートル、それに石垣の土台がついて、その土台を含めると、5.7メートルもの高さになり、迫力を増した。

 ところで、この燈明台とは?。広辞苑によると、「神仏に供える灯火をともす台。灯台」とある。幕末には、燈明台という灯台が全国に100余基あったという。また、それとは別に海岸近くの社寺の灯篭は、常夜灯と灯台を兼ねたものが、奉納されていたという。この燈明台も、昭和初期の海図に掲載されていることから、灯台としての役割も持っていたとみられ、常夜灯と灯台の兼用タイプとみられる。
 
 今、全国でレンガ造の燈明台は、埼玉県ふじみ野市の苗間神明神社(なえましんめいじんじゃ)の燈明台(常夜灯)と、ここ波方の金毘羅燈明台の2か所しか残っていない。前者は、ふじみ野市指定文化財になっている。今治市も、文化財指定を考えてはどうだろうか。
(写真撮影:平成25年3月2日)

交通ガイド:今治市波方町波方、玉生八幡神社境内。波方港フェリー乗り場を目標に行けばいい。

参考文献:愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)
     愛媛県の近代化遺産(県教委)

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「美しさ」と「特異な技法」を持つ煉瓦橋
煉瓦でできたアーチ橋が松山市柳井町にある。
哀愁を帯びた美しい景観は、あたりを明治時代にタイムスリップさせる。
この橋は、ただ単に美しいだけではなく、
全国的にも珍しい技法で造られている貴重な橋でもある。

   
       IMG_3403.jpg
(120年以上も経っているが、上部は電車、下部は人や車が通る、今も現役なのがすごい)

IMG_3408.jpg
(軌道と車道が斜めに交差しているため、扇のようにレンガを積んで、加重の問題を解決している)
EPSON003.jpg

 正式な橋の名前は、「伊予鉄道横河原線・第26号溝橋」という。
伊予鉄道が平井河原線(現・横河原線)の開業に合わせて、その前年の明治25年(1892)ごろ、架橋した。石手川を横切るすぐ手前にあり、軌道をかさ上げすることによって、道路を遮断することになるため、ここに煉瓦のアーチ橋を架けることになった。

 問題は、軌道と道路が斜めに交差していることだった。こういう地形に煉瓦アーチ橋を普通の技法で造ると、力学的に加重がかからないところが出るため、明治期の技法としては、「ねじりまんぽ」という技法を使うのが一般的だった。アーチ内部の煉瓦を斜めに積み上げ、内部から見ると煉瓦が螺旋状に並ぶ特異な技法だ。

 だが、ここで採用されたのは、上部の煉瓦を少しずつ角度を付けながら扇のようにシフトさせる技法。これで一般のアーチ構造でありながら上部を水平に仕上げているのだ。この技法について、「鉄道と煉瓦」の著者・小野田滋氏は、その著のなかで「現在までのところ、同様の方法を用いた斜めアーチは知られておらず、また工学書などにも登場しないことから、極めて独創的な技法である」と、いう。日本で唯一の貴重な煉瓦橋なのである。

 斜めアーチにつきものだった「ねじりまんぽ」の技法は、明治初期に雇い外国人によって伝わり、明治10年代後半から30年代にかけて鉄道の敷設とともに全国に広がっていった。しかしながら、この技法は、愛媛ではまだ確認されていないように思う(もし、現存物があるようなら、ご教示を)。伊予鉄道の採用した技法では、煉瓦の使用枚数が多くなるデメリットがあるが、技法的には容易で、かえって工期は早まったのではないかと思われる。

 平成24年度の土木学会選奨土木遺産に認定され、「煉瓦の積み方の工夫により、直行しない道路上へのアーチを実現しており、120年経った今なお現役で、その姿が市民に愛されている橋である」とされている。また平成15年には松山市の「景観形成重要建設物」に指定されている。
 
 ぜひ、行って見てください。煉瓦橋のしっとりと落ち着いたいい雰囲気を感じてください。腰壁の煉瓦はイギリス積(長手だけの段と小口だけの段を交互に積む)。トラックなどが側壁に接触し、ところどころに煉瓦が傷つけられていて、痛々しい。
(写真撮影:平成25年3月11日)

交通ガイド:所在地・松山市柳井町2丁目。
松山成人病センターの南側角の一方通行道路を約100メートル行く、伊予鉄横河原線に架かっている。一方通行路だけに道は狭い。駐車スペースはないので、他に駐車して歩いて見学するのがいい。また、上部の特徴ある煉瓦の扇形シフトを見ることも可能だが、軌道上の立ち入りは厳禁。電車の走行には、十分にご注意を。

参考文献:「鉄道と煉瓦」(小野田滋著、鹿島出版会、2004年8月25日)
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長浜大橋が“平成の大修理”へ。
長浜大橋は、日本で現役最古の道路可動橋で、開閉を楽しみに訪れる人も多い。
そして、下の写真は今、橋に掲げられている看板。
<「当分の間」開閉を中止させていただきます。>

この当分の間とは、どのくらいか????。


IMG_2968.jpg
             (地元の人が赤橋と呼ぶ長浜大橋に掲げられた看板)
 
 なんと、この「当分の間」は、1年以上にもなるという。
 定期点検で駆動部分にサビが見つかり、このままでは“危険”と赤信号がつき、開閉ストップ。
今後、県が総合点検を行い、駆動部分などをそっくり取り換えるなど、大規模な改修を余儀なくされている。だから、開閉再開は、「早くて1年、おそらくそれ以上かかるだろう」(関係者)ということになる。

 この橋は、国の登録有形文化財になっているため、修理する時には部品一つでも、元の通りにしなくてはならない制約があり、時には部品から造らなければならない。だから、費用も期間もかかっていく。

 それでも今のところ、「修理するー可動させる」方向は出ているようなので、じっと修理完了を待てば、また、赤橋の見事な開閉動作が見られるということ。地元でも、シンボルとなっていて愛着は深いし、観光の目玉でもある。修理期間は地元としても大きな打撃。開閉シーンを見たい人は、県内外に多い。だけど、この橋も既に78歳のご老体だ。あの厳しい肱川あらしの中でジーと耐えてきたのだ。じっくり治療して、また素晴らしいシーンを見せて欲しい。

 また、この7月31日まで橋脚部の補強工事も進められているし、周辺護岸の整備工事も続いている。この機会に、平成の3回目の大修理をすることになるようだ。(平成6年に補修し、可動装置も取れ替えた。さらに平成22年にも橋の一部付け替えを実施)。

 長浜大橋は、大洲市長浜町長浜の肱川河口に架かる。バスキュール式鉄鋼開閉橋(バスキュールとは、フランス語で跳ね上げ)。全長226メートルのうち、中央部の長さ18メートルの桁橋が上下に開閉する。

 着工は昭和8年(1933)10月で、開通は昭和10年(1935)8月。総工費は290万円で、現在の価格にしたら約20億円といわれる。

 完成当時は、船運が盛んで、開閉がフルに行われていたようだが、昭和40年ごろには月に1回程度にまで激減。最近では、観光と点検を兼ねて、毎週日曜日午後1時に開閉を行い、観光客らを楽しませていた。
 文化庁の登録有形文化財(平成10年)、経済産業省の近代化産業遺産(平成21年)認定。
 
 伊東孝・日大工学部特任教授によると、動く橋は日本にわずか3橋しか残っていない。うち2橋は鉄道橋で、道路橋として残るのは、長浜大橋だけ。「現在は国の登録文化財だが、希少性と貴重性からいえば国の重要文化財に指定されてもよい」と、伊東教授は高く評価している。(注1)
(写真撮影:平成25年5月13日)
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            (河口寄りにできている新長浜大橋からパチリ)
(注1)「愛媛温故紀行」アトラス出版
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屋根付き橋と清流、水車。絵になる光景
屋根付き橋はそれだけでもう、被写体として「絵になる光景」に間違いない。
絵描きでなくとも、最近はデジカメで「絵」の芸術に挑む人が多い。
そんな人に、お勧めなのがココ。水車に清流をプラスし、これでもう鬼に金棒と思うがどうだろうか。



愛媛の屋根付き橋④ー<内子町⑥ー3>
清水川橋


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   IMG_2864.jpg(竹葺きの屋根が珍しい)
       IMG_2863.jpg(大きな水車がここに3基あった。)

 愛媛に21か所ある屋根付き橋のうち、ここは平成16年(2004)11月3日にできた、最も歴史の浅い橋だ。内子町石畳の清流園の中にある公園橋で、清水川橋という。この石畳地区は、昔は水車が30基近くあったところ。地区の人々は、古い道具や農村文化を復元して残していくことで村おこしを図ろうと、水車小屋を中心とした「清流園」という公園を整備している。その景観にマッチするよう、造られたのがこの屋根付き橋だ。

 長さは8メートル、幅は1.3メートルの小ぶりなタイプ。屋根は切り妻(本を半分開いて伏せた形)、内子では杉皮で葺いた屋根が多いが、ここは竹葺き。孟宗竹を半分に割って重ね合わせて屋根にしている。これが一番の特徴といえる。

 この橋を渡ったら、目の前に水車小屋がある。川にもすぐ降りれる。そのアングルから、屋根付き橋を狙う。清流が滝のようになっていて、頭の中ではすごく芸術的な写真が撮れたと思ったのだが、、、、。カメラを持つ人はみんな芸術家。ぜひ傑作をものにしてもらいたいと、思う。

 子供を連れて、川遊びやバーべキュウのアウトドアレジャーにもお勧めスポット。
(写真撮影:平成25年4月10日)

交通ガイド:国道56号線の内子・田中橋交差点から、石畳地区へ向かう県道243号線へ、同じ屋根付き橋の田丸橋(内子町有形民俗文化財)を通り過ぎて、道なりに約30分で到着。ここから、弓削神社の太鼓橋へ向かうこともできる。

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四国で最初の防空壕が、八幡浜に今も残る。
 空襲から避難するため、主に地下に造られた施設が防空壕だ。
 団塊の世代前後の方なら、子供のころ山膚に隠れるようにあった洞窟状の防空壕を見たり、探検したことがあったのではないだろうか。

 しかし、戦後も既に68年。開発の名のもとに防空壕は次々姿を消し、今ではほとんど見ることもなくなったが、ここ八幡浜には、四国で最初に造られた防空壕が、今もほぼ完全な形で残されている。
 
   IMG_3786.jpg(山膚に要塞のような防空壕が顔を出す)

 山奥にあるのではない。八幡浜市役所から歩いて10分もかからない。八幡浜市幸町、愛宕山の山すそにひっそりとたたずむのが「八幡浜第一防空壕」だ。入り口上部には白タイルに一文字づつ自身の名前を記載している。右から左に向かって読む。

 なんたってすごいのは、着工が昭和15年(1940年)5月(*注1)で、翌16年2月に竣工していること。太平洋戦争が始まったのは、昭和16年(1941年)12月8日だから、まるで、日本の戦局悪化、本土空襲を予期していたかのよう。これが四国で最初の本格的な防空壕といわれる。
 
 なぜ、開戦前に防空壕を造ったか。それは、昭和15年(1940年)と関係がある。1940年は、神武天皇の即位から2600年、いわゆる「皇紀2600年」で、これを記念して内閣主催で盛大なイベントがひらかれた年であった。
 中止にはなったが、東京五輪や東京万博もこの記念行事として計画されたものだった。美術展や武道大会などのほか、記念の石碑が全国各地に建った。今も、その名残の石碑の残っている神社が多いことからも、国を挙げてのビッグイベントだったことが分かる。話が長くなったが、この皇紀2600年の記念行事として、八幡浜が計画したのが、この防空壕の建造だったのだ。その伏線としては、昭和12年(1937年)の防空法の成立で防空への意識が高まっていたことが指摘できよう。記念碑を建てるより、はるかに有益なことと思える。

  
 造ったのは、軍部ではなく、八幡浜警察。「空襲時の市民の避難場所」として計画された。そして、実際に建設工事に従事したのは、在日朝鮮人の人たちだった。

 どんな構造になっているかといえば、コンクリート造りで、入り口は東西にそれぞれあるが、高さは1.8メートル、幅1.2メートルでやや狭い感じ。内部は全長15メートルのコの字形の通路があり、中の広いスペースは奥行き10メートル、幅4メートル、高さ2メートルある。約200人が避難できる規模。トイレや洗面所も備え付けられている。完成時は照明設備もあった。軍の施設以外の防空壕で、これほどの規模や保存状態をもつものは少ない。戦時遺産として必見の防空壕といえよう。

 八幡浜は大規模な空襲は受けなかったが、米軍機による機銃掃射はあり、実際に何度かは市民が避難場所として活用したという。

 不思議なのは、この防空壕は終戦とともに忘れられた施設だったこと。それがなんと、戦後56年経った平成13年(2001年)に突如、再登場するのだ。戦後すぐに、この防空壕前に貝ボタン工場ができていたのだが、その工場を壊して更地にして、山のような貝の残骸を片付けたら、そこに現れたのが、この防空壕だったというわけだ。

 完成時には大々的な式典が催されながら、戦後は一切、人の目に触れることも、話題にも上らない施設になっていた。これはひょっとしたら、人々は、この防空壕を記憶から消したかったのではないだろうか。負の遺産には、なにか暗く悲しい想いが隠されているような気がしてならない。

 半世紀以上も誰にも邪魔されず、眠り続けていたから、保存状態は極めて良好。今は、地元の人たちの有志が、防空壕の管理をしていて、その管理者に連絡すれば、内部も見学できる。(現場に行けば、管理者名が記載されている)。
(写真撮影:平成25年4月16日)

交通ガイド:所在地・八幡浜市幸町。八幡浜市役所に車を止めて、梅美人酒造株式会社を目当てに歩くのがお勧め。梅美人酒造は、レンガの煙突や洋風の事務所が、国の登録有形文化財になっている。ここまできたら、防空壕の案内看板が見えるだろう。

参考文献:愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、愛媛の近代化遺産(県教委)

(注1)この防空壕の着工の月には、資料によって違いがある。地元の案内板には昭和15年5月起工とあるが、八幡浜新聞では昭和15年10月起工式、上記の「愛媛の近代化遺産」では昭和15年12月29日着工となっている。現時点では、一般的な5月説を採用した。後日それぞれの根拠を解明していきたい。


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