レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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“新3大”日刊新愛媛の前代未聞
日刊新愛媛という新聞社があったことを、あなたは知っているだろうか。
その本社だった建物が、近く姿を消そうとしている。

一時は四国で最大の発行部数を誇りながら、27年前、突然廃刊となった。
文字通り、前代未聞の出来事が次々と飛び出す、マスコミ界の“超異端児”的な新聞。
形は消えても、人々の記憶のなかに、しっかりと納めておいてほしい新聞でもある。
某TV番組にあるのを真似て、その“新3大”日刊新愛媛の前代未聞ーをまとめてみた。


      IMG_3371.jpg
       (廃刊1日前の昭和61年12月30日付、紙面に本社の写真が掲載されている)
               IMG_3363.jpg
     (旧日刊新愛媛本社=松山市問屋町。廃刊後は、愛媛新聞の印刷センターとなっていた)

<1、前代未聞の急成長> 
 日刊新愛媛の前身は、昭和35年(1960)に本社・宇和島市で創刊された「新愛媛」で、南予エリアに読者をもっていた。しかし、経営的には不振で、昭和51年(1976)に坪内寿夫氏率いる坪内グループの傘下に入り、社名を日刊新愛媛(以下、日刊と略す時もある)と改めた。その時の部数は、18,000部だった。まず本社を松山に移し、県紙として愛媛県下全域に販売網を築く一方、坪内グループの従業員をフル活用して、部数を急激に伸ばしていくのだった。値段の安さに加えて、映画の無料券や奥道後入場券をばらまく手法も駆使して、2年半後には58,000部、5年後には110,000部、昭和59年(1984)7月にはなんと25万部達成記念式典を盛大に開くのである。

 わずか10年足らずで、1万8千部から、25万部へ。新聞業界の常識を覆す、驚異の部数増である。一時は毎週日曜日に約300人がバスで拡張に走り、毎月1万部増えていったという。だから、当時無理やり取らされた人も多いのではないか。恐ろしいほどの坪内グループの人海戦術である。その躍進のあおりを受けたのは、言うまでもなく、もう一つの県紙・愛媛新聞である。伝統の上に胡坐をかいていたが、気がついたときには、日刊新愛媛に部数で追い越される事態になった。業績の落ち込みは激しく、あわやというところまで追い詰められていくことになったのである。

 それもそのはず、平均年齢で見ても愛媛が40歳代半ばに対し、日刊は26歳。社員数にしても5倍もの差があり、人件費は10倍程度の差があったと推定されている。愛媛は、昭和56年(1981)5月には小回りの利かない編集上の問題も露見した。午前1時前に飛び込んだ共同通信からの重大ニュース(「ローマ法王撃たれ重体」)に対し、日刊は1面トップをこれに差し替えたが、愛媛はその対応ができず、“特オチ”する。古い体質の企業が、新興企業にその座を脅かされる、ほかの業界にも通じるパターンがここにあった。

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            (日刊新愛媛の社旗。イベント時によく掲揚されていた=元同社社員提供)
<2、前代未聞の取材拒否>
 ネットで取材拒否を検索したら、必ず登場するのが、「日刊新愛媛取材拒否事件」。全国的なビッグニュース。信じられないことが、起こったのである。愛媛県が日刊新愛媛に対し、取材に応じないことを通告したのだ。

 きっかけは、県立高校増設に絡んで、愛媛県が地方財政法に違反して松山市に負担金を要求したという記事。日刊だけでなく、読売新聞、サンケイ新聞も同趣旨の記事を掲載した。ところが、日刊に対してだけ、「事実のねつ造」として、取材拒否を通告したのだ。読売やサンケイには抗議もしていない。3社がそろって、ねつ造記事を書くとは常識的に考えられないことぐらい、誰だってわかることではないか。この記事に問題があったのではなかろう。

 ではなぜ、日刊に取材拒否をしたか。
 これは、当時の愛媛県の白石春樹知事と日刊のオーナー・坪内寿夫氏の確執を抜きには語れない。両者とも、松山市の隣町・松前町の出身。政界と経済界の両巨頭なのだが、どちらもお山の大将。両雄並び立たずで、日刊には白石県政批判の記事がしばしば登場、対立に拍車がかかっていた。坪内憎しの私憤がベースにある。

 もうひとつ、批判を恐れず、私見を述べると、上記の“新聞戦争”でピンチに陥ったもう一方の県紙・愛媛新聞を救済するための強権発動ではなかったのかと思う。
 白石知事は昭和57年(1982)2月に「県紙・愛媛新聞と語る集い」に来賓として出席。「人間の裏をかき、弱みにつけ込むなど、公共倫理や常識が十分でない人物がマスコミを握ったら最も恐るべき言論の暴力の時代が来る」と、坪内・日刊を批判、返す刀で「愛媛新聞は県紙としての責任と使命の重大性認識して、『集い』を節目に今後さらに文化の振興、地域社会の発展のため一丸となって精進してほしい」と、公人の立場を忘れて愛媛新聞を激励している(当時の愛媛新聞報道)。白石知事と愛媛新聞は完全な蜜月関係にあったのだ。その新聞が、ピンチになり、反対に坪内氏の新聞が急上昇している、これはもう、放置できないところまできて、追い込まれた窮余の一策と考えられる。

 白石知事は、取材拒否について「事実を歪曲し、誤った報道を行うことは県民の正しい認識を阻害する。取材拒否は県民の知る権利を保護することになる」と、議会などで強弁していたが、後に「(取材拒否は)無謀なこととは十分承知していたが、当時は他に方法がなかった」(朝日新聞、1988年4月30日)と、本音を漏らしている。

 この取材拒否事件は、愛媛県だから起こったといえよう。その政治風土や県民性の問題が、白石知事の思っていたこと以上の恐ろしい結果を招くことになるのだから。

 「国や役所などのいわゆるお上には、従っておいた方がよいと考える人が全国で最も多い」のが愛媛県(NHK放送世論調査所「日本人の県民性」1979年)。確かに思い当たる。今でもそんな人が多い気がする。
 そんな県民性だから知事が、日刊を取材拒否すると言ったら、さまざまな団体が付和雷同して右にならえして、大きなうねりとなった。

 自民党県連を始め、県建設業協会、県農業会議、県立学校、県体協、愛媛経済同友会など、文化や教育界までが知事の顔色をうかがい、拒否組に参加した。祭りを取材する日刊の記者に立ちはだかり写真撮影までも妨害する県職員が出る始末。取材だけでなく日刊への広告自粛や不買にまでエスカレート。皆が、当時の白石知事の威光を恐れ、どんどん拡大解釈して行動していったのだ。もう完全な“いじめ”の世界だ。いじめなければ、いじめられると考える人や団体が日ごとに増えていった。

 それに情けないのが、日ごろ「知る権利」をふりかざして取材現場を闊歩している記者さんやその所属する報道機関。公権力による取材拒否が目の前で起こっても、抗議文一つださない。自分に火の粉がかからなければ、見て見ぬふり。ここも、権力者にモノが言えない連中がほとんどということをいみじくも露呈することになった。日本新聞協会の対応も鈍い。7か月も経ってからようやく、取材拒否特別委員会が事態の収拾に乗り出す。前代未聞の出来事に戸惑いがあったのだろうか。

 日刊新愛媛の県政批判や知事に近い人物への批判は、時には誹謗中傷的のものまで掲載されていたように思う。それに坪内氏への礼讃記事も目立った。しかし、それだからと言って、新聞を選別するのは知事ではなく、住民であり、公人の知事が取材を拒むなどもってのほかだ。どっちもどっちではない。権力者は批判にさらされなくてはならない。そうでなければ、いつのまにか、周りはイエスマンばかりで裸の王様になっていく。

 この問題は、拒否通告から3ヵ月後に、日刊が県と知事を相手取り取材拒否の取り消しと損害賠償を求めて松山地裁に提訴。県は拒否通告から1年4ヵ月後の昭和60年(1985)に、取材拒否の解除を日刊に通告した。訴訟の審理は進み、証人尋問なども行われ、判決が間近かになっていたが、日刊の廃刊から1ヵ月後に訴訟の取り下げが行われ、結局、取材拒否の是非を問う世紀の判決は出ないまま、終結したのである。

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                (廃刊、最後の紙面、昭和61年12月31日付)
<3、前代未聞の廃刊>
 県下最大、四国でも最大の発行部数を誇った日刊新愛媛。ところがである。

 25万部達成式典からわずか2年後、昭和61年12月末に突如廃刊した。その時点でも、日本ABC協会(新聞雑誌の実売部数を調査する第3者機関)で19万2千部あった新聞が、忽然と消えていくのである。経営危機に陥った時は、普通は、合併とか新会社にして、発行継続のケースが多いのだが、一気に廃刊とはー。日本新聞協会加盟の新聞が廃刊したのは、史上初めてのことだった。

 快進撃をしていた日刊新愛媛に、大きく立ちふさがり、結果として命取りになっていったものが、3つあった。一つは、上記の取材拒否による業績の悪化。二つ目はグループの本業の造船業を襲った“造船不況”、三つ目はオーナーの坪内氏の病気入院だ。この3つが絡み合って、急降下していく。

 まず、白石知事の取材拒否だが、取材を拒否するだけでなく広告掲載の拒否、不買へとエスカレートして、紙面から次々広告が消え、ボディブローのように体力をそいでいった。次に造船不況だが、これは昭和60年(1985)9月のプラザ合意以降、円高ドル安が進み、製造業、とりわけ造船業はピンチになっていった。坪内グループの拠点・来島どつく㈱は耐えきれず、当時の日本債券信用銀行(1998年経営破たん、現・あおぞら銀行)の主導での再建に取り組むことになった。同行の常務が、副社長として乗り込んできて、グループの命運を左右することになるのである。

 そして3番目は坪内氏の病気入院だった。「グループが経営危機に陥った最大の原因は、坪内オーナーの持病の悪化、入院にあった。オーナーは極めてカリスマ性の強い突出した経営者。グループの信用イコール坪内オーナー個人の信用といっても過言ではなかった。」「それだけに再起不能というデマが流布されたことが、信用不安を招き、これに三光汽船の倒産や造船不況が追い討ちをかける形となった」と、当時坪内氏の側近だった佐伯正夫氏は自著(「再建人生ここにあり」)の中で分析している。

 県の取材拒否は、昭和60年12月に解除されていたのだが、白石知事の「坪内=日刊新愛媛」への怨念の火は消えることがなかった。だから、日刊の存続とか継承は決して許さない、いや彼の持つすべての権力でもって日刊を抹殺する強い意志があったと思われる。
 
 それを裏付けるような話が、佐伯正夫氏の著書に出てくるので引用させてもらう。「日債銀から送り込まれていた副社長らに対し、白石知事が日刊新愛媛を廃刊にしなければ地元との協力関係は築けないーそういう主旨を伝えたという話が、私の耳に入ってきた」。さらに、その後、佐伯氏自身が日債銀本社に呼び出されて、当時の常務から言われたことが掲載されている。「廃刊ならば、ご要望にお応えするし、できる限りの保障もしたい。だが、続けるというならば、例え誰が引き受けたとしても、私どもとは一切関係ない。覚悟して行動してもらいたい」。日債銀は、最初から廃刊しか考えていなかった。

 昭和61年のおおみそかが、最後の紙面だった。1面には、長浜町・金山出石寺からの雲海の陽光がカラーで掲載されている。明るい希望にあふれたエヒメが来ることを信じて、日刊新愛媛の人は、編集したのではないかと思う。

 その後、日刊新愛媛の本社は、愛媛新聞の印刷センターとして使われていたが、老朽化に伴い、愛媛新聞社は伊予市に印刷工場を新設。7月からは新工場での印刷開始となる。それに伴い、旧日刊新愛媛本社ビルは早晩、解体の道をたどるだろう。

<エピローグ>
 激しく争った両雄も、鬼籍に入った。白石知事は平成9年3月に、坪内氏もその2年後の平成11年12月に。ともに85歳だった。あまりに大物すぎた2人。その後、2人を凌ぐ人物は政界にも経済界にも出てこない。

 白石VS坪内、愛媛新聞VS日刊新愛媛は、いったい何を残したのだろう。愛媛新聞は、ジャーナリズムの王道をいき、権力者にペンで立ち向かう新聞になっているだろうか。愛媛の政治風土や県民性に変化は出たのだろうか。事なかれ主義でなく、自分の頭で考え、行動する人が増えたのだろうか。

 戦いが終われば、戦いのことを忘れ去るが、今一度、新聞戦争の一コマから学ぶことがあるのではないか。

 
参考文献:宮住冨士夫「県紙の興亡」(自費出版)、佐伯正夫「再建人生ここにあり」(愛媛ジャーナル)、藤岡伸一郎「取材拒否」(創風社出版)、東玲治「記者物語」(創風社出版)、日刊新愛媛労働組合「輪転機止まる」
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秋山好古が揮毫した石碑
松山市和気の海岸に、行ってみた。
近年の県の整備事業で昔の白砂青松が蘇りつつあり、海水浴やデートのスポットになろうとしている。
歩いていて見つけたのが、「伊予12景」の石碑。ここ和気浜は大正時代に愛媛の名所に選ばれていたのだ。
伊予12景も気になるが、これを揮毫した人のことがより気になった。
「好古」とは、ご存知あの「坂の上の雲」の秋山好古のこと。
陸軍大将の力のあるいい字である。好古揮毫の石碑は県下に意外に多い、機会があったらぜひ触れてみてはー。
  
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                  (昭和2年に当時の和気村青年団が建てた記念碑。)
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(好古の銅像、松山市梅津寺の海の見える丘に建つ。弟の真之の像は海軍なのに、好古よりも山手の丘にある

 日露戦争で日本の勝利に貢献し、“日本騎兵の父”といわれる秋山好古。元帥位叙任の話を固辞して、大正13年(1924)4月、私立北予中学校(現在の県立松山北高校)の校長に就任、71歳で亡くなった昭和5年(1930)の半年前まで、校長として教育に尽力した。
 
 好古は、退役後に揮毫を頼まれることが多く、校長時代には極力これに応じたことから、書や石碑が県下に数多く残っている。石碑で見ると、ほとんどは「陸軍大将秋山好古」と署名しているが、個人的に親しい人や石碑の性格によって、肩書なしの「秋山好古」、「好古」と書いている。

 この好古揮毫の石碑については、元松山市教委の仙波満夫氏が素晴らしい研究をされている。そのまとめが「秋山好古揮毫の石碑写真集」(財団法人常盤同郷会)になっている。それによると、平成20年1月現在で、揮毫記念碑は県内39ヵ所、県外3か所の42か所に存在が確認されている。
 なかには、松山市高浜の荒神山の記念碑(摂政宮殿下特別大演習御野立場)のように、現場への道が雑草で埋もれ、雑草を刈り取らないと探訪できないところもある。

 以下、県下の石碑の場所等を上記書を参考にまとめてみた。

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(御大典・松山市清水小学校開校記念碑。碑文の「天壌無窮」とは、永遠に続くこと。愛媛県護国神社)
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(高さ4.63メートルの大きさ、松山市の厳島神社境内入り口に建つ。裏面には日清、日露の戦争で戦死・戦病死された方の名前を記載している。)

【松山市】①県護国神社(御幸)記念碑②厳島神社(神田町)表忠碑③正八幡神社(窪野町)注連石④荒神山(高浜町)記念碑⑤両新田神社(河中町)社号額⑥和気海岸(和気町)記念碑⑦湯築城跡ゆうぐ広場(道後公園)記念碑⑧⑨雄郡神社(小栗)記念碑・扁額⑩履脱天満宮(久保田)社号標⑪石鎚神社遥拝所(祝谷)碑⑫泉水寺(和泉北)記念碑⑬岩堰橋付近(石手)記念碑⑭大宮八幡神社(上野町)社号標⑮和霊神社・鎮守社(安城寺)注連石⑯姫ヶ浜(中島町)忠魂碑
【松前町】①O氏邸(北川原)記念碑②松前城跡(筒井)記念碑③素鵞神社(中川原)記念碑④恵依彌二名神社(出作)社号標
【伊予市】①伊曾能神社(宮下)社号標②五色浜神社(灘町)藤谷豊城翁像③大鷦鷯(おおささぎ)神社(大平)社号標④三島神社(中山町佐礼谷)忠魂碑
【東温市】①築島神社(下林)社号額②揚神社(北方)記念碑③総東風神社(山之内)忠魂碑
【久万高原町】笛ケ滝公園(上野尻)忠魂碑

【今治市】①山之内薬師堂(大西町山之内)記念碑②両社明神社(宮窪町余所国)忠魂碑③中村集会所横(宮窪町宮窪)忠魂碑④野々江八幡神社(大三島町)招魂碑
【西条市】①弘福寺(三芳)表彰碑②常石山(丹原町)忠魂碑
【新居浜市】瀛津(おきつ)神社(高津町)忠魂碑

【八幡浜市】覺王寺(松柏)記念碑
【西予市】①一宮神社(城川町)注連石②高野井公園(城川町)忠魂碑
【松野町】天満神社(蕨生)忠魂碑

(注)伊予12景:大正15年6月、海南新聞社(現・愛媛新聞社)の主催で選定された県下の名所名勝。1位は鹿島、次いで白猪の滝、極山の薬師、歌仙の滝、砥部銚子の滝、麻生金毘羅権現、久万の台、宮内天満宮、仙波ケ嶽、重信川、重信橋、和気浜の順。

参考文献:愛媛県百科大事典(愛媛新聞社)
写真撮影:平成25年6月18,19日
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国道56号沿いの屋根付き橋
松山から国道56号線を走っていると、内子町に入ってすぐ目に飛び込んでくるのが、
この屋根付き橋だ。
立地に恵まれていることから、見たことのある人も多いだろう。
町並みや景観を観光の目玉とする内子。PR役の先頭バッターといえよう。

愛媛の屋根付き橋⑤ー<内子町⑥ー4>
鳥居元橋

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                  (国道沿いの中山川に架かる鳥居元橋)
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                            (柱は杉材、床は檜を使っている)
 長さは26.3メートル、幅2メートル、杉皮葺き。県下で最も長い屋根付き橋である。側面から見ると、木造のようにも見えるが、橋桁下部はコンクリート造り。その部分を焼杉の羽目板張りで隠している。

 総事業費は6,100万円。2カ年継続事業で平成14年(2002)3月に出来上がった。元は木橋がかかっていたが、老朽化で取り壊すことになり、国の「ふるさと・水と土ふれあい事業」の補助を受け、この屋根付き橋にモデルチェンジした。

 橋の名前は、この地区名の鳥居元からつけた。
 対岸は農地が広がっているだけ。農家の人には便利だが、観光的には見どころに乏しい。対岸が水芭蕉かなにかで、花いっぱいの公園になっていると、足を止める人も出てくるのではないだろうか。
(写真撮影:平成25年4月10日)

交通ガイド:内子町立川
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レンガのフランス積みを探そう!
どこか懐かしさを覚えるのが、レンガ造りの建物。
どれも同じ図柄に見えるけど、実は積み方ひとつでデザインが違っている。
積み方の知識を学んでいると、もっと深い楽しみを味わうことができる。
まずは、下の写真をよく見て、上部と下部で積み方が違っていることが分かるだろうか。


IMG_3231.jpg
     (上部と下部で積み方の違う、貴重な外壁を持つ旧大洲商業銀行=現おおず赤煉瓦館)

          EPSON005.jpg

 違いがわかっただろうか。上部の積み方は、レンガの長手だけを積んだ段と小口だけを積んだ段を一段おきに積んでいる。これが、「イギリス積み」という方式で、県下のレンガ建造物の大部分を占める。そして、下部の方で色が濃くなっている部分の積み方が「フランス積み」という方式だ。よく見るとわかるが、一段に長手と小口を交互に積んでいる。この建物は、旧大洲商業銀行(現おおず赤煉瓦館)で、ひとつの壁面に、なぜかイギリスとフランスの2つの積み方が混在している珍しい建物だ。

 レンガの代表的な積み方は、4つある。上図の通り、①イギリス積み②フランス積み③長手積み(長手のみを千鳥に積む)④小口積み(小口のみを千鳥に積む=ドイツ積みとも言う)。*注1

 積み方の歴史は、日本では一般に明治初期はフランス積みが多く用いられたが、その後は大部分がイギリス積みに変わっていった。フランス積みは優美なのに対し、イギリス積みは堅固で経済的なのが特色、つまり合理主義が美しさを押しのけて広まっていったということだ。

 レンガ建造物は、明治から大正にかけて文明開化のシンボルのように全国に広がったが、関東大震災(大正12年=1923)で耐震性のなさが暴露されたのを契機に煉瓦からコンクリートへ、建材が交代していった。

 まだ、県下には明治から大正期のレンガの建築物や塀、橋脚、煙突などが残っている。レンガの建造物に出会ったら、ぜひ積み方をじっくり見て欲しい。そして、フランス積みを見つけたら、“バンザイ”だ。なにしろ県下でのフランス積みは、このおおず赤煉瓦館と八幡浜市保内町川之石の菊池家(「西のおやけ」=廻船問屋)のレンガ塀しか、一般的には知られていないのだから、ひょっとしたら新発見があるかも。

                       IMG_3239.jpg
                     (おおず赤煉瓦館の中央部壁面、色が変わっている部分にご注目を)

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【イギリス積み】赤レンガ倉庫として知られる旧東洋紡績川之石工場原綿倉庫

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【フランス積み】八幡浜市保内町川之石の菊池家の塀

(写真撮影:おおず赤煉瓦館・平成25年5月23日、八幡浜市保内町の菊池家・平成25年5月13日)

注1:フランス積みは、フランドル積みというのが、正確な名称。しかし、明治時代に誤訳されたフランス積みが日本では一般的に使われている。積み方には、他にアメリカ積み(長手積みを3-5段して、小口積みの段を一段入れる)、オランダ積み(イギリス積みの角に使うレンガサイズによって、オランダ積みとして分類する分け方もあるが、一般にオランダ積みを含めてイギリス積みと称する)などがある。

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これは、貴重な「金蔵」だ!
これは、新谷(にいや)藩の金蔵(かなぐら)。
見るからに堅固、防火や防犯に十分な備えをしている。
藩の金蔵が現存しているのは、愛媛ではここだけの貴重な遺構だ。


        IMG_3177-001.jpg
                       (土蔵造り、白漆喰塗の新谷藩金蔵)

 今、愛媛県は11市9町で構成されているが、江戸時代の幕藩体制では藩が何藩あったか知っているだろうか。
答えは8藩。東から西条、小松、今治、松山、新谷、大洲、吉田、宇和島で、これで「伊予八藩」という。
このうち、最も小さな藩が1万石の新谷藩と小松藩だ。特に、新谷は、平成の大合併前の自治体にもその名はなく、愛媛県民でも新谷の場所が分かる人は少ないかもしれない。

 今の大洲市新谷がその本拠地。元和9年(1623)に、大洲城主・加藤貞泰が二男の直泰に喜多郡上新谷村1万石を与え、支藩として立藩させ、その後明治維新まで9代230年にわたって加藤氏がこの地を治めた。

 幕府は3万石以下の大名に築城を許さないため、そのような大名は城ではなく、陣屋を築いた。ここ新谷の地には寛永9年(1642)に陣屋ができた。その跡地は、現在、新谷小学校になっていて、そこに藩の評議所・謁見所として使われた麟鳳閣(りんぽうかく、慶応4年建築)=県重要文化財=も残っている。

 さて、問題の金蔵だが、これは新谷藩の政務所に付随して建てられた金庫といわれる。
正確な建築年代は、確認できていないが、幕末の家中屋敷図に記載があることから江戸末期のものであることは間違いない。廃藩置県後は、新谷村役場が使用し、重要書類の保管庫となっていた。

 間口、奥行ともに4.34メートルの正方形の建物。本がわら葺き切り妻、平屋建ての土蔵造り。白漆喰塗。
窓が南側(写真の家紋のある面)に1か所だけある。ここには厚さ3.5センチの鉄棒を7本入れ、鉄格子として賊の侵入を防ぐ。さらに裏白(漆喰が塗ってある)戸、網張り格子戸もあって、防災、防犯面を補強している。
       IMG_3280.jpg
(こちらが北側で、正面入り口。幅21センチ、高さ16センチの花崗岩の上り石段がついている)

 入り口は、道路と反対側の北側にある。なんと、入り口の戸は4重にもなっている。
 第一の扉は、厚さ14センチの漆喰塗仕上げ。第二は裏白戸、土蔵の土戸にあたるもので火災防止が狙い。第三は鉄板張りの戸、これはのこぎりを使う賊の侵入を防ぐ。第四は、腰板網張り格子戸。4つの扉にはそれぞれ錠をつけている。第一から第四までは59センチもの厚さがある。いやはや、すさまじい守りである。大阪城の金蔵は2重の土戸と鉄格子戸の「3重構造」だから、新谷藩はそれを上回る完璧な防備をしていたといえる。

 内部は松の厚板で張りかため、唯一、南側に風通し窓を設置している。また、外部の基礎も矢落川の洪水氾濫を免れるため約1メートル石垣を高く組んで地形を上げている。外壁南側に藩主加藤氏の替え紋「上り藤」をおき、屋根の鬼瓦や丸瓦の軒には、加藤氏の蛇の目の紋をつけ、威光を見せつけている。

 わずか1万石の小藩の金蔵だが、本格的な土蔵造りで地方の様式を備える貴重な建造物として、大洲市が文化財に指定している。

 現存する金蔵で最も有名なのは大阪城の金蔵(国の重要文化財)。ここは御用金の保管庫で、現在の価値にして500億ー800億円の金・銀貨を保管していたという大きな施設。

 だが、ほかに藩の金蔵として残っているものは、ネットで調べる限りでは、松本城(長野県松本市)のものしかない。つまり、現存する藩の金蔵は、ひょっとしたら3つしかなく、そのうちの1つが新谷藩の金蔵ということになり、とても貴重な存在といえる。(もし、ほかに金蔵の所在をご存知の方がいれば、ご教示を)

 大阪にはスケール的にも大きく水をあけられるが、新谷の金蔵は、松本と比較すれば、規模や美しさ等で勝るとも劣らないと思う。全国的にほとんど知られていないが、素晴らしい遺構が愛媛にあるのである。もっと県民に知ってほしいもののひとつだ。
(写真撮影:平成25年5月23日、6月2日)

交通ガイド:所在地・大洲市新谷町甲274-3
国道56号線から、新谷大橋を渡り約100メートル、河内歯科を下新谷方向へ左折して30メートル。


参考文献:大洲市誌、大洲市文化財調書集
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内子町・旭館で半世紀ぶりの映画上映
大正時代の映画館が、半世紀ぶりによみがえった。
内子町の「旭館」のこと。
新しい町のシンボルとしても、期待が高まる。


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               (復活上映会で久しぶりににぎわう旭館)
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             (2階には映写室と座席、1階には映画のポスターが貼られていた。)
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      (お年寄りを中心に町内外から多くの観客が詰めかけ、昔話に花が咲いた)

 旭館は、大正15年3月に完成した映画館。一時はあの芝居小屋の内子座(大正5年建築、町指定文化財)と人気を2分するほどの娯楽の殿堂だった。しかし、テレビの普及と歩調を合わすように、映画の観客が減少し、昭和40年代に閉館。その後は倉庫等になっていた。

 近年は老朽化に伴い、傷みが目立ち、取り壊しの可能性もあった。が、大正時代の洋風外観の映画館らしい映画館であることから、町内外の人から保存や文化財指定を望む声が上がり、所有者の森文醸造(森秀夫社長)も保存を決意。昨年あたりから、屋根の雨漏り修理などに着手するとともに、森文旭館保存会を結成して保存体制を整えつつある。

 旭館の復活を記念するとともに、修理費用の捻出や保存意識を高める目的で、6月2日に「復活イベント上映会」(2回上映)として、昭和36年の東映映画「赤穂浪士」を上映することになった。

 この機会に、当然ながら内部も一般公開される形となった。入場口から入ったら、その進行方向にスクリーンや舞台があるかと思ったら、なんと逆で舞台は入り口側にある設計だった。2階もU字形に観客席があり、ここだけでも200人以上の当初設計になっている(1,2階合わせて781人収容)。舞台もある。施設設備とも当然古くはなっているが、当時の状態がそのまま残り、文化財的価値は高い。大正・昭和時代の映画館の雰囲気が色濃く漂う。

 上映会前には、町長や森保存会会長があいさつ。森会長は「旭館を町のシンボルとして復活させる。保存に今後も力を貸してほしい」と呼び掛けた。1回目の上映には200の座席がほぼ埋まり、お年寄りを中心に大盛況。旭館に思い出を持っている人も多く、なかには「ここは女房と2回目のデートをしたところ。懐かしい」と語る人もいた。

 この旭館は、現在、文化庁に登録有形文化財の申請中。近代化遺産である。また、町並み保存地区を、旭館エリアにも拡大しようとの動きもある。内子座と旭館。昔のライバルが時代を平成に移してシンボル合戦をして争い、観光客の争奪を競う、とても面白いと思う。 
(写真撮影:平成25年6月2日)

交通ガイド:内子町内子、大森和蝋燭屋や森文醸造を目標に行けばいい。そこに案内標識あり。標識から徒歩1分。

参考文献:愛媛県の近代化遺産(県教委)

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