レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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徳冨蘆花の心の“闇”と今治、そして文学碑
来島海峡大橋を臨む今治港。その地に異色の文学碑が建っている。
世界的な建築家の丹下健三が設計した珍しいもので、2メートル余の高さの御影石をモニュメントに使う。
明治の文豪・徳冨蘆花(明治元年1868-昭和2年1927)の文学碑だ。
蘆花は、思春期の多感な1年余をここ今治で過ごした。
今治を愛し追憶している蘆花。
さまざまな心の葛藤と戦ってきた蘆花は、瀬戸内の今治にひとときの安らぎを見出していたのではないだろうか。

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      (丹下健三設計の個性的な蘆花の文学碑。バックには、来島海峡がー。蘆花もここで海をながめていたのだろうか。)
 明治時代の最大のベストセラーといわれるのが、徳冨蘆花(本名・健次郎)の代表作「不如帰」(ほととぎす)だ。蘆花は熊本県水俣の代々、惣庄屋や代官をつとめる経済的には恵まれた旧家で生まれた。しかし、5歳上に兄が、ジャーナリストの徳富蘇峰(文久3年1863-昭和32年1957)のいたことが、蘆花を終生苦しめることになる。秀才とたたえられる兄、いわゆる「賢兄愚弟」の関係にあって、内向的な性格が、劣等感をどんどんエスカレートさせていくのである。徳冨の「とみ」という字にしても、蘆花は冨を使い、蘇峰は富。蘆花はどうしても兄とは別にすることにこだわった。

 蘆花が今治に来ることになったのも、蘇峰との確執が大きな原因だった。

 明治11年(1878)の10歳の時に京都・同志社英学校に入学。12歳の時に退学して熊本に戻っていた。兄との劣等感に苦しむとともに、若い男の血潮とも戦っていた。蘇峰が新妻を迎えたことがさらに、鬱屈した関係になり、明治18年(1885)に、母親らとともに16歳でキリスト教の洗礼を受けたが、それ以降も、兄弟の溝は日に日に深まっていった。

 これを心配した両親が同年3月、蘆花を今治にいたいとこの横井時雄(今治教会牧師、のち同志社社長、衆議院議員)に預けることになったのだ。蘆花はキリスト教の伝道を手伝うとともに、今治英学校で英語教師となって過ごす。京都で2年余英語を学んだだけの16歳が、英語を教えるというのだから驚かされる。当然、語学力不足で、失敗も多かったというが、徐々になれてきて生徒にも人気があったとも言う。今治でようやくこころの平穏をえたのではないか。この今治滞在中に、漢詩の詩作を始め、文学に目覚めたという。蘆花という雅号をつけたのもこの時であった。

 今治の暮らしは、横井が京都・同志社へ移ることを転機にして、ピリオドを打つことになる。1年4カ月の日々だった。明治19年(1886)6月7日、今治を去る。その時の今治伝道日記、末尾の記述は名文である。

「夕風そよぐ甲板に佇み、後に去り行く今治の町を眺めていると、銀河につづく墨絵の陸(おか)に灯火の影がちらちらと映り、まるでそれは夢のように美しかった。いや、ひょっとすると今治における一年四カ月にわたる伝道生活は、夢の中の出来事であったかも知れぬ…と、暮れなずむ景色の中に、すでに点景となって遠ざかる今治の町をながめながら、そう思ったのである。」
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            (この碑文を書いたのは、大三島出身の“現代書道の巨匠”村上三島だ)

 文学碑に刻まれているのは、「伊豫の今治 今治は余に忘られぬ追憶(おもいで)の郷(さと)である」-。
これは、大阪から別府までの船旅をした際の紀行文「木浦丸」の一節である。蘆花が今治での思い出を書いた作品は、「黒い眼と茶色の目」、「思出の記」(舞台を宇和島に変えている)、「冨士」などがある。

 蘆花は、今治を後にして、再び同志社へ入学。そこで新島襄の義姪と恋をしたが、反対されて熊本に帰郷した(この恋愛は「黒い眼と茶色の目」に詳しい)。余談ながら、この“恋愛事件”には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の八重も登場し、彼女にも反対されることになる。

 放浪の後、21歳で蘇峰の経営する民友社に入り、記者となる。そして、明治31年(1898)11月から国民新聞に連載を始めたのが「不如帰」。主人公・浪子の「人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は、日本の近代文学の名セリフのひとつといわれる。そのあとの「自然と人生」「思出の記」で、ベストセラー作家となった。漱石がでるまでは、蘆花が明治最大の文豪と言われたのだが、今日、文学史上での評価は未確定ともいう。代表作が文語体で書かれていることが不人気の要因の一つと見られるが、前記の日記の一節を読んだだけでも、名文家であったことは間違いない。

 永年精神的に葛藤していた兄の蘇峰とは、思想的にも相容れなくなり、明治36年(1903)についに「告別の辞」を発表して絶縁するのであった。

 物心ついてから、兄と比較し比較され続け、半世紀にも渡ってこころの闇となって引きずり続けていた兄との不和ー。蘆花が病で倒れた昭和2年(1927)9月、伊香保温泉で和解する。
 病床で蘇峰が言う。「おまえは日本一の弟だ」。
 蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうか今までのことは水に流してくれ。後のことは頼む」
 和解が成立した翌日、蘆花は息を引き取った。58歳だった。

(敬称略)
参考文献:「蘆花徳冨健次郎第1部」中野好夫、筑摩書房、「瀬戸内しまなみ海道 歴史と文学の旅」森本繁、浪速社、「愛媛の文学」図子英雄、愛媛県文化振興財団

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“丹下建築”の宝庫・今治
20世紀を代表する世界的な建築家、丹下健三。
父の故郷が今治だった関係で、彼も小・中学校の多感な時期を今治市で過ごした。
ここ今治には、初期“丹下モダニズム建築の宝庫”といわれるほど、数多くの丹下建築が今も残っている。
丹下が、今治を深く愛していたことの証左でもあろう。
生誕100周年のことし、その生誕日の9月4日(水)に「丹下健三と今治」のシンポジウムもここで開かれる。
丹下の残した“作品”を改めて見てみよう。
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①今治市公会堂。昭和33年(1958)完成。丹下45歳時の作品。側面をギザギザの形状にした折板構造が印象的。壁自体にリズミカルな面白さがある。
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②今治市庁舎。昭和33年(1958)完成。丹下45歳時の作品。立体感のあるファサードの構成がいい。右側に写っているのが平成6年(1994)完成の市庁舎別館。これも丹下の作品。
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③旧今治信用金庫本店(現愛媛信用金庫今治支店)。昭和35年(1960)完成。丹下47歳時の作品。格子状の外観、まるで浮いているような大きな屋根が目を引く。常盤町4-1-15。
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④今治市民会館。昭和40年(1965)完成。丹下52歳時の作品。大きなひさしは、3階の和室を広場の視線から隠す役割を持つとともに、近代建築と、伝統的な和風建築との融合を図っている。広場を挟んで市庁舎、公会堂、市民会館の丹下作品が並んでいる。
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⑤旧今治信用金庫常盤町支店(現愛媛信用金庫常盤町支店)。昭和42年(1967)完成。丹下54歳時の作品。コンパクトな建物。愛媛信金になってから、青のカラーに。完成当初はシックな雰囲気だったという。常盤町6-6-8。
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⑥今治地域地場産業振興センター。昭和59年(1984)完成。旭町2-3-5。
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 今治シンポジウム「丹下健三と今治」は、瀬戸内国際芸術祭2013丹下健三生誕100周年プロジェクトの一環として開かれる。9月4日(水)19:00-21:00(開場18:30)、今治市公会堂(今治市別宮町1-4-1)で。定員1,000人。入場無料(先着順)。公会堂前駐車場は有料。
 パネリストは、磯崎新(建築家)、富永譲(同)、豊川斎赫(建築史家)、神八達成(元今治市建設部長)の4氏。丹下と瀬戸内のかかわりの出発点となった今治において、今治と丹下建築や、これからの街づくりについて考える。問い合わせは、今治市教育委員会文化振興課・電話0898-36-1608。

<丹下アラカルト>
・丹下健三(大正2年1913-平成17年2005)。大阪府堺市生まれ、父親が今治市出身で、住友銀行に勤務。父の転勤で中国・漢口、上海へ。7歳の時、一家で今治に帰郷。中学卒業まで今治で過ごした。
・17歳で広島高等学校理科甲類に入学。2浪して、22歳で東京帝国大学工学部建築科に入学した。33歳で同大学大学院修了、助教授に就任し、「丹下研究室」が誕生した。

・その後は、広島ピースセンターコンペで1等入選を皮切りに、64年の東京オリンピックの国立屋内総合競技場(現国立代々木競技場)、70年の日本万国博覧会でお祭り広場を手掛け、好評を博した。活動は日本だけにとどまらず、世界31カ国で330以上の建築や都市を設計した。また、多くの人材を育てたことでも知られ、彼の元から、槇文彦、黒川紀章、磯崎新、谷口吉生、浅田孝ら多数が活躍している。

・受賞歴は国内外で数知れず。愛媛県関係では54年に、愛媛県民館で日本建築学会作品賞を受賞している。文化勲章受章。今治市名誉市民。

・20世紀の日本を代表する建築家はだれか。雑誌「日経アーキテクチュア」の読者アンケート(2005年)によると、1位丹下健三、2位安藤忠雄、3位槇文彦、4位村野藤吾、5位谷口吉生の順。丹下と安藤との差は、わずか。丹下には、50歳代以上の人に支持者が多く、それ以下の人は安藤支持が多い。

・松山では、昭和60年(1985)愛媛県民文化会館が丹下の作品。

・平成17年(2005)3月22日、心不全のため死去。91歳だった。
(文中敬称略)
参考文献:「丹下健三 時代を映した“多面体の巨人”」日経アーキテクチュア、「丹下健三を知っていますか?」マガジンハウス
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長浜の豪邸 “百帖浜屋敷”を見る。
大洲市長浜での観光は、長浜大橋だけではない。
実は、その橋の近くにもうひとつ、PR不足ながら、穴場の見どころがある。
その名を、国登録有形文化財の「末永家住宅」という。
住宅の愛称を“百帖浜屋敷”といい、百帖座敷と旧主屋の2つが文化財に指定されている。
明治・大正期の長浜きっての資産家の住宅だけに、座敷の広さと豪華さは一見の価値ありだ。

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 (百畳座敷の、床の間のある部屋。右側のふすまを取り外すともっとワイドな部屋に。シャンデリアのある合板折上げ格天井は見事)
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 末永家は、回漕業で財をなした。明治期には、「商売では一切損をしたことがない」と豪語した末永四郎平(すえなが・しろへい)(1862-1940)が事業をさらに発展させた。

 彼は、回漕業のほか、伊予長浜銀行取締役頭取、伊予木材取締役にもなり、地域の経済界のドンとなる一方、町議5期、さらには町長急逝時には名誉町長になって、政財界で活躍した。また、さまざまな慈善事業や育英事業にも資金を提供した篤志家でもある。町長を辞める際には、「役場を建てるけん、ひかせてくれ」と関係者に頼み込み、当時のお金で1万円を出して役場を建てたエピソードも残っている。
 
 末永家の住宅は、約470坪の広い敷地に、旧主屋、新宅、百帖座敷、蔵などが建ち並ぶ。茶室もあったが、老朽化に伴い解体されて今は更地になって、地区民の憩える広場となっている。
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           (百帖座敷の建物全景。手前の更地の広場が茶室のあったところ)
 まず、百帖座敷から見てみる。ここは無料で内部も公開されているから、じっくり当時の息吹を感じることができる。建築年代は、大正から昭和初期、襖絵に昭和2年の記述があるから、その頃の建物だろう。座敷だけのために建てた、いわば接客用の施設。“百帖”と言われているが、これは広いことを形容して使っているもので実際の畳の数を数えてみると、18畳の間が2つ、それに隣接して5畳の間がある。襖をはずして大広間にしたら、41畳敷きになる。それでも広いのは間違いない。庭側は、廊下をはさんでガラス戸になっていて、庭をめでることもできる。建築時は、渡り廊下で茶室ともつながっていた。
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            (松と竹を描いた襖絵。ここに昭和2年の記述がある)
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 内部で特に目を引くのは、天井。合板による折上げ格天井となっていて、中央にはなんとシャンデリア。和風の中に洋風を持ち込んでいる。床の間の奇木や、松、竹を描いた2つの襖絵も鑑賞ポイントか。

 この建物、座敷だけのために建てられている大きな“箱”の座敷屋敷だ。末永家の接客用施設だったと言われているが、地元の祭りや敬老会などの集会所としても利用されたという。接客用だけの用途にしては大きすぎることから、当初から地域の集会所として使うことを考えていたのではないかと思われる。
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            (格子付き窓、黒漆喰の壁、なまこ壁ーー商家らしいたたずまいだ)
 もう一つ登録文化財に指定されているのが、通りからも異彩を放つ末永家の旧主屋だ。同家住宅の中で最も古く、明治17年(1884)に建築された。土蔵造り2階建て、1階は末永商店の店舗兼住宅、2階は当初は物置だったが、後に天井を張り、居住空間に変更されている。1階の格子付き窓、2階の黒漆喰の壁、なまこ壁など、内子の町並みで見かけた光景を思い出させる風格のある商家だ(旧主屋の内部は非公開)。

 この建物は、平成16年(2004)に旧長浜町に寄付された。老朽化に伴う雨漏りなどが目立っていたが、大洲市が修復、一部解体工事を行い、平成23年(2011)工事が完成、公開されるようになった。

 公開は、年末年始(12月29日から1月3日)を除き、午前9時から午後5時まで無料。駐車場4台分あり。
*同施設は通常はガイドなし。ただ、長浜のボランティアの会がガイドできるときはガイドする。1週間前に予約必要。希望の方は、窓口の大洲市・長浜支所地域づくり係(電話0893-52-1198)へ。

末永家所在地:大洲市長浜甲309-2。(長浜大橋の西側、長浜郵便局から徒歩約2分)
問い合わせ:大洲市教育委員会生涯学習課  電話0893-24-1735

参考文献:長浜町誌、「愛媛県の近代和風建築」県教委 

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あぁ焼失!宝厳寺本堂、一遍上人立像
<緊急特番>
時宗の開祖・一遍上人生誕の寺が10日、炎上、焼失した。
松山市道後湯月町の宝厳寺(ほうごんじ)。
本堂と庫裏が全焼し、重要文化財の「一遍上人立像」も焼けてしまった。
これを機に、文化財の防火、防犯、報知システムの見直しが必要だ。

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   (写真上:焼けた本堂、11日午前9時50分。下は今春撮影した焼失前の本堂)
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 宝厳寺は、一遍上人生誕地(県史跡)として知られるほか、遊郭と密接した寺としても知られる。 
 「左に大きな門があって、門の突き当たりが御寺で、左右が妓楼である。山門のなかに遊郭があるなんて、前代未聞の現象だ」-、これは夏目漱石の「坊っちゃん」の一節。ここに登場する寺が宝厳寺のことだ。

 ネオン坂とか松ケ枝町とかの名前にまだ記憶のある人もいると思うが、宝厳寺の参道(上人通り)には旧遊郭が並んでいた。明治10年(1877)道後地区の整備と風紀取り締まりのため、散在していた遊郭を寺の門前に集めた。そのため、遊郭街を通って寺に行く漱石のいう“前代未聞”が起こったのだ。

 明治28年(1895)、病気のため帰郷した子規は漱石とともにここを訪れ「色里や十歩はなれて秋の風」と、宝厳寺のことを詠み、その句碑が今も境内に置かれている。
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         (火災で焼失した重要文化財の「一遍上人立像」。=「愛媛の文化財」県教委から転載) 
 宝厳寺は7世紀中ごろ、創建。最初は天台宗の寺だったが、13世紀末に時宗に改めた。
 ここの本堂に安置されていたのが、「一遍上人立像」(高さ113・9センチの寄木造り)で、室町時代中期の優れた肖像彫刻として国の重要文化財となっていたのだが、今回の火災で焼失した。防火体制や火災報知体制をもっと整えておけば、文化財を守れたのではないか。これを機に前向きに検討してもらいたいところだ。

 火災から一夜明けた11日は朝から、県警の現場検証が行われていた。報道陣が寺を遠巻きにして慌ただしい。ちょうど盆の季節で、墓参に訪れる人も目立ったが、広いエリアが立ち入り禁止になったため、墓参ができず、午後以降にずらす人の姿も多かった。
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もし終戦が3カ月遅れていたら!!
<終戦特別版>
あなたは知っているだろうか。
あと3か月終戦が遅れていたら、この四国が地上戦の舞台になっていた。その可能性が高かったことをー。
沖縄のような悲惨な戦いが、まず高知、愛媛で繰り広げられたかもしれないのだ。
目前に迫っていた“本土決戦”、今になってわかる緊迫した日米両国の戦略。
終戦記念日を前に、昭和20年にタイムスリップして、今の平和を考えてみるのもいいだろう。

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(米軍は20年11月1日に九州3か所に一斉上陸、その2日前の10月30日に陽動作戦として四国南部への上陸作戦を考えていた) 

 昭和16年(1941)12月8日ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。日本軍は当初優勢に戦いを進めたのだが、昭和17年(1942)6月のミッドウエー海戦の敗北で潮目が変わっていく。以後、ガダルカナル、サイパンと、日本の敗色が濃厚となっていくのである。そして、昭和20年(1945)3月から、結果として日米最後の大規模戦闘となった沖縄戦に突入していく。

 本土も昭和19年11月から米軍機による爆撃が始まっていた。軍需工場、港湾への攻撃から始まり、翌20年3月には東京大空襲に代表されるように大都市や航空基地への空襲、そして6月からは中小都市へ空襲が本格化していく。愛媛県下でも7月に松山や宇和島にB29の焼夷弾が雨のように降り注ぎ、多くの犠牲者が出ていた。

<アメリカの攻撃戦略> 
 そんな状況下、アメリカは、日本本土侵攻作戦を策定した。昭和20年5月25日の統合幕僚長会議で最終プランが決定され、6月29日には大統領も承認した。全体の作戦名は「ダウンフォール(滅亡)作戦」という。その中身は2つの作戦によって構成されていた。まず一つは、オリンピック作戦と名前を付けた昭和20年(1945)11月1日開始の九州南部への上陸作戦であり、もう一つは昭和21年3月1日開始の関東上陸作戦で、これはコロネット作戦と命名されていた。

 九州に上陸してアメリカが狙ったのは、本土での決戦を援護するための空軍基地を手に入れること。11月1日を期して、宮崎海岸、志布志湾、吹上浜海岸の3か所を一斉に同時攻撃して上陸を図る。それぞれ3個師団を投入して、というから1か所12万もの兵力で一気に九州南部を占領する構想だった。

 この九州上陸作戦の前に10月27日、薩摩半島西方の甑島(こしきじま)列島を占領。さらに陽動作戦として10月30日開始で計画されたのが、四国上陸作戦だった。四国南部に2個師団(8万人)を上陸させようとしたのだ。

 なぜ四国を狙ったか。アメリカの深謀遠慮がそこにある。つまり、四国を攻めれば、日本は近畿、中国路から海路、援軍を四国に送り込むだろう。そこで、アメリカはその援軍を海上で撃破して、日本の戦力を削ぐとともに、目を四国に向けさせておいて、一気に九州南部に攻め入る戦略だったのだ。

<日本の防衛戦略>
 とかく日本は、情報戦でさっぱりだったと言われているが、おっとどっこい、この時点になって日本はアメリカの戦略を大筋でつかんでいた。「米軍が本土に侵攻してくる時期は、昭和20年秋」と予測。「上陸地点は、南九州そして関東沿岸」、また上陸予想兵力においても、米軍の構想とほぼ同じようにはじいていた。さらには、四国に関して「九州攻撃に先行もしくは並行して四国を攻撃する算段大」と、四国上陸も予想していた。

 日本は持てる力のすべてを結集してアメリカ中心の連合軍を迎え撃つ、防衛戦略を立てた。すべてを決するとの強い意気込みで、これを「決号作戦」という。まず兵力を補うため、満州や北方からの部隊転用を図るとともに、根こそぎ動員が一次から三次の3回に分けて行われ、必要な部隊を新編、充足するとともに防御陣地の構築や特攻を含む戦闘訓練に力を注いだ。

 四国はどんな防衛態勢だったか。
 四国防衛軍となったのは、司令本部を高知県高岡郡新改村(現・土佐山田町)に置く第55軍(司令官・原田熊吉中将)だった。その下に“剣山部隊”といわれた歩兵第344師団があり、ここが四国の西南部を守る部隊。そして、愛媛関係分に絞ると、その下部に本部・八幡浜の歩兵第352連隊が配置され、その連隊につながる3つの大隊が南予に配備された。連隊本部と第一大隊は八幡浜を拠点とし、第二大隊は宇和島、第三大隊は吉野生村吉野(現・松野町。後に拠点は高知県蕨岡・現四万十市に移動)を本拠にしていた。大隊兵員は、それぞれ2,883人となっていた。

 各大隊がなにをしていたか。おそらく軍事訓練が中心だったのではないかと想像するが、第三大隊の行動について、最近興味深い研究が発表されている。それは、矢野和泉氏(「松野町戦時遺構調査会」代表)の「松野町の戦時遺構調査と研究」である。

 矢野氏らの現地調査や聞き取り調査で、終戦間際の昭和20年7月ごろ、第三大隊が松野町でなにをしていたかが解明されている。大隊のうちかなりの人数は、アメリカ軍の侵攻に備えて、塹壕掘りに明け暮れていたのだ。
<塹壕とは、「野戦で敵の攻撃から身を隠す防御施設。溝を掘り、その土を前に積み上げたもの」(広辞苑)>
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            (観福寺裏山の塹壕は傾斜を利用して構築されている)
 大隊が松野町にいたのは、6月25日から7月末までのわずか、1カ月程度。町内の学校、神社、寺、民家に2千8百人余が分散して駐留して、人海戦術で集中的に塹壕掘りに打ち込んだ。矢野氏らの現地確認作業で、これまでに4か所の塹壕を確認。さらに証言からもう1か所あったことがわかってきた。所在地をリストアップすると、吉野地区の①観福寺裏山②土佐越③鳥居(安西氏所有山林)④伊井公園、それに富岡地区の⑤富岡久米地ーの5か所である。
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             (竹林の中に約20メートルの塹壕の跡が残る)
 戦後68年も経過しているだけに、雑草や雑木などに覆われ、崩れも目立って元の完全な姿では残っていないが、中には長さ30メートル、幅1・5メートル、深さ1メートル、途中幅1メートルの洞窟が残っている塹壕もあった。これら塹壕で、土佐湾に上陸し県境から松野に侵攻してくるアメリカ軍を迎撃する態勢を整えようとしていた。しかし、この塹壕はほとんどが未完成のまま、放置されたとみられている。完成させるゆとりがもう残されていなかったのだ。沖縄が占領されたことから、本土決戦の四国上陸が、迫ってきたと考えざるを得なかったのだろう。土佐湾により近い場所へ。第三大隊は、慌ただしく、本拠を高知県蕨岡村(現・四万十市)へ移していった。

 昭和20年8月15日、無条件降伏。本土決戦は、幻に終わり、四国が血塗られた戦闘の舞台になることは免れた。あの沖縄戦の悲惨さを想う時、四国も一つ間違えれば、沖縄のようになっていたかもしれない。太平洋戦争で多くの人々の命が失われた。その犠牲の上に今の日本の平和がある。この夏、戦争について、平和について、考えてみてはどうだろうか。

(写真は、いずれも矢野和泉氏に提供していただきました。もし、矢野氏のような方がいなければ、戦時遺産は埋もれたまま消え去っていくだろう。矢野氏らの研究に深謝します。人々の記憶は日々薄れていく。今のうちに、何らかの形で記録にとどめておくべきものも多いように思う。)
参考文献:「松野町の戦時遺構調査と研究」矢野和泉、「土佐湾本土決戦史」山崎善啓・高知新聞企業、「本土決戦日本内地防衛軍」茶園義男・不二出版、「昭和20年8月、愛媛の本土決戦準備始末」池田宏信・晴耕雨読、「本土決戦準備<2>」防衛庁防衛研修所戦史室・朝雲新聞社
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「日土小」見学会へ行こう。
八幡浜市立日土(ひづち)小学校の校舎は、日本の代表的なモダニズム建築として知られる。
国の重要文化財にも指定され、大洲市出身の建築家・松村正恒(まつむら・まさつね)の代表作でもある。
この夏休みにも、3回の学校見学会が開かれる。
先日の8月4日に1回目が開かれ、あと11日(日)と18日(日)にも開催予定だ。
とにかく明るく、開放的で、子供たちの居心地のいい空間を追及した松村の気持ちがわかってくる。
都合がつけば、ぜひ素晴らしい小学校を見て、ご自身の小学校時代に思いをはせるのはどうだろうか。
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       (日土小学校でもっと有名な裏側の光景。喜木川に張り出したテラス、緩やかな外階段が特徴だ)DSCF0197.jpg
     (正面からの日土小。向かって左側が東校舎で、その隣が中校舎。薄緑色の明るい色彩)
 この貴重な校舎が完成したのは、昭和31年(1956)に中校舎、昭和33年(1958)に東校舎で、ざっと半世紀前のこと。それが大きく脚光を浴びたのは、平成11年(1999)に、近代建築の保存と記録を目指す国際組織のドコモモの日本支部によって日本のモダニズム建築20選の一つに選定されたのがきっかけ。しかし、老朽化に伴い、解体の流れになっていたが、日本建築学会など各方面から保存再生の声が高まり、八幡浜市も保存を決断。平成21年(2009)6月に保存再生工事が完成し、今も小学校として使われ続けている。

 昨年(平成24年)には、4月に日本建築学会賞、10月にワールドモニュメント財団モダニズム賞を受賞、12月には国の重要文化財に指定された。戦後の木造建築が指定されたのは初めて。また、戦後の建造物で重要文化財に指定されているのは、村野藤吾の世界平和記念聖堂(広島)、丹下健三の広島平和記念資料館があり、ともに日本を代表する建築家の作品。このなかに、松村の作品が選ばれていることは、日土小学校校舎のレベル高さ、貴重さを証明しているといえよう。

 この校舎は、どんな特徴があるのか。専門家の見解をまとめると、
①教室と廊下の間に空間を取り、そこを中庭として教室の独立性を高め、落ち着いた学習環境を実現した。これは、クラスター型教室配置と言われ、当時はまだ研究段階で実例がほとんどないときに、四国の小都市で実現していた。その先駆性は高く評価されるところだ。
②自然を取り入れたデザイン。川に向かって張り出したテラスや外部階段が開放感を醸し出す。
③木造ながら、スチールを組み合わせ、ハイブリッドな構造形式を採用している。川側の壁をカーテンウォールにして、窓面を軽やかに表現する一方で、要所に筋違いなどでスチール補強をしている。合理的でモダンな構造といわれる。
④昭和35年(1960)に、「文藝春秋」による“日本を代表する建築家10人”のなかに選ばれた松村の代表作であるーなどだ。

 専門的な評価は別として、自身の小学校時代の思い出とダブらせて見たらいいように思う。明るく、ゆったり、のびのび自由、さわやかな空気が吹き抜けていくーここはそんな学校のように思えた。
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      (外光を思い切り取り入れ、明るい廊下。壁面にはいつでも腰かけて本が読めるようになっている)DSCF0123.jpg
              (教室内も明るく開放的)
 松村正恒とはどんな人物か。大正2年(1913)大洲市新谷町の生まれ、武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)を卒業、土浦亀城建築設計事務所に就職し、のちに農地開発営団に転じ、終戦とともに大洲に帰郷。昭和22年(1947)から八幡浜市の土木建築係職員となり、昭和35年(1960)に退職するまで約13年間にわたって八幡浜市の学校や病院関連施設などの設計をしてきた。その後は、松山市で設計事務所を開設。平成5年(1993)死去するまで、約400の建築物の設計をしたと言われる。

 日本を代表する建築家の、その代表的な建築が、なんと公務員時代の産物なのだ。失礼ながら、なにごとも平均的で、没個性が求められると言われる公務員の仕事のなかで、松村がその個性をいかんなく発揮できたのは、彼を支えた当時の市長らのすぐれた見識、バックアップがあったと言えるだろう。余談ながら、八幡浜市職員を退職後に彼の設計した建築物で注目される作品はほとんどないと言われる。「税金でつくる公共建築では可能な限りの実験をしたが、独立後の民間の仕事では冒険しにくい」という主旨のことを評論家・宮内嘉久のインタビューで彼自身が答えている。
     (このほど作成された日土小学校のオリジナルフレーム切手)DSCF0309.jpg

DSCF0308.jpg (日土郵便局の風景印も日土小学校のデザインに変更された)
 

 また、最近、日土小関連で話題となっているのが、オリジナルのフレーム切手「国重要文化財指定日土小学校」が7月に地域限定で販売開始されたこと。1,000シート(1シート80円×10、売価1200円)が完売、このため八幡浜市が購入分の一部を見学会場で販売している。(この切手シートは好評につき、8月18日から追加販売することになった)。また、学校から50メートル離れた日土郵便局では、先月から風景印を「日土小学校」のデザインに変更した。学校訪問の記念に同郵便局を訪れ、残暑見舞いはがきに押印してもらって知人に発送するのも楽しそう。(50円以上の切手、またははがきに押印、そのまま発送してもらうこともできる。)

【夏休み見学会】
8月11日(日)、8月18日(日)いずれも午前9時から午後4時まで。時間内に自由に見学できる(ただ職員室、校長室などの一部施設は立ち入り禁止)。無料。なお、両日は和田耕一氏(和田建築設計工房主宰)によるガイドツアーもある。受付午後1時45分、中校舎交流ラウンジ(定員20人)、午後2時開始。
駐車場は同小学校グラウンド。(また、冬休み見学会が12月29日、春休み見学会が来年3月30日開催予定)

日土小学校所在地:八幡浜市日土町2-851
問い合わせ:八幡浜市生涯学習課、文化振興係 0894-22-3111(内線8357)

(文中敬称略)
参考文献:「木造モダニズムのユートピア:八幡浜市立日土小学校」花田佳明、「日土小学校校舎の建築的・文化的価値」陣内秀信、「日土小学校校舎の保存・再生要望書」日本建築学会、「残すべき建築」松隈洋・誠文堂新光社

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山里の一軒宿、小藪温泉
大洲市肱川町の人家の途絶えた山道を進んでいく。
渓谷そばにひっそりとたたずむ、木造3階建ての風情のある建物が見えてくる。
そこが、国の登録有形文化財にも指定されている小藪(おやぶ)温泉本館だ。
愛媛の温泉のなかでも、建物の趣や泉質では道後温泉と肩を並べるトップクラスだ。
なんといっても、自然豊かな山のなかの一軒宿。あなたも世間と離れて、ここで癒されてみませんか。

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                (くねくねと山道を行くと、目の前に大きな3階建て、小藪温泉本館が見えてくる)
 創業は明治9年(1876)というから、137年もの歴史を持つ老舗温泉旅館。ただし、現在の本館は大正11年(1922)に建設されたと伝えられる。入母屋造り桟瓦葺き、三層楼の旅館建築。渓流沿いに建てられ、道路に面した入り口の玄関は2階部分に当たる。1階が浴室と食堂、2階、3階は客室、そこは欄干付きの回廊が巡らされている。

 平日午後は入浴客が少ないのか、訪問した時は男性が1人、女性が2人だけだった。ゆったり入浴して、そのあと2階の部屋でくつろぐ。回廊から、山々をながめる。せせらぎや蝉の鳴き声だけが聞こえてくる。日ごろの喧騒を忘れ、自然と一体になって、時を過ごす、貴重な体験のできるところである。                    
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               (2階の回廊。さわやかな風が吹き抜け、緑いっぱいの自然が目に優しい)


     
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        (10人も入ればいっぱいになりそうな浴室。露天はないが、浴室からも自然を満喫できる) 
 温泉はアルカリ単純泉、無色透明ながら、ぬめり感があっていかにも温泉らしい温泉だ。
 入浴だけでも利用できる。(10:00-19:00、500円)

 宿泊のチェックイン15:00。カモ鍋、シシ鍋、山菜料理が楽しめる。また1日1組限定ながら囲炉裏の間での食事も山里の宿特有のムードが味わえそう(食事、宿泊は要予約)。
 月1回不定期休なので、確認してから訪問した方が安心できる。

お問い合わせは、小藪温泉(おやぶおんせん)0893-34-2007
住所:大洲市肱川町宇和川1433

交通ガイド:内子・大洲方面からなら国道197号を肱川方面へ進む。途中の目標は「道の駅 清流の里ひじかわ」。ここを通り過ぎると、約1分で右側に大きな赤い鳥居があり、ここをくぐり、案内標識に従い約2キロで小藪温泉に到着する。

参考文献:「愛媛温故紀行」えひめ地域政策研究センター、アトラス出版
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