レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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庄屋屋敷の謎。最終話【3-3】
江戸、明治、大正、昭和、平成-と、時代を見つめてきた旧井手家住宅。
今治市大西町にある庄屋屋敷だ。
屋根の上に天水瓶(てんすいがめ)を置く異色の建物なのに、保存活用運動は、なぜか一向に進まない。
市が管理しながら、市の姿勢は、このまま朽ち果てるのを待っているかのよう。
3回にわたる連載の最後に、さまざまな悲運に翻弄されてきた足跡と、今後について考えてみる。

  DSCF0375.jpg
          (建物裏側からの見た旧井手家の庄屋屋敷。やはり、天水瓶が異彩を放つ=今治市大西町)

【3】庄屋屋敷から役場庁舎、そして今は物置になってしまった。

 井手家の本家は県外に転出し、昭和9年(1934)に当時の大井村が屋敷を譲り受けた。そして、昭和18年(1943)に内部を大改造して、大井村役場庁舎として使い、町村合併後は大西町が役場として、昭和50年まで使ってきた。その後は、農協、漁協が使用したが、平成の大合併で今治市管理となってからは、文化財になるどころか、資料館にもならず、不用品の物置のように使っているだけだ。

 屋根に天水桶(てんすいおけ)を置いた建物は、前述したように高野山の金剛峯寺にある。以前は高野山の他の寺にも天水桶が置いてあったといわれるが、今は金剛峯寺のみ。全国的に見て、現存している古建築で屋根に天水瓶を置く民家は、この旧井手家住宅だけの可能性が高いように思う(他に例があれば、ぜひご教示を)。江戸時代の天明6、7年(1786-1787)に建てられ、明治4年(1871)に建て替えられた珍しい形態の庄屋屋敷が、物置として放置されていていいのだろうか。

 地元で保存運動が盛り上がった時があった。平成4年(1992)6月、「旧野間郡大庄屋保存会」(近藤福太郎会長)ができ、300人を超す町民が賛同、どのように保存、活用していくかを協議することになった。清掃活動や研究会開催、会誌発行などを続けてきたが、活用法が決まらないまま、平成の市町村合併(平成17年1月)を前に、会は解散するのだった。その時にはすでに、会員が100人を割り込んでいた。その後、近藤会長(元・町教育長)の逝去によって、保存活動はリーダーを失い、表立って保存を訴える人が消えていく経緯をたどる。

 歴史を振り返ってみると、旧井手家住宅の保存活用運動は、役場トップの交代に翻弄された一面がある。昭和50年(1975)、大西町に新しい庁舎が完成し、役場として使われていた旧井手家住宅が空家になるとき、教育委員会はここを歴史民俗資料館として活用する計画を立て、町理事者の賛同を得て、県の文化財保護課にも話が進んでいた。ところが、その後の町長選挙で現職が落選、計画はとん挫した。また、その後、この建物を中心に文化ゾーン計画ができたが、なんとこれも町長選の結果によって白紙になってしまった。ほんとうに悲運の建築物だ。
        DSCF0380.jpg
(井手家と同じように屋根の上に天水瓶を置いた大西藤山歴史資料館。皮肉なことに、この完成で井手家住宅保存運動が下火にー) 
 また、保存会が行き詰っていくきっかけは、平成8年(1996)に藤山歴史資料館がオープンしたことだったという人がいる。この資料館の屋根に井手家と同じような天水瓶を置いたのだ。いわば、複製品、コピーを造った。恐ろしいのは「コピーを造ったから、保存運動はもう必要ない」という声が広まっていき、保存会からの脱会者が増えていったという。なかには、「保存しないかわりに、藤山資料館の屋根の上に天水瓶をおいたそうだ」と、保存しないことの“免罪符”と考えている人もいた。“コピーがあるから、本物はもう壊れて無くなってもいいですよ”---。今も、今治市民は、そう思っているのだろうか。

 それに平成2~3年の井手家住宅調査担当者から、「内部が大幅に改造されているから文化財としての価値はない」との発言があり(真偽不明)、この発言が完全に独り歩きし、地元に蔓延した。この建物は文化財にはならない-との“誤解”を人々に植え付けた。今もそう思っている人が多いのは間違いない。(調査担当者の論稿には、文化財としての価値がない旨の記述はない。“価値がない発言”は、どこかでゆがめられて伝えられたのではないかと思う)。
 
 確かに庄屋屋敷としては、内部がそっくり役場に改造されたのだから、内部の文化財的価値は大きく損なわれてはいる。が、だからといって、価値がゼロになったのでは決してない。貴重な、全国的にも珍しい外観がそっくり残っているではないか。平成8年の文化財保護法の改正で、登録文化財制度が創設されてもいる。この制度では「建築後50年を経過して、国土の歴史的景観に寄与しているもの」などが基準で、外観を変えなければ、内部をレストランや資料館など自由に活用できるのだ。「内部が改造されていても文化財としての価値はある」と断言する。120年余も経っている旧井手家住宅は、国の登録有形文化財としての価値は計り知れないほどあると思うのは筆者だけだろうか。(注釈参照)

 この建物がある場所は、JR大西駅前近くの一等地。建物を資料館としてもいいし、文化的、観光的な施設として活用してもいい。内部復元図面があるというから、元の庄屋屋敷をよみがえらせてもいい。活用法は地元で検討すればいい。保存の基金を広く募るのもいいだろう。今治市の考えを問うと、合併に伴う文化財の整理で手いっぱい、予算もない、それに最大のモノは地元から保存運動の声が上がっていないと言う。確かに、前述したようにさまざまな理由、経緯があり、地元から声を出すことが無くなっているようだ。では市としては、この旧井手家の建物の価値をどのように判断しているのかを聞きたい。お金のかかる保存や文化財指定申請なんかしない-という姿勢でいいのだろうか。

 先人が今に残したふるさとの貴重な遺産。心のよりどころ、郷土の誇りである。なくなってから、大切なものを亡くしたことに気づくのではないか。きょうも、歩き遍路が、この建物の天水瓶を珍しげに見上げているだろう。お接待の温かい心を持つ愛媛の人が、このまま手を差し伸べず、朽ち果てるのを待つなんて信じられないだろう。まさか、まさか、である。


(注)文化庁の登録有形文化財は、平成8年に創設された。愛媛県下では、石崎汽船旧本社や小藪温泉本館、松山地方気象台庁舎などがこの文化財となっている。この制度が創設されたわけは、江戸末期から太平洋戦争前後の多種多様な建造物が、歴史的文化的意義や価値が認識されないまま、破壊され消え去っていく現実があったからだ。だから、登録文化財に当てはまる建造物の基準としては「建築後50年を経過している。国土の歴史的景観に寄与している。造形の規範となっている。再現することが容易でない」-。文化庁担当者によれば、「建築後50年以上たっているのが最大の基準。その意味では、井手家住宅は十分資格がある」なのである。

所在地:今治市大西町新町、(JR大西駅前徒歩1分。駅前から天然記念物の大きなクスの木が見える。その木の隣が旧井手家の建物)
参考文献:「江戸期の野間郡と大庄屋井手家について」(怒麻18号、近藤福太郎)、「大庄屋井手家建物の調査を担当して、旧井手家庄屋建物第二次調査報告」(怒麻14号、河合勤)、大西町誌、「大樟」(旧野間郡大庄屋保存会)、「大西の史跡を訪ねて」(大西町教育委員会)、「却睡草・赤穂御預人始末」(伊予史談会)、「城⑦四国」(毎日新聞社)、「歴史的建造物の魅力・みどころ・・重要文化財と登録文化財」(IRC調査月報2010,5、犬伏武彦)

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庄屋屋敷の謎。パート2【3-2】
今治市大西町にある庄屋・旧井手家の住宅。
誰もが、その外観を見て驚く。
屋根の上に天水瓶(てんすいがめ)が2基、“鎮座”しているのだから。
前回はこの建物の歴史を探っていったが、今回は最大の謎「天水瓶を屋根の上に置いたわけ」を解いていく。

   DSCF0365.jpg
(明治4年に建て替えられた旧井手家の庄屋屋敷。屋根の上に天水瓶が-。右に一部見えるのは樹齢400年もの大きなくすの木=天然記念物)
 
 【2】なぜ天水瓶を置いたのだろうか?。
 普通想像するのは、「防火用」に置いたのでは、、、-と思うだろう。そうかもしれないが、瓶の大きさからいってこれは余り実用的とは思えない。今でも天水桶(てんすいおけ)を屋根の上に置く建物がある。高野山の金剛峯寺だ。ここは、防火が目的だった。この寺の屋根が、檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)だったから、火の粉が飛んできて、屋根に燃え移らないよう、桶の水をまいて類焼を防ぐのが狙いだった。しかし、旧井手家住宅は最初から本瓦葺き。防火が主目的とは、ちょっと違うような気がする。

 実は、庄屋の家が本瓦葺きというのも、大胆なことなのだ。その証拠に、旧井手家住宅より約80年も後にできた松山市の庄屋・渡部家住宅(松山市東方町、慶応2年上棟、国の重要文化財)では、主屋は本瓦葺きだが、瓦屋根の上部に茅葺の越屋根をあえて配置して、武士ではなく農民であることを示したという(下写真参照)。そんな時代背景のもとで、天水瓶を屋根上に置くのは、城の二の丸、三の丸にしかないこと。にもかかわらず、あえて天水瓶を置いたのはよほどのことであることが、分かっていただけるだろうか。
           DSCF0056-001.jpg
   (松山市の庄屋・渡部家住宅主屋=国重要文化財=。屋根には越屋根を設けてあえて、農民を示すため茅葺にしている) 
 あえて天水瓶を置いた意図とは、何か-。ズバリ言うと、格式の象徴として、井手家を誇るために置いたと思われる。松山藩がなぜそんなことを許したのかが疑問になる。なぜ許されたのか--それは大坂の陣の井手家の功績により、認められたと伝えられている。武士が、大庄屋・井手家の財力に屈している姿が見えてくる。参勤交代の折には、藩主が一度ここに宿泊し、波止浜から江戸に向かったと言われている。

 このように判断する根拠は、文政元年(1818)に作成された松山藩の歴史書「却睡草(めざめぐさ)」に、この天水瓶のことが、さまざまに記載されているからだ。それによって、この珍しい建物が江戸時代後期から存在していたことやそのいわれなどが分かってくるのである。
 「却睡草」というのは、松山藩士・安井熙載(1790-1827)が松山藩内の逸話や伝承など176編をまとめたもの。この内容の多くは、久松家が明治11年にまとめた松山藩史「松山叢談」内にも転記されている。

「却睡草」で天水瓶の庄屋屋敷について記述された部分を抜粋すると、

 「野間郡庄屋喜三郎なる者ハ豪家也、舟をももち、酒をも造り、金夥(おびただ)しく、人にもかし、(中略)国中ニて屋根へ天水をあくる事停止也、二、三ノ御丸の上ニ水かめあるのミ也、然(しかる)ニ此男方にハこれをあけたり、これハ大坂陣のせつに、蒲生氏の時なる歟、舟を差出し、殊外軍用を達せし故、その礼として望の儀差免し可申と有之ニ付、天水を願ひしとそ、今ニ水かめをあけたるよし也、甚希有成金持なり、野間郡大庄屋ニ我ら縁者あり、此家の老人の物語せし也。」

 野間郡(のまごおり)というのは、松山藩の領地で菊間、大西、波方、旧波止浜町、旧乃万村の範囲。37の村に分かれ、37人の庄屋がいた。それを束ねていたのが、大庄屋で、代々その位置にいたのが、井手家であった(6,7、9代の当主を除き大庄屋。前回の井手家系譜参照)。

 「却睡草」の記述を要約すると、庄屋の喜三郎は大金持ち。屋根に天水瓶を置くのは禁止され、城にあるだけなのに、この男は天水瓶を屋根に置いている。これは、大坂の陣の際に、舟を提供したり、軍資金や兵糧米などの物資を寄進して協力したので、その礼の望みを聞いたら、天水瓶を置くことを希望し、それが認められたという-、老人から聞いた話であるとしている。

 この「却睡草」の記述には、喜三郎という肝心の人物が井手家の当主にはいないなど、資料的価値に疑問点もあるのだが、野間郡内に天水瓶を置いた屋根の例は井手家以外に伝えられておらず、この文章は井手家のことを書いたものと推察されている。

 この文章によると、当時、天水瓶を屋根に置いたのは城の二の丸、三の丸のみ-とある。松山城の二の丸、三の丸に天水瓶があったのか?。どちらの建物も明治初年に焼失して今はない。外観を写した古い写真はない。絵図は残るが、外観の姿はわからない。だから松山城の二の丸、三の丸の屋根に天水瓶があったのかどうかは、確認できなかった(古文書等で松山城を研究されている方があれば、ご教示ください)。ただ、隣の高知城の二の丸(明治6年解体)の古写真には、屋根に天水瓶(天水桶?)らしきものが写っている。城の部分の却睡草の記述には信憑性があるのではないだろうか。

 結局、この屋敷の屋根上に天水瓶を置いたのは、野間郡の大庄屋をしてきた井手家が、農民の身分でありながら、城にあるのと同様に天水瓶を置いた屋敷を建て、その権威を野間郡一帯に、いや松山藩内に示した、と考えるのが妥当ではないだろうか。

 シリーズ第2回として天水瓶を置いたなぞ解きをした。最後に残る大きななぞは、「なぜこの建物が、文化財になっていないのか」「なぜ保存運動が頓挫したのか」「なぜ見捨てられたように物置になっているのか」をテーマに、旧井手家庄屋屋敷シリーズの最終第3部として、「政治に翻弄された保存活用計画、保存活動の盛衰、そして今後どうなるのか」を、9月25日(水)から掲載(予定)する。

所在地:今治市大西町新町、(JR大西駅前徒歩1分。駅前から天然記念物の大きなクスの木が見える。その木の隣が旧井手家の建物)
参考文献:「江戸期の野間郡と大庄屋井手家について」(怒麻18号、近藤福太郎)、「大庄屋井手家建物の調査を担当して、旧井手家庄屋建物第二次調査報告」(怒麻14号、河合勤)、大西町誌、「大樟」(旧野間郡大庄屋保存会)、「大西の史跡を訪ねて」(大西町教育委員会)、「却睡草・赤穂御預人始末」(伊予史談会)、「城⑦四国」(毎日新聞社)

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なぜ屋根に天水瓶。庄屋屋敷の謎。【3-1】
屋根の上に天水瓶(てんすいがめ)を置いた珍しい屋敷がある。
今治市大西町(旧・越智郡大西町)にある庄屋・旧井手家の住宅だ。
庄屋の屋敷から大井村役場、大西町役場へ使用目的も移り変わってきたが、隣のクスの大木とともに、町の象徴として歴史を見続けてきたのは間違いない。
でも、なぜ屋根に瓶(かめ)を置いたのだろう?。
全国的にも、見たことのない形態の建物なのに、文化財にも指定されていない。なぜだろう。
今、保存、活用に積極的な動きもみられない。なぜだろう。
“謎”の多い旧庄屋屋敷を3回にわたって追ってみる。
DSCF0354.jpg
      (長い板塀に囲まれ、入母屋式の大住宅は、屋根上の天水瓶とともに庄屋の屋敷らしい威厳と風格を持っている)
          DSCF0359.jpg
               (天水瓶の部分をアップにした写真。なぜ屋根の上に瓶を置いたのだろうか)
【1】建物のルーツを探る。
 まずは、この建物がいつ建てられたものか。その謎解きから始めてみよう。
 その手掛かりになるのが、建物の棟札(むなふだ、むねふだ)といわれるものだ。棟札とは、棟上げの時に棟木に打ち込む縦長い木の札で、工事の由緒、建築年月日、建築主、大工名などが書かれている。これがあれば、建物のすべてが見えてくる。

 この建物には、2つの棟札が確認されている。

 そのうちのひとつは、昭和63年2月に発見された。肝心の建築年月日の部分が欠け落ちてはいたが、庄屋井手太左衛門、真光寺十七代住職諦誉圓澄師の名前が判読できた。この人名で、時代が分かってくる。

 井手太左衛門とは、井手家6代目の人物で、天明6年(1786)4月13日に改庄屋(あらためしょうや=数か村を束ねる庄屋)になり、天明から寛政、享和、文化元年まで江戸時代後期の19年間庄屋職にあったことがわかっている。また真光寺(井手家の菩提寺)十七代住職の在任期間は、天明6年9月から同8年1月までだから、この住宅の創建は、2人の在任がダブりあう天明6年9月から同8年1月までの間であることが確認できる。つまり、今から220余年前に建っていたのだ。

 では、今ある建物がこの江戸後期のものかといえばそうではなさそう。というのは、平成2年11月から河合勤氏(日本建築学会評議員)らの調査で、棟札がもう一枚出てきて、これに“上棟 明治4年(1871)6月24日”との記述があったのだ。玄関屋根から発見された棟札には、「橘姓井手家再建家運長久子孫繁栄祈所」と書かれ、人名としては「井手左太郎橘正充」「井手清市郎橘正意」などの名前が読み取れた。井手正充とは井手家8代目で大庄屋を務めていた人物、また井手正意は大庄屋格で同9代目の当主だ。井手家再建と記載されているから、つまり、井手家8代目が中心となって明治4年に、この屋敷を“再建”したということがわかる。

 棟札にある「再建」とは、全面的な改築か、部分的なものかが気になるところだが、調査にあたった河合氏によると、「この建物は、大黒柱や床の間は再用材を用いている。が、大部分は新材によっており、再建の意味は、元の建物の位置に、新材をもって建て替えた。屋根については当初から瓦葺だったことがわかった」旨を、旧井手家庄屋建物の第二次調査報告書で判断している。
          DSCF0362.jpg
 (唐破風の玄関を構え、威厳を見せつけるが、入り口がサッシになるなど庄屋屋敷からその後の役場庁舎へ、改造されている。) 
 今の建物は見ての通り、木造2階建て入母屋造り本瓦葺き。大屋根の上に越屋根状の小屋根を2か所のせ、これに天水瓶を据えている。玄関は唐破風の屋根構えで、威厳を見せつける。

 とにかく独特の構造を持つ建物。永年、全国の古建築を見歩いている人のブログでも、井手家住宅について「屋根の上に天水桶・瓶をのせた建物は、高野山・金剛峯寺以外に見たことがない」と書かれている。文化庁の文化財・建造物担当のセクションでも、「他には、聞いたことがない」という。

 なんといっても、やはりこの建物の最大の謎は、“なぜ屋根の上に天水瓶を置いたのか”-ということ。これを解明していく必要がある。

 が、その謎を解いていくには、あまりに記事が長くなった。ここで小休止。
謎解きの続きは9月18日(水)に掲載予定とさせてもらう。

*参考*
<井手家の系譜>
初代 井手清右衛門 寛永13年(1636) 野間郡大庄屋
2代 井手清右衛門 慶安 4年(1651) 野間郡大庄屋
3代 井手又左衛門(のち清右衛門と改名) 延宝 7年(1679) 野間郡大庄屋
4代 井手清右衛門 宝永 5年(1708) 野間郡大庄屋
5代 井手清右衛門 享保18年(1733) 大庄屋見習い
          宝暦 2年(1752) 野間郡大庄屋
6代 井手太左衛門 天明 6年(1786) 野間郡改庄屋
7代 井手又左衛門 文化 2年(1805) 野間郡新町村庄屋
8代 井手正充   文政10年(1827) 野間郡新町村庄屋
          安政 2年(1855) 野間郡大庄屋
          明治 2年(1869) 野間郡佐方村庄屋兼務
          明治 5年(1872) 大庄屋を大里正と名称改正
9代 井手正意   嘉永 3年(1850) 野間郡新町村庄屋
          安政 5年(1858) 大庄屋格
          明治 5年(1872) 里正と名称改正
(元波方村庄屋大河家蔵文書より。井手家9代井手正意が自家の履歴を書いて報告したもの)

<松山藩の庄屋の格式>大庄屋、改庄屋、庄屋、庄屋格、改庄屋格帯刀、平庄屋など。

所在地:今治市大西町新町(JR大西駅前から徒歩1分。駅前から見える大きなクスの木を目標に行く。その木の隣が旧井手家の建物)
参考文献:「江戸期の野間郡と大庄屋井手家について」(怒麻18号、近藤福太郎)、「大庄屋井手家建物の調査を担当して、旧井手家庄屋建物第二次調査報告」(怒麻14号、河合勤)、大西町誌、「大樟」(旧野間郡大庄屋保存会)、「大西の史跡を訪ねて」(大西町教育委員会)

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消える、クラボウ北条工場-
今から75年前の昭和13年(1938)にできた工場だ。
倉敷紡績北条工場。クラボウの工場として親しまれて、最盛期には2,000人もの従業員が働いていた。
合理化の一環でこの6月末で閉鎖し、今は内部機械の撤去作業中。
そして、11月から施設解体工事が始まろうとしている。この広大な工場は更地になるのだ。
その跡地は、太陽光発電所になる案が有力になっている。
今見ておかないと、、、、。
北条海岸沿いの懐かしい工場のすべてが間もなく、うたかたの夢のように消え去ろうとしている。

 DSCF0463-001.jpg
  (正面入り口から撮影した倉敷紡績株式会社北条工場。戦前からある大きな貯水塔や三州碧南産の濃い朱色の瓦が目を引く)

 昭和7年(1932)、クラボウは新しい工場建設を計画し、候補地として香川県志度町と愛媛県北条町(のち北条市、現松山市)の2か所が有力だった。しかし、この時は、設備の改修に計画が変更され工場建設は一時中止になったが、5年後の昭和12年(1937)に新工場建設案が再浮上することになる。この工場誘致に貢献したのは、北条町の前町長松田喜三郎代議士。町長時代から熱心に誘致活動を続け、その熱意はクラボウを動かし、その後、松前町も候補地に名乗りを上げ競合したが、最終的に北条に決まり、地元の雇用を確保することになったのである。
    DSCF0519.jpg
(完成当時の北条工場。写真右側が正面入り口、そばには今も残る大きな貯水塔が写っている。写真下側がノコギリ屋根の工場。上部にある建物が女子寄宿舎群だが、一部はすでに解体されている。写っている大きな煙突は、松山から行く場合の目印になったというが20年以上前に解体された。=「回顧65年」から転載)
 敷地約3万坪(9万9千平方メートル)を買収し、昭和12年(1937)6月に着工、翌13年10月落成したのが北条工場。クラボウ創立50周年記念事業として、理想的な工場の建設が目標だった。

 工場建設に当たって、当時の大原孫三郎社長(1880-1943)=後に大原美術館を造った人物=は、「紡績工場らしくない明るい工場をつくる」「敷地内に、生産設備と福利施設を上手に調和させる」「後から設備の補足の必要がないよう完成工場をつくる」などを指示した。
 従来の紡績工場は、正門を入ると真正面に煙突や赤煉瓦壁があるーこの定型を破ることを指示した。今工場を見ると、その思想が見事に反映されているのがわかる。配電も全部ケーブル式地下配線で、構内から電柱が消えている。
     IMG_3995.jpg
(防火壁で囲われているため、工場のノコギリ屋根は地上からは見えない。屋根に上がると、工場の屋根のすべてがノコギリ状。その広さに圧倒される)
 この工場には、女子寄宿舎7棟、男子寄宿舎1棟、社宅55棟が付属していた。
 またクラボウは、若年労働者を企業内で教育して社会に還元するとの理念をもっており、工場内に専門・専修学校があった。北条工場には鹿島家政専門学校があり、昭和40年(1965)のデータでは、本科(3年制)に204人、専攻科(本科修了後の2年制)107人が在籍していた。仕事と勉強を両立させていたわけだ。

 さらに従業員の演劇、音楽、いけばな、茶道、書道、洋画、写真などの文化サークルや、各種スポーツ部もあり、バレーボールや野球部は今年の閉鎖時にもまだ活動を続けていた。音楽サークルのOB・OGは、今でも北条公民館に集まって歌を楽しんでいる。多くの方が60歳を越えているのだが、、。

 従業員は、愛媛県出身者が圧倒的に多かった。昭和28年(1953)の記録によると、当時の従業員数1,176人のうち男性の97%、女性95%を愛媛県人が占め、平均年齢は22・2歳。若い人には、あこがれの職場で、入社の競争率は高かったという。工場内の寄宿舎には男女542人が住み、青春時代を送っていた。
             DSCF0481.jpg
(女子寄宿舎の「あやめ寮」。女子の若年従業員が楽しく生活することができるようクラボウの労務管理によって、他の繊維業界よりも定着率はよかったという) 
 女子の寄宿舎だけで7棟もあったのだが、機械設備の更新で、生産性が向上するのと反比例して、人手を必要としなくなっていく。昭和58年(1983)の従業員は607人に減っていた。そして、今年3月下旬、「製品価格の下落で繊維事業の収益力が低下しているため、国内の生産設備の集約化」の一環として北条工場の閉鎖が発表された。6月末で閉鎖。最後の従業員数は最盛期の10分の1以下、わずか136人にまで減っていた。

 今も2階建ての女子寄宿舎が2棟残る。無人となった室内。最近まで使われてきただけに、住んでいた人の息遣いが聞こえるような生々しさがまだ残っていた。寄宿舎からは、何人もの人が通り過ぎて行った長い長い屋根付きの通路が工場まで伸びている。また、寄宿舎の隅に、もう10年以上も使われていないが、大きな洗濯室棟が残っていた。一度に50人以上が洗濯できる。昭和レトロを象徴するような洗濯板も残されていた。現場に立つと、ここで、わいわい言いながら洗濯する若い女子工員たちの姿が浮かんでくるような気がした。
  DSCF0500.jpg
   (寄宿舎から工場へ長く続く通路。いったい何人が歩いたことだろうか)
     IMG_3997.jpg
               (洗濯機が普及するまで、使われていた洗濯場。干し場にもなっていた)
 北条工場については北条市誌に次のような記述がある。
「紡績と織布の2部門を直結する合理的な工場として創業したので、低コストで生産を上げることができるため、どのような局面にあっても最後まで残る工場であろうとの評価さえある」、「市内からの通勤者も頗る多い。親子2代や兄弟で勤務している者もあり、『倉紡一家』を形成している家も出てきている」。

 安い輸入繊維の流入による環境の悪化は、当時の想定を上回るものがあったのだろう。戦前では最後の新鋭工場といわれたクラボウ・北条工場は、75年で歴史の幕を下ろすことになった。11月には施設取り壊し作業が始まる。すべての解体作業は約半年かかる予定。来年4,5月には、ここに工場があったことが夢だったかのように、広大な平地のみが広がっていることだろう。
                DSCF0504.jpg
(操業以来ずっと栄枯盛衰を見続けてきた貯水塔。クラボウ北条工場ののシンボルだ。これを含め全ての施設の解体作業がこれから始まり、約3万坪、坊っちゃん球場4個以上の広大な更地が出現する。昭和25年3月には、昭和天皇もご臨幸された立派な工場、多くの人々の思い出を残す工場でありながら、今のところ、記念碑を建てる計画を聞かない。あまりにも寂しいことではないか-)

所在地:松山市北条1005
(伊予鉄バス北条バスターミナルから徒歩約3分)
参考文献:「回顧65年」(倉敷紡績株式会社)、「倉敷紡績100年史」(同)、「産業の松山」(松山商工会議所)、「北条市誌」(北条市)
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