レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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宇和島秋祭り「竹法螺を吹く少女」
宇和津彦神社の秋祭りは、宇和島で最大の秋祭りだ。
ふるさとの宇和島で、この祭りを見た。何十年振りだろうか。
まつりの雰囲気は昔と変わっていなかった。
鹿踊りも、牛鬼も、みこしも、、。
子供たちのまつりを楽しんでいる光景が、昔の自分とダブりあった。
「丸穂の牛鬼は、もっと大きかったはずだが、、」。子供の目と今の自分の目の違いを感じたりした。

  DSCF0756.jpg
大きな竹法螺を鳴らし、「ほら、こんな音なのよ」。
       DSCF0749.jpg
どの牛鬼には、子供たちが付いて回った。
ブーーという音の出る竹法螺を吹いて、「牛が通るぞ」との合図の大合唱だった。
今も、小さな子まで含めて道いっぱいになって、いっしょに行進していた。この日は、車より牛鬼が主役なのだ。
いつまでも、忘れぬ思い出になっていくだろう。
宇和島のまつりは、夏の和霊さんがすっかり観光化して有名になっているが、
この宇和津彦神社は、“一宮(いっく)さま”と呼ばれ宇和島城下の総鎮守でもあり、伝統ではピカイチ。
いつまでも素朴さを残しながら盛り上げていってほしい。

丸穂の大牛鬼は、市内中心部で神輿と激しいぶつかりあいもする。これも祭りだ。
DSCF0936.jpg
注:「丸穂」というのは、宇和島の地区名。保存会もあって、大きな牛鬼を出すところとして著名だ。

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3代にわたる郵便局庁舎が残る、中山町佐礼谷
伊予市中山町の犬寄峠の近くに佐礼谷(されだに)という地区がある。
静かな山あいの集落。
ここには、戦前から昭和60年代にかけて建設された新旧3つの郵便局の庁舎がそっくり残っている。
それも半径10メートル以内に、点在する。珍しい光景だ。

まず、最も古いのがコレ。戦前の昭和15年(1940)の建築。
この年は佐礼谷郵便局が、郵便取扱所から無集配郵便局へ変わった年でもあった。
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70年以上たっているから、だいぶ傷みが目立ちだした。
街道の三叉路角にあり、一般民家とはどこか違うムードがある。
玄関あたりに、戦前の役所のような面影が漂っているからだろう。
DSCF0429.jpg
屋根の鬼瓦があるところをアップにすると、鬼の顔でなく郵便のマーク、「〒」が描かれているのが分かる。
そして、こっそり、入り口のガラスから中をのぞいたら、なんとなんと、郵便局のカウンターや窓口がそのまま残っている。
きれいに掃除すれば、今でも郵便局として使える感じだが、今は物置になってほこりをかぶっている。

戦後の局舎は、戦前のもののすぐそばに、モダンな洋風に変わって登場する。
これが2代目の局舎。
下見板張り(外壁に細長い板を下から重ねていく仕上げ方法)の近代的な建物。おそらく新築時は、地区のシンボルになったことだろう。
それでも、屋根にはやはり「〒」のマークが、あるところが面白い。

DSCF0431.jpg
DSCF0432.jpg
おしゃれな洋風の郵便局は、昭和61年(1986)まで使われた。

その後に3代目として登場して現在も使われているのが、下の写真の建物。
日本各地のどこにでもある郵便局らしい建物になった。郵便局としての統一感はあるが個性はなくなった。
これも仕方のないことか。
DSCF0433.jpg

戦前の郵便局所在地:伊予市中山町佐礼谷丙1069-23
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小雨の中で、菊間のお供馬
初めて菊間のお供馬というのを見に行った。
加茂神社の大祭の行事で、600年の歴史を持ち、県指定の無形民俗文化財。
ご存知の人も多いだろうが、
「走り込み」とも言って、子供が乗り子となって、豪華な装飾を付けた馬に乗り、約270メートルの馬場を一気に走り行く。
初めて生で見た。目の前を大きな馬が疾走し、大地を揺るがす。すごい迫力だった。

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       DSCF0639.jpg
この日(10月20日)は、あいにくの小雨模様。予定より遅れて8時半ごろから雨の中でスタート。
目に雨が入って乗りにくいこともあった様子。それでも、3-15歳までの乗り子は元気、元気。それに、出場する17頭の馬たちも練習の成果が実って(?)、ほとんど暴走することなく、一気に坂の上まで登って行った。

     DSCF0579.jpg
 この走り込みは、数頭ずつ270メートルを一気に走って行くもの。この繰り返しだが、その途中に、獅子舞や牛鬼が会場に入ってくるので、中断することも。

 特に、観客の目を引き付けたのが、巨大な菊間の牛鬼だ。
 宇和島のモノと違って、胴体がズンドウで異常に長い。とにかく大きい、サイズは宇和島を上回る迫力満点。牛鬼は南予地方独特の祭礼の練りものだが、どういうわけか、東予では菊間にだけ牛鬼が存在する。
             DSCF0492.jpg
走り込みには、「象のような農耕馬」(場内アナウンス)も登場した。足の太さ見てください。それでも、力強く走って、坂の上まで一気に駆け上がっていった。 
DSCF0602.jpg
会場には日本全国から、お祭りファンのカメラマンが会場を囲む。観客のほとんどがカメラ持参、それに携帯で馬を写す人も多かった。

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山里の秋祭りがすごかった。(内子)
愛媛県下の秋祭りが佳境を迎えている。
10月18日、豪華絢爛とか勇壮華麗とは別次元にある、小さな山里の秋祭りを見に行った。

人口650人にも満たない、喜多郡内子町五百木にある宇都宮神社というところの例祭だ。
大きな顔の、恐ろしげな牛鬼が登場、宇和島タイプとは一味違った牛鬼の姿に感動、
さらに牛鬼よりもびっくりするような行事が展開され驚かされた。
写真でご覧いただこう。
まずは、牛鬼。
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どうです。結構、怖い顔。年代もので、昭和初期のものをずっと使っている。神社のお札を張り合わせて作られているとか。口にはエダ豆の枝をむしゃぶり食っている。胴体は約3メートル。首は伸縮型で、ふだんは牛のように胴体と密着しているが、練りになると、思い切り首を伸ばすことができる。
宮出しの時は、神輿を先導する形で先頭をいく。階段を下りる。
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階段を下りていく光景がこれ。びっくりする行事と書いたのは、実はこの階段下りのこと。この写真では、見た目の感覚が表現できていない。写真が下手と言われればそれまでだが、実際に来て、この階段を上り下りしてください。なにしろその急勾配に驚く。垂直が90度だが、ここは75度、いや80度ぐらいありそう。全部で230段もの階段。幅は2メートルぐらい。この階段の途中で下を見たら、立ちくらみが起こりそうになった。
 
 松山の伊佐爾波神社も長く高い階段で有名だが、伊佐爾波は135段だし、角度もここと比べれば、まだ緩やかに思える。この宇都宮神社の階段は、途中2か所に休憩のため(?)の踊り場があるため、3分割されたような階段だが、その下の2分割分までが急角度、最終分割はやや普通の角度になっている。このため、最上部から下を見ても階段の1,2分割部分がまったく見えない。

 動画と違って写真では、傾斜角を表現するのが難しい。「まだ一度も事故は起こっていない」と、地元の人は言う。それは、一歩間違えば、大事故が起こる場所ということが分かっているから。

 遠くから現場を写したのが最後の写真。
木と木の間に階段が付いているのが分かるだろうか。その上に本殿がある。
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 よかったら、来年の10月18日を忘れずに、見に来て体験してみてください。階段を息せき切って昇降すれば値打ちが体験できると思う。

所在地:喜多郡内子町五百木2306
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伊予港のスピーダーを覚えていますか。
覚えているだろうか、伊予港から大分港へスピーダーという“海の新幹線”が走っていたことを。
この航路が開設されたのは、平成7年(1995)7月7日。実に縁起のいいオール「7」のゾロ目の日だった。
しかし、3年も持たずに航路は夢のように消えた。
あれから15年余の歳月がたった。ということは、
10代の若者の多くは伊予港に定期旅客航路があったことさえ覚えていないだろう。

今、伊予港に行ってみると、場違いなモダンな建物に出会う。
そう、これが、航路のあったことを今に残す乗客待合室の建物なのだ。
それに、屋根付きだったと思われる通路が約50メートル岸壁近くまで伸びている。
いわば夢の果ての遺産、深まる秋のなかでわびしさが募る。

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    (雑然とした港の一角に、色も鮮やかでモダンな建物が建っている。これが伊予ー大分航路の名残の待合室だ)
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       (待合室の建物そばに建つ「伊予市観光案内図」の絵地図には、まだスピーダーが描かれたまま残されていた。)

 航路が開設された平成7年とは、1月に阪神淡路大震災、3月に地下鉄サリン事件と、大きな事故・事件が起こった不穏な年だった。その7月に海の新航路として伊予ー大分のスピーダーが開設、そして空では、4月には松山空港から初の定期国際航路松山ーソウル便が開設された年でもあった。現状を見ると、海路はなくなり、空路は今も飛ぶ。海と空で明暗を分けた格好だ。

 7・7・7の日の愛媛新聞には、航路開設の全面広告が出ている。「きょうから九州⇔四国、日帰り圏」のキャッチコピーで超高速双胴型旅客船「スピーダー」(375トン)を大々的にアピールしている。航海速力39ノット(時速72キロ)、最高速力42・5ノット(同79キロ)で、伊予港と西大分港を1時間45分で結び、1日3往復した。331人乗り。運賃は片道エコノミーシートで4,800円、ファーストシートで6,800円。-あなた、乗りますか。

 就航時の記念式典には、船がオーストラリア製だった関係で駐日オーストラリア大使も列席、市長をはじめお偉方がざっと130人出席して盛大に就航を祝った。伊予港第一便には259人が乗船、「従来のフェリーに比べ所要時間は約半分になり、九州がぐっと身近になりました」との声を愛媛新聞は伝えている。このブログの読者の方で、乗った方がいらっしゃるだろうか。

 伊予港と松山までは距離にして11キロで、松山地方と九州との日帰り観光やビジネスが可能になった-と、運航会社のダイヤモンドフェリーは、PRに努めたのだが、、、。

 残念ながら、利用客は伸び悩んだ、それを打開するため、同社は平成9年(1997)7月には、別府港への延伸を開始。伊予ー西大分ー別府にして、観光客の取り込みを企画したが、どうにも焼け石に水。年間の赤字は2億円にも上ったと言われ、翌平成10年(1998)3月26日に休止となり、再開されることはなかった。
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                   (乗船口に向かってアクリル板の屋根がなくなった通路が、むなしく伸びている)

 乗り場だった場所には今、釣り人が糸を垂れていた。海鳥の声と楽しげな家族連れの釣り人の声が聞こえる。航路があった時のざわめきは全くない。歴史はこうして忘れ去られていくのだろう。後日談だが、あのスピーダーは、メキシコに売却されたという。今はどうしているのだろうか。

 伊予港に残るモダンな待合室の建物は、今は伊予市シルバー人材センター事務所となっている。さらに、屋根付き通路が待合室から乗船口まで約50メートルが伸びていて、ここに旅客航路があったことをしのばせている。この通路も、今は、屋根のアクリル板がなくなっていて、骨組みだけがさびしげに残っている。
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萬安港の石灯台(伊予五色浜)
ブルーな気分の時は、海を見に行こう。
秋の風のなかで、青い海が広がる光景はすがすがしい心にしてくれる。
56号線から、伊予市の五色浜公園へ。
公園の駐車場そばに、おっ、いいじゃないかこの燈明台。幕末風の姿で、実に威風堂々としている。

萬安港の旧灯台とか萬安港の石灯台という。伊予市指定の文化財でもある。
どんどん伸びていった防波堤の先には、新しい赤灯台も見え、新旧が見つめあっている。
夕陽があたると、さらに芸術的なムードを醸し、写真の格好の被写体になる。ドライブがてら行ってみては-。
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        (五色浜公園横に建つ“萬安港灯台”。向こうに見える赤い灯台が伊予港西防波堤灯台)

 今では聞きなれない萬安港とはなんだ。突然、江戸時代後期にタイムスリップしなくてはならない。伊予市の発展に港が必要と、安広川河口に築港を計画したのが、大洲藩手代の岡文四郎だった。伊予を訪れた伊能忠敬から港造りのヒントを得たというが、とにかく実に情熱的な信念の人。文化9年(1812)に着手して以来、なんと23年をかけ、天保6年(1835)に完成をみたのが、萬安港というわけ。今の郡中港内港にあたる。萬は“万代”、安は“安全”からとったとみられ、いつまでも安全な港-との願いを込めての命名だ。

 岡文四郎は、完成の5年前に退役し、退役の翌年死去するが、岡の意思は豊川市兵衛らに引き継がれて実現することになる。この港は、完成後、年間1,200隻もが出入りしにぎわうのだが、この地は砂浜海岸という港には不向きな地形で、その後も急激な土砂の堆積に苦しみ、浚渫作業に追われることになるのであった。

 浚渫とともに防波堤を伸ばして、湾内に土砂が流れ込むのを防ぐことになる。明治2年(1913)南突堤に約70メートルの堤防を増築したのだが、翌明治3年にこの時先端にあった木造の灯台を石造に改築した。さらに、明治44年から2年がかりで港の大改修を行い、それに伴い、この石造の灯台を大正元年(1912)に、現在地に移築したのが今の姿というわけだ。

 高さ約6・2メートル、底辺幅約2・4メートル。花崗岩で築造されている。石には碑文が刻まれているが、明治3年の新築時と大正元年の移築時のものがごっちゃになっている。今では判読困難になってもいるが、「海潮が激しくそれに砂や小石で港口が埋まり出入りの商船、漁船は特に夕夜は難儀をしましたが、この灯台の毎夜の点灯で大変好都合になった。」などの由来や世話人、寄付者の名前などが刻まれている。
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           (灯台の側面の石には、港の由来や寄付者らの名前が刻まれているが、日々判読が難しくなっている)

 ところで、今は簡単にこれを灯台というけれど、正確には「和風灯台」というもの。洋風灯台のようにレンズや反射鏡を使うものではない。燈明台という種類のものだ。当初は菜種油を燃やし、明治の中期からは石油、大正初期から電気が使われ、港を照らし続けてきたが、昭和33年(1958)に新しい灯台が出来てから、点灯の使命を終えた。

 萬安港の名前は、江戸時代の末期には使われなくなくなり、その後は郡中港といわれるようになった。その郡中港の名前も、昭和33年の外港完成とともに、伊予港と改称され、今に至っている。

所在地:伊予市尾崎(五色浜公園プール横駐車場そば)
参考文献:「いよしの文化財」(伊予市教委)、「伊予市誌」、「五色浜物語」(篠崎勇)
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銅像より橋になりたい-宇和島・穂積橋
宇和島市内にあるなんの変哲もない、小さな橋である。
この橋を「穂積橋」という。その名前を聞けば、橋にまつわるエピソードを御存じの方も多いだろう。
銅像になるより橋になることを望んだ明治の偉人-、
“民法の祖”とたたえられる穂積陳重(ほづみ・のぶしげ、1855-1926)の名前を冠した橋だ。
偉くなると、とかく謙虚さを忘れ、上から目線の人の多い昨今。
陳重の足跡をたどるとともに、改めてその考え方を現代に問いかけたい。

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   (観光客以外は、人も車もここが穂積橋と知ってか知らずか、何の感慨も持たずに渡っているように思えた)
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 (橋のたもとに小公園があり、ここの石碑に、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」と陳重の意思が刻まれている)
 明治期の宇和島は、綺羅星のように各界に人材を輩出している。その一人が、穂積陳重。安政2年(1855)宇和島市中ノ町(現・京町)生まれ。幼少期から俊童の誉れ高く、15歳で藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身)に入学して、法学を専攻。その後、イギリス、ドイツに留学して法学を研究。帰国してからは、東京大学法科大学教授となり、33歳でわが国初の法学博士となった。陳重は、わが国の法律・政治の世界の先駆者として、71歳で生涯を終えるまで常に最前線で活躍した人物だった。

 彼の業績のひとつは、梅謙次郎、富井政章とともに、明治民法典の起草にあたったこと。民法の生みの親といわれるゆえんだ。また、彼はあの大津事件の際には、同じ宇和島出身の大審院長・児島惟謙から意見を求められ、「外国でも敗戦国でない限り自国の法律を曲げた例はない」「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」と、進言して惟謙を支えた。

 彼は、愛郷心も強く、市制施行や郷土の学生への教育などでも、宇和島を温かく支援、これら功績に対し宇和島市が、陳重の死後、胸像の建立を穂積家に申し出たところ、「胸像となって同郷の万人に仰ぎ見らるるよりは、橋となって公衆に履んで渡らるるを以て無上の光栄となす」との生前の意思から、遺族に固辞された。このため、改めて改築中の本開橋(注1)を穂積橋として名前を刻みたい-と申し出て承諾を得た。昭和5年(1930)、今の鉄筋コンクリート造りで辰野川に架かる「穂積橋」が誕生したのである。昔も今も、銅像や記念碑が乱造される傾向が強いが、「橋となって踏んでもらいたい」という人物は、彼以外に聞いたことがない。

 また、陳重は地方自治についても熱い思いを持っていた。それが端的に表れているエピソードがある。大正11年(1922)11月25日、当時の皇太子殿下(のちの昭和天皇)が宇和島に来られた時のことである。

 殿下に供奉する列の順番は、県が決めていた。まず、伊達侯爵、ニ荒(ふたら)伯爵=宇和島出身、政治家、官僚=、穂積男爵、続いて県の高等官、それから市長という順番だった。ところが、当日朝に陳重が市長を呼んで「順序を変更して市長を第一としておいたから承知せよ」とのこと。市長は驚き躊躇した。「旧藩主の伊達侯、ニ荒伯、穂積男爵らの上位につくことは、甚だ心苦しい」と市長。それに対し陳重はいう。「自分たちは一市民として奉迎のため帰省したものだ。市長は市民全体の代表者として上位につくことが当たり前。県の定めたことは間違っているのみならず、高等官級の下位に市長を置くなどはもってのほかの無礼である。ぜひ第一に進むよう」。こうして、皇太子の後にまず、宇和島市長が続くことになったのである。さらに、城山にて茶菓のもてなしのシーンにおいても、皇太子の前面が市長の席で、その左右に宮内大臣、武官長、伊達侯、穂積男爵らが座り、知事などの席は別卓だった。

 宇和島市民にしてみれば、びっくりするような、溜飲が下がる出来事だったのではないだろうか。今も、皇族の方々が各地をご訪問されているが、その際の案内の役割は、陳重の思いが活かされているだろうか。

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    (陳重と弟・八束の兄弟が幼少期を過ごした家の長屋門。宇和島城城山の中腹に移築されている。)

 陳重は学究一途にとどまらず、貴族院議員や枢密院議長にもなる。男爵、勲一等旭日桐花大綬章を受けた。

 余談ながら、穂積家は、祖父や父が国学者で、教育に熱心だったと言われるが、陳重をはじめ驚くほど多くの学者が次々に出て近代日本の建設に貢献する。この学者一家の華麗な登場人物の一端をのぞいてみる。

 陳重の兄・重頴は第一国立銀行頭取、弟・八束は「民法典論争」で大きな役割を果たした憲法学者。陳重の妻・歌子は渋沢栄一の長女である。
 陳重の長男・重遠は「日本家族法の父」といわれ、最高裁判事にまでなっている。重遠は最高裁判事時代の昭和25年(1950)に尊族殺重罰規定を違憲とする少数意見を書いている(親殺しに重罰を科したこの規定は、重遠の意見から23年後の昭和48年に、法の下の平等を規定した憲法に違反するとして最高裁が違憲とした。その後、刑法の該当条項は削除された)。
 また孫の重行は、大東文化大学の学長をつとめた近代イギリス史専攻の学者である。

(注1)穂積橋の前の橋名には、文献によって本開橋説と新開橋説の2説がある。現地掲示板をはじめ、穂積橋関係記事の多数派が本開橋説を採用している。これに対し、「新宇和島の自然と文化(1)」や「南予の群像」には新開橋との記述がみられる。市教委に問い合わせたところ、「決定的な原本資料は見つからなくなっている。ただ、石碑に刻まれた橋名には本開橋とあるため、本開橋が正しいと思われる」との見解だったため、本稿では本開橋と記述した。

穂積橋所在地:宇和島市錦町と新町の境(JR宇和島駅から徒歩3分。宇和島国際ホテル近く。郷土料理「ほづみ亭」の隣)
参考文献:「新宇和島の自然と文化(1)」宇和島市教育委員会、「山村豊次郎傳」井上雄馬著、山村豊次郎傳記刊行会、「南予の群像」新愛媛
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