レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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灯し続けて82年、石土神社の高灯篭
どうです、この堂々たる姿。高さ9・5メートル。
昭和6年4月完成以来、82年もの間、高灯篭として明かりを灯し続けているのがすごい。
  DSCF1027.jpg
西条市小松町の国道11号線大頭交差点を曲がって石鎚山方向に入ると、間もなくして右側に鳥居が見えてくる。その奥にあるのが、この石土神社の高灯篭。
ちょっと読みづらくなっているが、「式年祭記念燈」と書かれている。

昭和6年(1931)の同神社の式年祭に当たって、当時の宮司がコンクリート製のこの灯篭を造った。
頂部には宝珠、笠、火袋を置く。古くは灯明、そして、電球、電球型蛍光灯に明かりは変わったが、今なお、常夜灯として点灯されている。
     DSCF1019.jpg
側面には、「昭和6年4月」や関係者の名前が刻まれている。
     DSCF1022.jpg
裏面には、明かりをつけるための梯子が設置されている。電球が切れると、これを上って付け替える。
高灯篭の前の道は、昔の石鎚山西登山口で「お山道」と呼ばれた。高灯篭は、この道を照らす重要な存在だった。
今は、地域のランドマークとして親しまれる。
平成13年(2001)、国の登録有形文化財になっている。
所在地:西条市小松町妙口
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石鎚表参道登山口へ。洞門のある道、そして紅葉
紅葉を求めて、西条市の氷見から黒瀬峠を経て石鎚登山ロープウエイ口まで、ドライブした。
加茂川の渓谷をキャンバスに黄色、赤色が一面にちりばめられている。
車を止めて、川面に視線を落とすと、おおー、なんとエメラルドグリーンの色彩があるではないか。
上流に向かうにつれ、洞門や片洞門の道も出てくる。
道幅は狭いが山峡らしい珍しい光景も楽しめる。
  DSCF1116.jpg
      DSCF1114.jpg
このルートを、石鎚登山の表参道という。
明治中期までは道なき道。車が通る広さまで広げていった苦労は並大抵なものではなかろう。
特に難関だったのが、硬い岩盤だろう。今も写真のように素掘りの洞門が残り、作業の困難さがしのばれる。
誰がどのようにして掘り進めたか。そのドラマの記述には巡り会えなかった。
今はコンクリートを吹き付けているが、万が一にも天井が落ちてきたら、車はぺしゃんこだ。
1枚目の写真は、「河口(こうぐち)1号隧道」といい、長さ11メートル。2枚目が「河口2号隧道」で、長さ21メートル。2号の方が古く、大正12年(1923)に完成したというから、今年で90歳。1号はその翌年に完成した。
      DSCF1112.jpg
       DSCF1113.jpg
天井が半分の片洞門も数か所残っている。行った日には、上からぽたぽたと水が落ち、ちょっと不気味。
このルートは徐々に2車線に拡幅が図られている。改良は牛のような歩みだが、十数年後には洞門や片洞門は姿を消しているかもしれない。
これまでの道路改良の歴史を見ると、三碧峡のある河口まで県道が開通したのが大正15年(1926)。
西条駅から河口までのバスが通い始めたのが、昭和6年(1931)のこと。
昭和20年代の半ば過ぎに、西条駅から西之川間でバスが開通、そして、昭和43年(1968)に西之川下谷にロープウエイ(往復1,900円)が開通してからは、日帰り登山も可能になった。
また、登山の拠点は、河口から、ロープウエイのある西之川へ移動。これによって河口の旅館はさびれ、さらに河口から今宮、黒川の両参道にあった数十軒の季節宿が消滅していった。だれも住まなくなった建物群。これが便利さを追い求めた結果の一断面である。
    IMG_4201.jpg
紅葉はピークを迎えている。
ただ、平日は道路拡幅工事のため、時間帯によって通行止めがあるので、立て看板で時間帯を確認して行動した方がいい。
参考文献:小松町誌、「石鎚信仰と登山道集落の変遷」村上節太郎(「文化愛媛」第2号)
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美も追求した明治橋(八幡浜)
橋は、人や車が通るために造る。だから木や石、鉄の板を敷いただけでも役目を果たす。
だけど、設計者という人は機能だけでなく、デザインにも気を配っている。
風景のなかに橋をいかに配置させるか。
珍しい構造を採用するとともに、美しさも追求した設計者の意欲を八幡浜市の明治橋に見る。
IMG_3735.jpg
      (橋の欄干がアーチの美しい曲線を描く。デザインの美しさに設計者の熱い思いがある)
            IMG_3729.jpg
                     (側面も見事なデザインとなっている)
アーチ橋は、通るところがアーチの上部にあるか、中間か、下部にあるかで、「上路式アーチ橋」、「中路式アーチ橋」、「下路式アーチ橋」に大別される。

見ての通り、明治橋はアーチの下に道路があるから「下路式アーチ橋」で、愛媛県下では、ここだけにあるタイプ。
全国的にもわずかしか残っていない珍しい造りの橋だ。現在も使われている下路式アーチ橋としては、日本で最も古い。社団法人土木学会の選奨土木遺産に認定(2010年)されている。

“明治”橋と名前がついているが、これが造られたのは昭和5年(1930)3月で、鉄筋コンクリート造り。橋長25・4メートル、幅員5メートル。千丈川に架っている。今の橋は2代目で、最初の橋は明治37年(1904)にトラス構造の木造として架橋されていたそうだ。

当時、この道は、八幡浜と宇和を結ぶメインルート。それだけに設計者は、熱い思いを込めてこのデザインを考えたのだろう。県下でもトップ級の美しさを持つ橋であるが、匠の名前は残っていない。
所在地:八幡浜市大正町
参考文献:「愛媛県の近代化遺産」県教委
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段畑余話~「海の鼠」からネズミ騒動の顛末~
前回、「“奇跡”の段々畑!水荷浦(宇和島)」を書いた。
その際、当時の宇和海村一帯で異常繁殖したネズミ騒動についても触れた。
吉村昭の「海の鼠」という短編は、この騒動がテーマ。
舞台は、騒動の発端となった戸島。ネズミの大発生、その駆除に振り回されて疲れ切る人々の様子が生々しい。
駆除は今考えると、滑稽にさえ思える方法も飛び出す。
人々は異常繁殖したネズミにどう立ち向かったか。「海の鼠」からネズミ退治の歩みを見てみた。
   DSCF0896.jpg
       (城壁のように頂上まで築きあげられた宇和島市遊子水荷浦の段々畑。ここら一帯にもネズミがわいた)
騒動の発端はこんな具合だった。
「鼠が湧きました」「浜を歩きますと、鼠を踏みしゃぎます」--。村長らが県の郡事務所で被害を訴える。
だが、相手は不熱心な表情で、「いずれにしても、請願書をだしてもらわなくては、、」。お役所仕事そのものだった。

20日ほどもかかってようやく書類がそろったが、受理されず、係員の手で訂正を繰り返させられていた。
台風も接近したりして、遅れに遅れて再び郡事務所に行ったところ、担当者の表情は一変していた。「近くの日振島でも湧いたよ」と、やっと尋常でない現象であることに気づいたのだ。

現地に来た係員は、その想像を絶するおびただしい鼠の姿にたちすくむ。
ここから、人口2,000人VSネズミ50万匹の限りない戦いが始まった。
        DSCF0874.jpg
                 (風光明媚な宇和海。まさかこの海からネズミが押し寄せてくるとは、、。)
武器として最初に持ち込まれたのが、オーソドックスな①金網式鼠取り器だったが、これは小型のものしか捕獲できない欠点があった。次いで導入されたのが、②駆鼠剤(猫イラズ)。発火点が低く、火事になる恐れはあったが、殺傷力は確かで、10匹の死骸を見れば、人目につかぬところで200-300匹は死んでいるといわれた。強い威力で一時は喜ばれたのだが、目につかぬところで死ぬ習性が、恐ろしい結果を招いた。梅雨明けになって、天井からウジがポタポタと落ちてきた。天井裏を見てみたら、そこには、ネズミの死骸が累々と横たわっていたのだ。これで、猫イラズは中止になった。

 ③パチンコ式罠。捕獲率は85%でよかったのだが、トビが捕獲されたネズミを襲い罠を血だらけにするため、毎回洗わねばならなかった。そのわずらわしさから、結局使われなくなる。④改良型の金網式鼠取り器。入り口を広げて大型のネズミも捕れるようにしたが、一回ごとに洗浄していたら、さびてしまって1カ月でだめになった。⑤弓張り式竹罠。台湾の高砂族が使ったというが、竹を放つ音にネズミが怯えて期待外れに終わった。⑥チュウブ入り黄燐性剤。値段が高く、買う人は少なかった。

*天敵の青大将やイタチ、猫、それに強烈な劇薬も投入されたが。

被害の少ない畑には、ヘビがいついていたことから、ネズミの天敵のヘビの導入作戦が始まった。
人に無害の⑦青大将を191匹放った。
これは効果がさっぱりだった。ヘビは満腹になると1週間動かない。おまけに冬眠してしまう。

業を煮やした当時の農林、厚生両省は、必殺の切り札を投入してきた。⑧毒性激烈なモノフルオール酢酸ナトリウム性剤で、ネズミが食べると即死する。これはすさまじい効果があった。路上に死骸があふれた。「大成功です。死骸が村中に転がっています」と報告。役場前に運ばれた死骸は6,000を超えた。その夜役場では酒宴が開かれ、人々はようやくネズミ絶滅のめどが立ったと喜んだ。翌日には1万匹も捕れ、重油をかけての焼却処理に追われた。

万々歳と思ったが、人々はある日ふと気付いた。鳥がいなくなった、猫も犬も、、、。「生きているのはネズミと人間のみ」だった。劇薬は島の自然環境の均衡を徹底的に破壊つくしていた。
厚生省内でもこのまま継続するかどうか激しい意見の対立があった。学者は長期間の使用は避けるべきで、他の方法を考慮せよーとの意見で一致。結局、使用は中止された。

次に厚生省が投入したのは⑨クマリン系殺鼠剤。慢性中毒にさせて死なす。これは明るいところで死ぬメリットがあった。即死はしないが、徐々に駆除効果があるように思われた。

自然に優しい天敵を探す努力も続いた。浮かんだのが、⑩イタチ。ヘビと違って、ネズミを見たら殺す習性を持ち、冬眠はしない。俊敏でどう猛、うってつけの天敵と思われた。120匹を放った。当初、血の跡などから、成果が上がっているものと見られたのだが、その痕跡は日を追って少なくなっていく。学者に聞くと、「雄と雌の比率が悪くて仲間同士で殺害しあったのだろう」。
このあと、天敵として⑪アメリカ産のフィッチというイタチも投入された。飼育している業者が近くにいた。雄雌の数も揃えることができ、日本イタチの半額で入手できるメリットもある。1,000匹を持ち込み活躍を期待したが、なんと「このフィッチは飼育に次ぐ飼育で」「肉食獣としての野性を失っていた」。人に食いものをねだるありさま。いつしか、姿を見なくなり、死骸がところどころに発見された。

そして、トムとジェリーでおなじみの天敵・⑫猫も大量投入された。その数、3,600匹。が、大柄の野良ネコはネズミを捕ったが、子猫は大きなネズミに怯え、後ずさりするばかり。ここの猫にとって、ネズミと戦い、とらえることで飢えをしのぐ必要はなかった。ネズミを食べるより浜にある煮干しを食い荒らし始めた。煮干しの加工業者はネズミとともにネコに悩まされることになっていった。ただ、それも1カ月余のことで、猫の間で伝染病が発生し、猫の数は激減する。

人の力はここまでだった。ネズミは減るどころか増えるばかり。
しかし、ある時、ネズミはいなくなった。


若者が村を離れ、段畑耕作者の老人が亡くなると、それを引き継ぐ者はいない。畑の放棄が目立ちだし、また海でもイワシの回遊が激減し、煮干しが浜から見られなくなった。島にネズミの食糧が少なくなった。
そして、ある日、島から半島部に向かってネズミの大群が泳いで脱出しているのが目撃された。
                   DSCF0989.jpg
                          (吉村昭著「海の鼠」新潮社)
人口は半減した。ネズミは消えた。
「島に発生した鼠の数が減少したのは、駆除方法が成果を収めたわけでは決してない。鼠が食糧の乏しくなった島を放棄したにすぎないのだ」--「海の鼠」の一節である。

昔は、ネズミがどこにもいたように思う。天井裏で運動会をされたこともある。猫イラズで退治した記憶もある。ところが、最近ではトンとネズミ被害の話を聞かない。しかし、田舎よりも大都会の飲食店内や下水道内でネズミが秘かに大発生しているとは言われている。耐性の強いスーパーラット問題も浮上している。突如異常繁殖することはないのだろうか。
そのとき、人類はどんな対策で臨むのだろうか。

吉村昭(よしむら・あきら、1927-2006):東京生まれ、歴史小説やノンフィクションの作家。特に綿密な現場取材で知られる。太宰治賞、吉川英治文学賞、菊池寛賞などを受賞。主な作品は「星への旅」「戦艦武蔵」「長英逃亡」など。「海の鼠」は昭和48年5月、新潮社から短編集として刊行された。その後、この短編集は「魚影の群れ」と表題を変え新潮文庫、ちくま文庫に収められている。
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“奇跡”の段々畑!水荷浦(宇和島)
南予では、段々畑なんてどこにでもある風景。
だから、宇和島市遊子の水荷浦(みずがうら)の段々畑もちょっと広いだけだろうと思っていた。
ところが、現場に行ってみると大違い。
これはすごい!。壮大なスケール。今まで見たことがない。
「耕して天に至る」というのは、本当だ。日本人が汗で築きあげ、今に残る“奇跡”の遺産といえよう。

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高さや幅は1メートル余、急な斜面を上へ上へと積み上げていった段畑。頂上まで50~60段もある。
平均勾配は40度というが、場所によっては、すごい急傾斜で下を見たら足がすくむほど。もし畑で立ちくらみでもしたら、大変なことになりそう。実際に耕作中に畑から転がり落ち、けがをした人もいるそうだ。
この段畑、まさに命がけの造成だっただろうし、それに実際の農作業も平地とはケタ違いの重労働だろう。

造成は、江戸時代後期に始まったという。
当時のここは、イワシ漁中心の漁村だった。食糧自給のため、サツマイモ栽培目的で段々畑の造成が進み、その後は、養蚕が盛んになれば桑を植え、また柑橘がいいとなれば、ミカンを植えたりしたのだが、結局はサツマイモ栽培を中心に段々畑が広がった。そして、サツマイモの暴落などを経て、早掘りジャガイモが栽培品目の中心になっていった。今日まで、段畑が残った要因のひとつは、ここが無霜地帯でジャガイモの栽培に適していたことがあげられる。

戦後の食糧増産の掛け声に乗って、水荷浦の山林は伐採が続き、頂上まで段畑に変わっていった。
城壁のような石垣は、「親父が石を砕き、子供も運ぶ、そして爺が築く」と言われた住民の汗の結晶だ。石垣の積み上げられた石のひとつひとつに当時の人たちの、気の遠くなるような労苦がしみついている。
   
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ところが、この自然を破壊するという罪は、恐ろしい罰が牙をむいて襲ってきた。
ネズミの襲来である。

天敵のトビもいなくなり、ネズミの大好物のイリコやサツマイモ類が豊富で、また石垣が格好の住み家になったことで、それこそネズミ算式にネズミが異常繁殖。昭和35年ごろのピーク時には、この地区を含む宇和海村の人口6,000人に対し、ネズミはその100倍の60万匹に達したという。ネコさえも大きなネズミに怯え、乳児は鼻や口を噛まれるほどの異常事態になった。

このネズミ騒動、どうしたら終息させることができるかー。
当時の道後動物園は「耕作をやめ、段畑を自然に帰しなさい。それ以外にネズミを駆除する方法はない」と、回答を出した。
しかし、この意見に耳を傾ける人は少なかった。毒餌は弊害があり、天敵作戦も大きな成果が上がらなかった。役場は駆除の促進のため、1匹2―5円の買い上げ代金を出し、人々は、ネズミのシッポを役場に持って行き、買い上げてもらう日々だった。
駆除作戦は、決定打のないまま月日が過ぎた。ところが、思いもよらぬ経済状況の大きな変化が駆除を後押しすることになるのだ。不漁、倒産という形でイワシ漁が終わり、出稼ぎに行く人が増えた。その後は真珠、ハマチの養殖時代に入り、海の仕事が多忙になった。それによって老人が段畑の放棄を始めたのだ。ネズミは生活環境の変化で餌が減ることと歩調を合わせるように減り始めた。そして10数年にわたるネズミとの戦いは、終わりを迎えるのだった。

この壮大な遺産の陰には、「自然破壊はいつか罰を受ける」とのこんな苦難の歴史も隠されている。
DSCF0915.jpg
住民の生活と連動して、一時は30ヘクタールをゆうに超えていたという遊子地区の段々畑だが、平成7年には1・6ヘクタールにまで減少した。しかし、景観美が再認識されて、平成12年に地元で「段畑を守ろう会」が結成された。徐々に耕作も復活し、今では4ヘクタールにまで回復している。

モノレールがついたりして、少しは労働が軽減されたが、除草は今なお手作業で、続けられており、石垣に雑草は見当たらない。

平成19年には全国で3例目の「国の重要文化的景観」に選定された。選定基準1の「水田・畑地など農耕に関する景観地」である。文化庁の水荷浦の段畑についての解説には「農耕を継続的に営むことにより、緩やかな発展を遂げた特色ある文化的景観」としている。国の“重要文化的景観”は、現在35件が選定されているが、複合的な理由での選定地域が多く、段畑のみが特色というのは、この水荷浦だけ。シンプルかつインパクトの強い景観地といえる。

今、観光で脚光を浴びているのは、日本のマチュピチュといわれる竹田城跡(兵庫)。それに愛媛では、旧別子銅山東平ゾーン(新居浜)。一度は見てみたいーという神秘的であったり、信じがたいところに構築された特異な景観が、人気急上昇中だ。ここ水荷浦の段々畑は、それと同類に近い観光資源であろう。
先人が血と汗でつくりあげた奇跡の段々畑である。何かの仕掛けで、大化けする可能性を秘めている。

訪れた人は「よくぞこんなに積み上げたものだ」と、人の力のすごさを思わざるを得ないだろう。顔を上げれば美しい宇和海が一面に広がっている。ほほをなでる心地よい潮風も魅力の一つだ。
(なお、段畑は、数か所に分散して残っている。駐車場やだんだん茶屋のある地点の景観地が最も広いメーンの段畑といえる)
         DSCF0865.jpg
段畑への作物植栽の例年のスケジュールは、11月にジャガイモの植え付け、4月収穫、6月にサツマイモ植え付け、10月収穫。4月には「だんだん祭り」のイベント開催予定。

所在地:宇和島市遊子水荷浦(ゆすみずがうら)
段畑を守ろう会事務局(0895-62-0091)
JR宇和島駅から車で40分。無料駐車場有。段畑では、見学用の通路を歩くこと。畑の中には入らないなど、段畑の維持保守管理にご協力を。
松山方面から:国道56号ー宇和島北IC-宇和島南IC左折-国道56号寄松交差点右折(三浦半島方面)-県道37号ー県道346号
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