レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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松山の代表的な看板建築「森家」住宅
見事な緑青の壁面を持つ商家が、松山市に残っている。
三津の森家住宅。
これが、関東大震災後に商店に用いられたいわゆる看板建築という様式の建物。
昔はかなりあったというが、銅板を使った看板建築で今も残るのは、松山ではもうここだけではないか。
国の登録有形文化財にもなっている。ぜひ見ておいてほしい建物だ。
  DSCF1529.jpg
森家は天保年間に中島から三津に移り住み、萬問屋(よろずとんや)、精米・精麦業を営んできた。
現存する住宅は、昭和4年(1929)5月の上棟。
商家なのだが、萬問屋は商談接待による商売だから、小売店と違ってモノを販売するスペースはない。
また、森家は代々、句会を自宅で開くなど、文化人の側面ももっている。
このため、家には商売と、俳句の客が出入りすることを考慮して、座敷、階段などが配置されている。

  DSCF1521.jpg
細かなところにも、細工が施され、職人の心意気が伺える。

なんといっても建物の2階の壁面に銅板を張っているのが、最大の特色。防火建築となっているのだ。これは、関東大震災(大正12年、1923年)後に、東京を中心に盛んに建てられ、前面を銅板やモルタル、タイルで装飾したいわゆる看板建築といわれるジャンルの建物だ。
商いで東京に行くことの多かった森家の当時の当主は、東京でそのような防火建築に触れ、その様式を松山に持ってきたのではないかと思う。
ちなみに、銅のサビ・緑青はいったん表面を覆うとそれ以上はほとんど進行せず、水などを遮る膜となって劣化を抑える。銅の色は、赤銅色→褐色→暗褐色→黒褐色→緑青の順で変化すると言われ、緑青になるまでには10-15年かかる。森家のような緑青は年代が経っていることの証明になる。

      DSCF1525.jpg
住家の奥には、天保5年築造の小さな庭があり、ここに「連理の木」と名付けられた珍しい木がある。2本の枝が途中でくっつき、丸い空間が出来ている。縁結びの神秘的なパワースポットとしてPRされている。
また、2階は三津浜資料館となっている。

森家住宅は今、「鯛や」という鯛めし専門の料理屋。メニューは鯛飯のみ2,100円、1日30食限定。要予約。11:30から15:00まで。定休は火曜・水曜(祝日は除く)。正月は2―4日休業。5日から通常営業。
電話:089-951-1061
住所:松山市三津1丁目3-21

参考文献:「愛媛県の近代化遺産」(県教委)、「三津の古建築ものがたり」(池田由美、愛媛新聞サービスセンター)
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モダンでシンプルなアーチ橋、落合橋(今治市玉川)
今治市玉川町の鈍川温泉に向かう途中にあるのが、落合橋。橋の上からは、古ぼけた橋としか思えない。
ところが、橋の下に降りて横から見るとこれがすごい。
開腹式コンクリート製のアーチ橋で、そのダイナミックな姿が誇らしげだ。
昭和12年(1937)8月完成だから76年前の作品。
モダンでシンプル-というのが、落合橋の特徴だ。
DSCF1354.jpg
蒼社川の上流、渓流美と橋の白さが見事にマッチしている。
欄干のデザインもいい。
       DSCF1338.jpg
長さ27・5メートル、幅員2・8メートル。車同士の離合はできません。
右の親柱に「落合橋」、左には「おちあひはし」の文字、どちらも達筆である。
       DSCF1369.jpg
この橋脚の基礎は、明治時代にできた長谷発電所の水路の遺構を利用しているという。

DSCF1375.jpg
おおっ!、帰り道に新発見!?。
落合橋の約10メートル下流に、木々や雑草に埋もれながら大きなコンクリート遺構が隠されていた。
写真中央部わかるだろうか。高さ5-7メートル、漢字の「日」の最下段の横棒を除けた形。
落合橋を架ける以前は、ここに吊り橋があって、その支柱だろうか?。
それとも、発電所の取水堰に絡む遺構だろうか?。
茂みの中に入っていく勇気のある方は、ご確認ください。

交通ガイド:国道317号から、今治警察署玉川駐在所のある信号交差点を、鈍川温泉に向かう県道へ入る。バス停「鬼原(おにばら)」のところを、左側の旧道へ下りていく(国道端に駐車して歩いた方がいい)。約20メートルで落合橋がある。橋のたもとに、川に降りるロープがあるので、ありがたく利用させていただいた。感謝。
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松山にもある昭和初期のコンクリートアーチ橋
松山市にも古いコンクリート・アーチ橋が残っている。
昭和5年(1930)7月完成の宿野々橋(しゅくののはし)。
奥道後の上流、石手川の渓谷にひっそりとたたずむ。開腹上路式では、愛媛で5番目の古さ。

DSCF1229.jpg

アーチの支柱にもアーチを配置、細かなところにも気を配ったデザインが美しい。
長さ25・4メートル、幅員4・5メートル。この橋の下流に湧ヶ淵がある。
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親柱にも「宿野々橋」「昭和5年7月架設」がはっきり残っている。
山里に立派すぎるぐらいの橋と思えるが、石手川ダムができるまでは、この道が日浦地区に行くメインルートとなっていて、交通の要衝だったそうだ。
DSCF1225.jpg
DSCF1226.jpg

今、この道はダムのところで行き止まりになってしまう。川向うの宿野町の10数戸が生活道として使うのが中心で、寂しくなっている。
DSCF1239.jpg

交通ガイド:所在地は松山市宿野町。松山市から今治に向かう山間ルートの国道317号を走る。奥道後ホテルから、さらに約200メートル走り、湧ヶ淵トンネルの手前を右側の旧道へ入る。約100メートルで石手川に架かる宿野々橋に出会える。石手川ダムへドライブする時、時間があるようなら、この旧道経由で行くことをお勧めする。
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千野々橋VS発電所。どちらが先にできたのか?(西条)
(前回の続き)愛媛県下で最も古い鋼鉄製のボウストリングアーチ橋、「千野々橋(ちののはし)」。
西条市の加茂川上流に架かる。親柱には、大正14年(1925)5月完成-と刻まれている。
これに対し、この橋を渡って数百メートルの場所にある住友共電・大保木(おおふき)発電所も、同じ大正14年の3月完成と、同社のホームページに記載されている。
おや?、同じ年に両方が完成とは、、。

発電所の重い資材を川向うに運び込むのは困難だ。
だから、橋を吊り橋から鉄橋の千野々橋に変え資材を運び入れたのではないのか。
橋の完成した後に発電所が完成していないと、おかしいことになる。
完成時期は、どちらかが間違っているのではないか。このミステリーの解明を試みた。
   DSCF1121.jpg
100%間違いないと思われるのが、千野々橋の完成時期の方だ。親柱に、はっきり大正14年5月と刻まれているから疑問の余地はない。

なら、発電所の完成時期が間違っているのではないか。
住友共電のホームページには、「当社の水力発電所の中で最も古い発電所です。完成年月・大正14年3月」と記載されている。
さらに、同社の社史「住友共同電力のあゆみ」(創立80年記念誌)にも、同様の記述がみられるのだが、問題になるのは、その完成年月を裏付ける立証資料の記述がないこと。例えば、当時の監督官庁への届け出記録や新聞報道、建物の完成記録・棟札など、裏付けるものが記載されていない。

同社にも問い合わせた。その結果は、「調べてみたが、なにぶん古いことなので裏付け資料は発見できなかった。当時のことを聞いている社員もいないように思う。どんな工事をしたかは、想像しかない。関係官庁には“大正14年3月”完成と報告し続けており、その記述は間違いないと思っている」
              DSCF1120-001.jpg
完成時期を巡って「千野々橋VS発電所」は、どちらも一歩も譲らない。

そこに登場するのが、元高校教師S氏(現・大阪府在住)のこの地区(旧大保木村)の歴史に関する論稿である。
S氏は平成17年から19年にかけて、西條史談(西條史談会)に「現地調査に基づく旧大保木村の歴史」、「旧新居郡大保木村の歴史と年表」の論稿を発表された。

そこに千野々橋と発電所のことに触れている項目がある。
「高田屋商店の前に鉄線を張り渡し、吊り橋をかけてあったが、発電所を造るために鉄橋に架け替えて、トラックにて重量ある機械を運び、発電機を設置、昭和3年、住友共電大保木発電所が完成した」。
さらに年表でも大正14年に「千野々に大保木発電所の工事が始まる」とある。

実にわかりやすい、辻褄の合う説である。
なんだ、“発電所は、鉄橋の完成後に着工し、完成は昭和3年”、それなら納得、納得。である。

しかし、何かがおかしい。S氏の論稿は、現地の人から聞き取りをしてまとめたもので、文書等の資料で裏付けられたものではない。住友共電のHPと同じで、根拠が記載されず、立証力が弱いのである。残念ながら大保木村の歴史資料はほとんど残っていない。あるのは、S氏の書いたものばかり。S氏の記述が大保木村の歴史になっている。果たしてそれはすべて正しいのだろうか。
特に、昭和3年に完成したとの、根拠はどこにあるのだろうか。(昭和2年5月に別子鉱山の電気事業が土佐吉野川水力電気株式会社に名義変更する際、その譲渡工作物の中に大保木水力発電所の名前があり、この時までに同発電所は出来ていたのがわかる)

それならば、現地のお年寄りに、橋と発電所の関係について、聞きまくってみた。
残念ながら、大正末期の、今から90年前のことについて記憶のある人とは、ほとんど出会えなかった。
だが、そのなかで、注目される発言を聞きとることができた。

それは「川から発電機械を上げたと聞いたことがある」というもの。古老が集まった時に話していたという。
ウーンン!。
まさか、重い発電機を川から引き上げるとは、、、。機械・資材を対岸から川に降ろして、川を渡して川向かいの岸の上に引き上げる手法を使ったというのだ。確かに、切り立った崖だけでなく、場所によってはややなだらかな角度のところもある。ウインチやころ、馬車などが投入されたという。つまり、橋は使わなかったので、橋と発電所が同じ大正14年に完成したというのは、あり得るということになるのだ。

重いものを川から崖上に運び上げるのは無理で、橋を架けて渡しただろうと、現代人は発想してしまう。
考えてみると、近くで鉱山採掘をしていた「住友」の工事だ。鉱山関係の機械や索道もあったし、また人力で何でもやってしまう時代でもあった。さらに、この付近には、昔川渡しがあったとの情報も得た。これらのことから、古老の証言通り、橋を使わずに、発電所の建設工事が行われた可能性はあると思われる。

千野々橋は、果たしてどんな目的で造られたのか。「愛媛温故紀行」(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)には“かつて高知県への幹線ルートとして計画された”と記載されている。が、その後の流れから見て、それは表向きの見解で、実態としては、住友のために造られた橋だったような気がする。それが発電所の建設に間に合わせるかどうかは別として、その後の設備増設や保守管理に千野々橋は、重要な橋となっていったのは間違いない(バイパス完成までは)。半面、高知との幹線ルートとは程遠い存在といえるだろう。

結局のところ、橋と発電所の完成時期について、断定できるものは確認できなかった。
現時点では、住友共電には第三者にわかる立証資料がないし、S氏のこの件についての論稿は確たる裏付けに乏しい。発電所がいつできたか?、どこかに裏付ける資料はないものだろうか-。ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ、ご教示をいただきたい。

(S氏にも取材を申し込んだが、事情があって応じてもらえなかった。私は、S氏の大保木村の歴史に関する数多くの論稿を、高く評価し、顕彰する者のひとりである。)

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愛媛最古のレトロなアーチ橋「千野々橋」(西条)
石鎚登山ロープウエーに向かって、西条市の県道12号線を走っていたら、いやでも目立つ赤い橋があった。
加茂川上流に架かる「千野々橋(ちののはし)」。この橋も長浜と同じように赤いから通称“赤橋”という。

とてもレトロな雰囲気を醸し出している。昔、どこかでよく見たような気のする橋。
大正14年(1925)5月の完成で、今年88歳の米寿を迎えた。
形状からボウストリングトラス橋といい、このタイプでは、県下最古の、文化財級の貴重な橋なのである。
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ボウストリングトラス橋といわれても意味不明の人も多いはず。
そこで解説を。

この橋を横から見たら、弓の形に見えるでしょう。
だからボウ=弓、ストリング=弦、弓弦の形をしたトラス橋という意味。
では、トラス橋とは?。三角形の持つ独特の性質を利用した橋のこと。
弓のような形といえば、アーチ橋というのがあるが、アーチはアーチ構造を使って荷重を支える。トラスは三角形の構造で強度を保つ違いがある。
ボウストリングトラスは、明治、大正期に流行った古い形式。端部の強度に難がある欠点があり、現在ではほとんど採用されていない。
DSCF1120.jpg
大正14年5月完成と刻まれている。千野々橋の架かっている場所には、以前吊り橋があった。(西条市観光協会のHPによると、千野々橋右岸の榎の大木に今も、吊り橋の縄目の跡が残されている)。

千野々橋は、かつては石鎚登山のルートにもなって通行量が多かったのだが、新しくバイパスが出来てからは、旧道になり、すっかり通行量は減った。今では「石鎚ふれあいの里」へ行く人が主に利用する橋となっている。
住友重機械工業の製作。昭和44年と55年の2回、補修され、88年経った今も現役で頑張っている。
ぜひ、橋を見て、ねぎらいの言葉をー。

余談ながら、この橋と、そこから数百メートル奥にある住友共電大保木(おおふき)発電所との関係に触れておこうと思う。それは千野々橋がなぜできたかと、密接に絡むことでもあるからだ。発電所を造るために鉄橋に付け替えたのか、それとも発電所は橋を使わず単独で川向うに造ったのか--?。この答えについては、2説があり、長くなりそうなので、次回掲載としたい。

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