レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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★見た! これが湯山第2発電所だ!。
松山の奥道後から石手川ダムに向かう途中の道に、薄汚れたレンガや石垣の壁面が残っている奇妙な場所がある。
いったい、こんなところに昔、何があったのだろう。(下・写真)
   DSCF1769.jpg
(ホテル奥道後から国道317号を今治方面に1・4キロ行った地点の左側。石垣とレンガの門柱のようなものが見える。これが、謎の施設の入り口)

気になっていた人もいると思うが、車では交通量が多く止まって確認することもできない。
昨年12月に、思い切ってココを歩いて調べに行ってみた。
車を避けながら、現場に行き、壁面の向こう側に何があるのかをのぞいてみた。おそらく何もない、そう思っていた。
ところが、この壁面のすぐ裏には、なんとレンガ造りの大きな水槽のような施設がそっくり残っていたのだ。
その下側には直径80センチほどの丸い穴の開いている施設だ。(下・写真)
  DSCF1750.jpg
       (道路からは見えないが、道路のすぐ隣にまさかこんなモノが隠れているとはー。)
それを見て、最初は農業の水利関係の施設かなと思った。年が明けてから、現地の公民館などで情報を集めようと考えていたのだが、新年に、ケイボンさん(大成経凡さん)の本を読んでいたら、そのなかに「石手川の上流に発電所の遺構がある」と書かれていた。それで、やっと気がついた。
これこそ、ケイボンさんの本や近代化遺産の調査報告書で存在が報告されていた湯山第2発電所の遺構ではないか。
それなら、この水槽の下をたどれば、発電所の建屋があるはず。

1月下旬に再度、現地に行き、足を滑らせながら斜面を下って行ってみた。
すると、水槽の穴のところから下に向かって、水圧鉄管を支えていただろう支台の跡が数メートルおきの間隔でそのまま斜面に残っていた。(下・写真)
  DSCF1647.jpg
  (水圧鉄管を支えていただろう支台が今も、山の斜面に整然と残っている。支台には、コンクリート製やレンガで組んだ台をコンクリートで覆ったものの2種類があるようだ)
これは発電施設に間違いない。水槽は上部水槽といい、ここへ河川から取水堰-導水路を経て運ばれてきた水が集められ、一気に水圧鉄管を下り建屋内の水車を回し、発電機で発電するのが水力発電の基本的仕組みだ。

その支台跡をたどってさらに下へ。20-30メートル行く。竹藪や蔦が邪魔をする。地面の方ばかり見ていたら、目の前にレンガのアーチが見えた。アーチの部分に見とれていて、何気なく視線を上げていったら、何か壁面がボーと見え、左右にずっとひろがっているではないか。おお、ここにあるのは探し求めていたレンガ造りの建屋だ。これは結構、感動ものだった。
DSCF1660-001.jpg

雑木や竹藪の茂みの中に、今から103年前の明治44年(1911)8月に竣工した「湯山第2発電所」の建屋が眠っていたのだ。近代化遺産調査の本に1枚だけ掲載されていた写真と同じものがここにあった。
廃止になったのが昭和32年(1957)だから、ざっと57年も誰にも見守られることなく寂しく風雨に耐えてきた施設だ。(下写真が建屋全景)

   DSCF1675.jpg
   (正面の入り口=写真右側の空間=は川側にある。間口は約2メートルあるが、扉はなくなっている)

建屋の広さは前面が12メートル、奥行きが13メートルぐらい。屋根はなくなっている。入り口の戸や窓もすべてなくなっているが、レンガの壁面は頑丈で、ほとんど痛んでいない。明治の職人が、いかにしっかりした仕事をしていたかが分かる。
   DSCF1706.jpg
   (側面の入り口にあるひさしは、今にも崩れそう。木が入り口から室内に向けてどんどん成長し、歳月の長さを感じさせる。)

下の2枚の写真は、建屋内を写したもの。室内に床はなく、入るためには約1メートル下の地面に降りなければならない。水車や発電機があったはずの建屋内には、雑木やシダ類などが生い茂り、徐々に自然に還りつつある。

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対岸に道が見えたので、対岸からこの施設がどう見えるのかも調べてみた。が、対岸も木が視界を邪魔し、冬場でも雑木の茂みの中に埋もれ、レンガが保護色のようになって建屋を確認するのは難しい。これが、新緑の季節にもなると、さらに緑によって覆い尽くされ、姿を見ることはできそうにない。

雑木に埋もれる施設。このまま、この発電所のことは人々の記憶からも消えていくのだろうか。

この、松山市湯山地区は、四国の水力発電発祥の地といわれる。四国で最初の水力発電所は、明治36年(1903)1月竣工の湯山第1発電所(奥道後ホテルのジャングル風呂の下流、出力260KW)だった。これは伊予鉄道系列の伊予水力電気がつくった。それから8年後の明治44年(1911)8月竣工したのが、今回紹介した湯山第2発電所。これは伊予鉄道のライバル会社・松山電気軌道系列の松山電気興業がつくった。出力は537KW。
さらにこの上流に、湯山第3発電所がある。大正12年(1923)7月に伊予鉄道電気の手で完成(500KW)したが、昭和32年(1957)9月に、新しく湯山発電所(奥道後ホテルの下流、出力3,400KW)が完成したのと同時に、明治から大正期にできた第1、第2、第3の3つの発電所はすべて廃止された。


参考文献:「今治発!ケイボンがゆく」(大成経凡、創風社出版)、「愛媛県の近代化遺産」(県県民環境部)、「伊予鉄道百年史」(伊予鉄道株式会社)
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明治の実業家・池田貫兵衛とその“豪邸”(大洲市)
大洲市新谷町にひときわ目立つ“大邸宅”がある。
これが明治期、主に神戸を舞台に活躍した実業家・池田貫兵衛が郷里に建てた屋敷である。
日本で二番目の電力会社「神戸電灯」を造るなど、数々の企業の重役を務め、神戸の近代化に大きく貢献した。
郷土愛も強い人物で、明治の愛媛出身の実業家として、もっと知られていい傑出した人物と思う。

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間口の長さは、ざっと100メートル。青石の石垣の上に板塀がずーと伸びる。中央には櫓門のような正面入り口。外からも2棟のレンガ造りの蔵が見える。そのうちの1棟はなんと3階建て。すごいスケール感を持った、明治期の豪邸である。
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池田貫兵衛(いけだ・かんべい)は、天保13年(1842)新谷藩重松村(現・大洲市五十崎町)の庄屋・安川源左衛門の3男として生まれた。16歳の時に下新谷村の池田嘉兵衛の養子となった。傾いていた池田家再興のため、医師を志して長崎に行く。が、藩命によって、医への道が閉ざされるのだが、時勢を読み、横浜へ、そして神戸へと移動して貿易商として頭角を現していった。

茶や樟脳の貿易で実績を上げ、その間に、第65銀行頭取、神戸区取引所理事長、神戸電灯社長、阪鶴鉄道創立委員など、明治31年(1898)のデータによると、貫兵衛は当時10社もの重役を兼務していた。なかでも、神戸電灯は東京に次ぐ日本で二番目の電力会社で、その実質的推進役となった。貫兵衛は電気産業の創始者として、歴史に名前を残している。

また、愛媛にからむ会社としては「喜多組池田河内合名会社」を上げることができよう。木蝋精製・貿易の会社で、社名の「喜多」とは喜多郡から、「池田」は貫兵衛、「河内」は大洲に臥龍山荘を建てたことで知られる同じ新谷出身の河内寅次郎のこと。喜多郡の木蝋を精製し、輸出した。また、晩年には三島(伊予市)や砥部の陶器の輸出を行い、また貫兵衛の没後、池田商会は、伊予市の郡中港埋立地に陶土工場を造り、ここは“池貫工場”と呼ばれていた。
          DSCF0066.jpg
ひときわ異彩を放つ3階建てのレンガ造り倉庫。みなとまち・神戸の雰囲気が突然、新谷にやってきた感じだろう。

貫兵衛は、明治30年代に病を得たこともあって、郷里・新谷にこの居宅の建設を計画した。宮岡晋作氏の「池田貫兵衛大人の事績」によると、貫兵衛の夫人が台湾に樟脳の買い付けに行った際、暴風で船が難破、樟脳の大部分を失って神戸に戻ってきた。「これで、池田も破産か!」と思われたが、なんとその時、内地では樟脳が極端な品不足。船に残っていた樟脳で、現在の金額にしてざっと6億円もの大儲けになったという。貫兵衛は、「この金は自分で儲けたものではない。郷里に持ち帰り、新谷の人に配る」といって、着工したのがこの屋敷の建設だったという。

当時の人夫の日当は1日8銭だったが、この屋敷の工事では1日12銭が支払われた。何十人もが毎日参加し、庭木や庭石など材料も経費を惜しまずで、にわかに“池田さん景気”が町内外で起こったと言われる。数年かけての工事で、明治35年(1902)に完成した。落成式には、新谷村民一家残らず酒肴を配られ、門前に櫓を建て、十余俵のもちまきが行われ、祝賀の大宴会は1週間も続いたという。

また、郷里のために、新谷銀行の創設に尽力し、小学校に多額の寄付を行う一方、多くの地元出身者を引き立てたりした。

しかし、貫兵衛は、地元に長く住むことはなかった。屋敷が出来て5年後の明治40年8月に、神戸市の宇治山別宅で死去した。66歳だった。まさに巨星落つ。新谷で盛大な本葬が行われた。墓は神戸市の春日野墓地にある。台とともに高さ約4メートルの花崗岩製の堂々たるもの。さらにそのかたわらに、「池田翁の碑」(高さ2・5メートル、幅1・3メートル)があり、彼の業績、人柄などが紹介されている。

これに対し、郷里には、何があるだろうか。戦後、屋敷の敷地の3分の1が市の所有になったが、公民館別館として使われた建物や茶室は取り壊され、跡地は荒れるにまかしているよう。このままでは、池田貫兵衛という人物について、知る人も少なくなる一方だろう。貫兵衛は深い愛着を持って郷里に対応したのに、その郷里は時とともに冷たい仕打ちしか、しないのだろうか。

屋敷所在地:大洲市新谷290
参考文献:大洲市誌、愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、池田貫兵衛と池貫工場(森岡正雄)、愛媛県の近代和風建築(県教委)、明治期における役員会の規模と役員(和田一夫)
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明治の石造アーチ橋、神明橋(今治市)
愛媛に唯一残る明治期の石造アーチ橋が、今治市波止浜の龍神社にある、神明橋(しんめいはし)だ。
もともとは、波止浜塩田の用水路に架かっていたが、道路拡張によって、ここに移築した。
不思議なのは、橋の完成時期。
親柱には「明治42年(1909)5月」架設とあるが、保存時の碑文には「明治33年」完成となっている。
一般には、明治42年説が使われているが、いったい、どちらが正しいのか?。

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花崗岩製で、アーチの径間3メートル、環厚33センチ、かなめ石は45センチ。橋の長さは4・5メートル、幅は元々1・5メートル(現在は1メートル)。小ぶりな橋である。石工・藤原清八郎の作と橋の製作者名までわかっている。
石造アーチ橋は、九州に圧倒的に多いことから、この藤原氏も九州で修業した人物だろうか。

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親柱もそっくり保存されている。

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「神明橋の碑文」には、全町民の愛着によって、昭和56年(1981)復元保存したことが記されている。

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龍神社の境内を探し回っていたら、この橋は神社の裏側にあった。

参考までに、愛媛の石造アーチ橋で現存するのは3か所しかない。古い順にならべると、龍泰寺の太鼓橋(松山市)=元禄11年(1698)の築造と伝えられている。詳しくは昨年7月の当ブログ「松山市の太鼓橋エレジー」参照=、次いで、この神明橋。もうひとつは大正10年(1921)の八重栗橋(大洲市肱川町)だ。

所在地:今治市波止浜2丁目
参考文献:愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)

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唐子浜の赤灯台とレンガの館
今治市の唐子浜といえば、白砂青松の美しい海岸と唐子浜パークを思い出す。
その唐子浜パークは十数年前に営業を全面ストップし、今は跡地の一部にパチンコ店やコンビニが出来ていた。
年間30万人が訪れた往時と比べ、何ともさびしい限りになっている。
それに対し、白砂青松の自然は今も変わっていない。
加えて沖合にある赤灯台も変わらぬ姿を見せ、さらに岸辺には煉瓦の館が無言で存在感をアピールする。
この2つの近代化遺産は、唐子浜の自然の中にアクセントを付けている。

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沖合230メートルに立つ赤灯台。これは、今から112年前の明治35年(1902)4月、来島海峡のコノ瀬で初点灯された「コノ瀬灯標」を移築したもの。わが国で5番目の洋式灯台だった。
同海峡の小島の東方に、コノ瀬暗礁があり、そこに立っていたわけだが、大型船通行時代になると、この暗礁が邪魔になり、暗礁もろとも爆破される予定だった。だが、そこで、住民の保存運動がおこり、現在地への移築が実現し、今に残っている。昭和53年(1978)3月に廃止、同年10月に保存移築が終わった。海にあったものを再び別の海に移築するのは、世界的にもまれなケースという。

高さが14メートル、2トンの御影石274個を円形に積み上げて築いている。
今は点灯していない。海図には灯標と間違わないよう、「灯台状構造物」と記載されている。

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海岸沿いに建っているレンガ造りの建物は、赤灯台と同じ明治35年4月に完成した大浜灯台吏員退息所を移築したもの。「りいんたいそくしょ」とは、聞きなれないが、職員官舎をいうようだ。大浜灯台は昭和38年に解体撤去され、退息所も今治市湊町から、この唐子浜へ昭和56年7月移築された。今は今治地方観光協会が「唐子浜海の子の家」として、管理している。

参考文献:愛媛県の近代化遺産(県教委)
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ギリシャ建築美とアーチの融合、大宮橋(西条市)
西条市の石鎚山登山ロープウエー口からさらに少し山奥へ進むと、大宮橋という古い橋に出会う。
昭和2年(1927)完成で、長さは43・5メートル、コンクリート製の開腹式アーチ橋としては、愛媛で最も長い。
長いだけでなくそのデザインの美しさで、県下1,2といわれる。
今ではほとんど人の通らないところに、なんでこんな格調高い橋のデザインを採用したのだろうか。
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伊予の青石がごろごろしている加茂川の上流にひっそり、アーチを架けている。
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橋上からはなかなか分かりにくいが、横や橋の下で見ると、なんとそこにギリシャ建築のような支柱が林立している。
支柱と支柱の間にも、アーチが連なる。

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よくもまあこんなに面倒なデザインを。工法的にも曲面を型枠で造るのは大変手間な作業という。費用もかかる。
それに誰もが眺める建築物と違って、これは土木建造物。桁の裏側をわざわざ見る人なんていない。
それでも、ギリシャ建築美を取り入れ、アーチの曲線美をプラスするというデザインへのこだわり方は並大抵のものではない。

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親柱にはっきり刻まれた大宮橋の文字。今もどこか誇らし気。
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昔は、橋の近くに小学校もあったが、今は通る人も少ない。過疎、閑静、静寂がぴったりくる。
なぜこんなところに、格調の高い立派なデザインの橋を造ったか、今現地に行ってその答え探しをしようとしたら、逆にわかりにくくなる。
実は、この道の位置づけが昔と今では大きく違うのだ。昔はここが高知への幹線道になる計画だった。それだけに、愛媛の職人の意地とプライドが、こんな美しい橋を造り上げたと思われる。

残念ながら、この幹線道ルート計画は現在の国道194号(西条市ー高知市、寒風山経由)に決まり、大宮橋は見捨てられたようになってしまった。逆を言うと、幹線道にならなかったために、大宮橋は今に残って、美しい芸術的な姿を人々に見せてくれている。もし幹線道になっていれば、幅員4メートルのこの橋は、車の通行量確保が優先されて、早い段階で付け替えが行われ、既に解体されていただろう。ひとつの橋にも禍福、両面の物語がある。

大宮橋は、デザイン性に優れていることから、平成17年(2005)に土木学会の選奨土木遺産になっている。
所在地:西条市西之川135-1

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明治の洋風警察署がすごい。
もし、こんな洋風建物が隣にできたら、今でもびっくりすることだろう。
ましてや、130年前の明治時代ならなおさらのことだ。
これが旧宇和島警察署の建物。
スカイツリーとまではいかないが、完成時には警察署が観光地となり、弁当持参の見学者が殺到したという。
登録文化財制度ができた時、愛媛県下でまっさきに登録された。
  DSCF0180-001.jpg
         (建築時は県下はもとより、四国内でも超先進的な建物と言われた)

 明治17年(1884)9月、宇和島市広小路に建設された。設計者の名前は残っていない。当時の大工棟梁が、西洋建築を見よう見まねで造った。こんな洋風の建物を建築学の分類では、“擬洋風建築”と分類している。萬翠荘や県庁の設計で知られる木子七郎のように西洋建築を学んだ設計家が造れば、洋風建築で、在野の人が一生懸命考えて造ったら擬洋風となってしまう。

 少々、見下されているようだが、文明開化の風を受けて懸命にこんな建物を造った人物に、ぜひとも功労賞を差し上げたい。ちなみに、擬洋風を含めて洋風建築として、愛媛に残っているもので、最も古いのは明治15年(1882)の開明学校(西予市宇和町)。次いで、その2年後にできたのが、この旧宇和島警察署だ。そのほかでは、明治末から大正初期の建築といわれる白石和太郎洋館(八幡浜市保内)が古い。誰もが知っている萬翠荘や愛媛大学付属中学講堂(松山市)は大正11年の作品だから、宇和島の地に建つこの洋風の建物の歴史的価値がわかっていただけると思う。
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                (どうです、堂々たる威容を誇る正面玄関) 
 正面玄関は、警察としての威厳をもたせている。8角形の柱でアーチ付きのポーチを構成し、2階はバルコニーでその上部は洋風を強調するぺディメント(三角形の切妻屋根形式)を置く。軒周りには蛇腹細工の装飾が続き、窓は上げ下げ式。いたるところに洋風のムードがいっぱい。
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    (2階の天井の一部は、トラス構造や蕪束が見れるよう開放されている) 
                
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              (上げ下げ式の窓が広く取られている)
 格調高い外観が見事なだけでなく、実は建築技法でもすごい技術が使われている。
 軒から上の屋根部分の構造部(小屋組=こやぐみ)は、当時の擬洋風建築では、日本古来の丸太の原木を使い、外観のみ洋風にしているのが多いのだが、この建物は角材でトラス(合掌)を組んで強度をもたせ、寄せ棟の平合掌、隅合掌、妻合掌の取り合いも蕪束(かぶらつか)で納めている。当時としては画期的な技法で、この時期にどうして宇和島で採用されたのか、謎が残る。現存する擬洋風建築で蕪束を採用しているのは、札幌の時計台(明治11年、国の重要文化財)など全国に約30しかないと言われる。

 宇和島は戦災で市内の70%が被災したと言われ、この建物にも焼夷弾が落ちたというが、それが不発で難を免れたという。昭和27年(1952)に警察署建て替えが決まったとき、当時の西海町(現・愛南町)が町制発足の記念事業としてこの建物を買い取り、西海町に移築して役場として使うことになった。翌年2月に移築が完了、それから平成2年(1990)1月まで、37年間にわたって役場として務めた。さらに、この建物は、保存運動の声に押される形で、また宇和島に里帰り。平成4年(1992)3月、今度は宇和島港に近い同市住吉町に移築復元された。「宇和島市立歴史資料館」として3度目の務めを果たすことになり、今日を迎えている。

 個人的には、西海町役場時代のこの建物に幾度か足を運んだ思い出がある。当時は、古い建物をよくも使っているなと、思いながらギシギシいう階段を行き来したものだ。あのころ会った岡田町長や池田観光課長(のち町長)の顔が浮かぶ。今もお元気だろうか。観光で町の振興を図っていた西海町。もし、この建物を西海に移築して残しておけば、ひとつの観光資源になっていただろうに、残念な気がする。

 今の資料館は、入館料無料。第一展示室は「華宵の部屋」と題して、宇和島出身で大正から昭和にかけて一世を風靡した挿絵画家・高畠華宵(1888-1966)の作品を展示している。年4回展示替えしている。まとまった華宵の作品を無料で鑑賞できる。お得!。ほかに、消防関係の展示や貝の標本展示などもある。展示を見るのもいいけど、2階バルコニーから、眼下に見える樺崎砲台跡(宇和島市指定史跡)を見るのもロマンを掻き立てられる。

 【開館時間】午前9時から午後5時。【休館日】月曜日(祝日、振替休日の場合はその翌日)【駐車場】あり無料
【問い合わせ】宇和島市住吉町2丁目4-36、歴史資料館。電話0895-23-2400
(ナビがないと、迷うような道。大ざっぱにいえば、宇和島徳州会病院を目指し、そこらで聞くのが分かりやすいかも)
参考文献:「新宇和島の自然と文化(1)」(宇和島市教委)、「愛媛温故紀行」(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、
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