レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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浄福寺のしだれ桜が見ごろ
松山市堀江町の漁港の近くにある浄福寺のしだれ桜が、見ごろを迎えている。
決して大木ではないが、形のいい姿で親しまれている。
一気に開花した感じで、4月には散り始めになりそう。
  DSCF2295.jpg
この浄福寺には、子規の句碑もある。「もののふの河豚(ふぐ)にくはるる悲しさよ」。これは、明治25年(1892)11月30日に松山市の釣島水道で、日本海軍の水雷砲艦「千島」とイギリスの商船「ラベンナ」号が衝突し、千島は沈没、乗組員90人のうち74人が犠牲になった千島艦事件を詠んだものだ。数多い子規の句碑のなかでも、時事問題を詠んだ句碑は全国で唯一のモノ。句碑の横に「千島艦遭難碑」も建てられている。
(この千島艦事件については、本ブログの昨年2月の「千島艦事件の光と陰Ⅰ~Ⅲ」を参照してください)

     DSCF2300.jpg
(右が子規の句碑。日本新聞社に入社した日に飛び込んできたのが、千島艦遭難事故。子規の記者としての初仕事がこの惨事を俳句時事評という形で書くことだった。海の藻屑と題して書かれた原稿の文末にこの句が記された)

もうひとつ、浄福寺に珍しい光景があった。大きな松の木にカラスの巣があるのだ。どこにあるか探してみてください。
     DSCF2307.jpg

浄福寺から歩いて1分もしないところに、郷谷川の河口がある。ここに今、カモが飛来している。多いときは30羽近くが群れて、思い思いに餌を探して泳いでいる。仲のいい夫婦の姿があちこちで見える。
また、東の方へ向かえば、堀江港だ。ここはファミリー中心に釣り人の姿も多いのだが、今は寒さもあって、釣り人も釣果もさっぱり。暖かくなると、釣れるようになるだろうか。
     DSCF2289.jpg
(今の堀江港。呉-松山のフェリー航路は消え、手前に見えるのが発着場の跡。海の駅「うみてらす」というトイレつきの休憩施設が完成され、また年度内完成を目指して広場の無料駐車場が整備されているところだ。)

交通ガイド:4月には堀江港整備で広い無料駐車場が出来る予定だから、ここに駐車して散策するのが便利。また、堀江漁港に無料駐車場がある(県庁方面からなら旧国道の県道347号の堀江交差点からさらに200メートル行き、モービル石油前の駐車場とフェンスで囲った空き地の間の道へ左折して、そのまま直進すれば、漁港に出る。その海沿いが駐車場。この途中に浄福寺がある。)
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漱石のいた松山「今・昔」/2、愛松亭跡
②愛松亭跡(漱石が最初に住んだ下宿)

校長を上回る高給取りの漱石とはいっても、いつまでも旅館にばかり泊ってもいられない。
坊っちゃんでは、数学主任の山嵐が下宿先を紹介してくれる。
漱石が、最初の下宿に選んだのが今の松山地方裁判所裏にあった「愛松亭」(あいしょうてい)というところだった。
今は、記念碑以外に建物は何も残っていない。
萬翠荘に向かうすぐ手前の道沿いに、「愛松亭跡」の石碑と漱石の出した手紙の刻まれた副碑がたっている。
  DSCF2242.jpg
 (ここが、愛松亭のあったところ。縦型の石に“愛松亭跡”と。横長い石碑が、漱石が恩師に宛てて出した書簡の副碑。バックに見えている建物は、軽食喫茶の「茶房あい」。)
        DSCF2240-001.jpg
  (書簡の内容が紹介されている。漱石が帝国大学でラテン語を教わった神田乃武=かんだないぶ=に宛てて松山着任を報告している。明治28年4月16日付。松山に来たのが4月9日だから7日後に出している。なお神田は東京外国語学校初代校長となり、コンサイス英和辞典の編纂者としても知られる人物)

愛松亭のあった場所の一帯は、藩政時代には家老屋敷があった。明治期に屋敷の母屋は撤去されて、裁判所になったが、中腹に平屋建ての母屋と2階建ての離れが残された。
この所有者が、骨董品の商いと小料理屋「愛松亭」を営んでいた通称「津田安」、津田安五郎という人物。「坊っちゃん」の中では、「主人は骨董を売買する『いか銀』という男」として登場する。

漱石は、前任の外国人教師が住んでいたこの離れの2階に住み、ここがとても気に入っていたようだ。子規宛ての書簡には「宿所は裁判所の裏の山の中腹にて、眺望絶佳の別天地」と絶賛している。ただ、このあとに、「うらむらくはなお俗物の厄介を受け居る事を」と、主人の態度に不満を漏らしている。どういうことかというと、坊っちゃんの中では、毎日のように“いか銀”から骨董責めにあい、「この男は馬鹿に相違ない」「学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責めに逢ってはとても長く続きそうにない」と、主人には閉口している様子が描かれている。

明治28年(1895)4月から6月下旬まで、2か月余をここで過ごした後、2番町の上野義方宅の離れに引っ越す。これが松山での最後の引っ越し。後に愚陀仏庵といわれるところに引っ越しをする。引っ越し理由は“家賃が高い”からといわれるが、愛松亭の主人の態度にも一因があるようにも思われる。愚陀仏庵については、次回に記載する。
   DSCF2253.jpg
     (萬翠荘の正門前にある藩政時代の井戸。漱石はこの井戸から水を汲んで、お茶を飲んでいたという)

愛松亭は、大正11年(1922)に、旧松山藩主・久松定謨(さだこと)伯爵の別邸、萬翠荘(フランス風の洋館)の建築の際に取り壊され、往時の建物の姿は見当たらないが、漱石のいた時代で今に残るものが、萬翠荘の正面前の庭に残っていた。藩政時代の井戸。お茶好きの漱石は愛松亭に住んでいた時は、毎日、この井戸の水でお茶を飲んでいた。坊っちゃんの中でも下宿の主人とお茶について次のようなやりとりがある。「亭主がお茶を入れましょうと言ってやって来る。お茶を入れると言うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょうを一人で履行しているかもしれない。」---。

参考文献:愛媛新聞「漱石の風景」平成7年6月9日、「坊っちゃん」夏目漱石(集英社文庫)、「漱石と松山」中村英利子編著(アトラス出版)
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漱石のいた松山「今・昔」/1、きどや旅館跡
夏目漱石が松山に赴任してきたのは、今から119年前の明治28年(1895)4月のことだ。
松山尋常中学(のちの松山中学、現松山東高)の英語教師として、東京からやってきた。
この“不浄の地”(「坊っちゃん」)での1年間の体験をもとに永遠のベストセラー「坊っちゃん」が生まれた。
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(「吾輩は猫である」とともに漱石の代表作「坊っちゃん」。江戸っ子の無鉄砲な新任教師が松山を舞台に大暴れする)

松山の悪口にあふれている小説なのに、なぜか松山市民は「坊っちゃん」が大好き。団子をはじめ球場や文学賞などなど、さまざまなものの名前に坊っちゃんが乱用されている。
たった1年いただけの漱石だが、「坊っちゃん」が今の松山に落としている経済効果は、計り知れないものがある。
松山を嫌っていた漱石は、この状態を見て果たしてどう思うのか、ひょっとしたら「田舎者め」と、また悪態をついているのではないか。ちょっと、聞いてみたい気がする。
<漱石がいた松山の地をたどりながら、「今・昔」の姿を追ってみた。>

①きどや旅館跡

漱石が松山に来て、最初に泊ったのが城戸屋(きどや)旅館。「坊っちゃん」のなかでは、山城屋として登場する。
部屋数20を誇る松山でも有数の旅館で、敷地は750坪(2,500平方メートル)もあり、正面玄関は三番町通りに面していた。
残念ながら昭和20年の松山空襲で全焼した。その後、昭和28年に戦前の3分の1程度で再建され、昭和53年に廃業するまで旅館として営業されていた。
数年前まで、旅館の趣を残す建物が残っていた。漱石時代のものとは違うのだが、町並みの中でここの一角だけはどこか明治の香りが漂っていた。それを覚えている人は今でも多いのではないだろうか。
ところが、数年前にとうとう解体されて今はマンションに変わっていた。どこにも明治を感じさせるものはなくなった。
100年余の歳月の流れは、いかんともしがたい。
   DSCF2189.jpg
   (中央の真新しいマンションが、きどや旅館の跡。どこにも明治の面影はうかがえなくなった)

「坊っちゃん」のなかにこの山城屋で、茶代を5円も奮発するシーンがある。
今でいえばざっと数万円のチップである。
初日は階段下の、狭くて、暗くて、あつい部屋に案内された。茶代をやらないと粗末に取り扱われる。「田舎者のくせに人を見くびったな。一番茶代をやって驚かしてやろう」と、いうことで坊っちゃんが大盤振る舞いする。効果てきめん、翌日には15畳の立派な座敷に案内される。坊っちゃんは「おれは生まれてからまだこんな立派な座敷へはいった事はない。この後いつはいれるか分からないから、洋服を脱いで浴衣一枚になって座敷の真中へ大の字に寝てみた。いい心持ちである」と、大満足する。

当時の城戸屋旅館を経営していた城戸さんの子孫は、「この話は、事実と違う」と伝えられている。5円の茶代で大きな部屋に移したのではないというのだ。
この真相は、5円の茶代で移動したのではなく、漱石が校長をも上回る月給80円という破格の高給取りの先生とわかったから-ということらしい。なぜ、こんな高給だったかというと、漱石が帝大卒の学士だから。ちなみに、校長は高等師範卒で60円。給与は出身の学歴によって決まっていたのだ。

15畳の座敷は「坊っちゃんの間」として戦後の再建された建物でも2階に復元されていたが、今はあとかたもない。

◆きどや旅館跡
戦後に再建されたきどや旅館は松山市2番町4丁目1-9付近。漱石の泊った城戸屋旅館は3番町4丁目12-7の三井住友海上松山ビル付近に正面玄関があった。

参考文献:愛媛新聞「漱石の風景」平成7年6月1日、「坊っちゃん」夏目漱石(集英社文庫)、「漱石と松山」中村英利子編著(アトラス出版)
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坊っちゃん列車の転回ショー
松山では今も、坊っちゃん列車が走っている。
漱石が「坊っちゃん」の中で、“マッチ箱のような汽車”と表現した明治の陸蒸気のことだ。
ただし、機関車はレプリカ、動力もディーゼルエンジンに変わっているが、レトロ感にあふれ、観光客にも好評だ。
また、転回スペースのない松山市駅の乗り場では、毎日、人力による“転回ショー”が繰り広げられ、珍しい光景にカメラを向ける人も多い。ちょっと、カメラでスケッチしてみた。

↓①坊っちゃん列車は、市駅前の乗り場に帰ってから、転回作業を開始。機関車と客車の連結をはずす作業からスタートする。
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↓②まず機関車を人力で線路がクロスしている地点まで移動させ、車体下から転車台を出す。これがすごい効果を発揮、2トンもの車体が人の力で軽く動き、180度回すことができる。
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↓③車体下から、転車台が出ていて、車輪が浮いているがわかるだろうか。
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↓④機関車の転回に成功、前進させてひとまず客車が来るのを待つ。
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↓⑤客車の移動もすべて人力だ。2両編成は結構重い。乗員総出で押していく。
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↓⑥切り替え線を越えて、機関車へドッキングさせる。
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↓⑦連結が完了したら、バックして乗り場へ行く。乗客は、観光客や親子連れらが多い。ちなみに、運賃は市内電車の倍、片道300円。
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↓⑧機関車は同じように見えるが、実は2両ある。正面や側面に数字が打ってあるので、これでまず違いが分かる。前方正面に「1」とあるのが、明治21年製の1号機関車がモデル。「14」となっているのは、明治41年製の14号機関車を復元したもの(上写真が1号車、下は14号車)。煙突を見れば、円筒形が1号で、じょうご形が14号、さらに運転席の正面窓の形など違いが色々ある。間違い探しのように違いを見つけるのも面白いだろう。
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坊っちゃん列車は、道後温泉-松山市駅間10便(土日祝日は12便)、道後温泉-JR松山駅・古町間に3~4便運行されている。市駅前には平均40分に1度は帰ってくるので、その都度、ショーを見ることができる。

◆明治21年(1888)10月に日本で初めての軽便鉄道として、道後平野を走り始めたのが坊っちゃん列車(ドイツ・クラウス社製)。昭和29年まで、67年間も走り続け、松山市民に親しまれた。平成13年にそれを復元し、ディーゼルエンジン付きで松山市内に蘇った(新潟鐵工所=現・新潟トランシス=製)。汽笛や煙も再現し、運転手や車掌の制服も当時のデザインを再現している。

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文化都市が泣く!景観無視の松山市役所
松山市は、「国際観光温泉文化都市」で、「いで湯と城と文学のまち」をアピールしている。
その拠点の市役所の建物をご覧ください。
垂れ幕のオンパレード。以前は1-3枚ぐらいだったが、きょう歩いてみたら7枚も垂れ下がっている。
これでは、まるで安っぽい、バーゲンショップではないだろうか。景観を台無しにしているのが、市自身とは!?。

   DSCF2171.jpg
    (松山市役所本庁の正面に垂れ幕がずらりと垂れ下がる。これって、見苦しい屋外広告物じゃないの??)

松山市役所は、JR松山駅方面から道後に向けてのメーンルートの真っ正面にあり、いやでも見える場所にある。
さらに、松山城を望む格好の撮影ポイントで、坊っちゃん列車やお堀の光景を入れて写す人も多い。
近くには県庁や伊予銀行本店、日本銀行支店などがあり、落ち着いた雰囲気を醸し出している官庁街でもある。
そこに、このようなカラフルな“屋外広告物”が、建物にズラリぶら下がる光景はいかがなものだろうか。

    DSCF1950.jpg
     (松山市役所前では、松山城や路面電車を入れて写真を撮る人が多い)

“城山の見えるまち”の雰囲気を壊していると、思うのは自分だけなのだろうか。
景観を妨げる屋外広告物や電柱をも排除して、まち全体の景観を美しくしようと働きかけているのは、松山市である。
その市が自ら、景観を破壊していることに気づいていない。

第一、垂れ幕とは、パッと見て判読するもの。
こんなに垂れ下げて、車で走行中に読み取れた人がどれだけいるだろう。
読んでいたら、交通事故を起こしてしまう。
立ち止まってゆっくりお読みくださいと、いうのだろうか。

どれも市としては、アピールしたいこととは思う。それが、わからないわけではない。
しかし、こんなに数多く掲げると、見苦しいし、読み切れず、結局どれも記憶に残らない。
税金も無駄になる。私は、今の7つの垂れ幕のうち残すのは「椿サミット」だけでいいと思う。あとは撤去。
これから春の観光シーズンがやってくる。
観光文化都市、文学のまちにふさわしいよう、即刻、廃止ないし厳選、大幅削減を検討してほしい。
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ターナー島の今
松山市の高浜沖に盆栽のような風情を醸す小さな島がある。
正式には四十島(しじゅうしま)というが、それよりも“ターナー島”という別名の方で有名になっている。
漱石が「坊っちゃん」のなかで命名したのが、すっかり広まって定着した。
小説の一節にあるだけで、島の名前にまで影響を及ぼすのは、さすが漱石パワー、いや坊っちゃんパワーか。
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大小3つの岩礁から成る、高いところでは18メートル。花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)で出来ているが、風化が進んでいるのがみてとれる。

「坊っちゃん」の中では、この島が青嶋として登場する。坊っちゃんと教頭の赤シャツ、美術の野だいこの3人がここへ釣に行く。そこで、赤シャツが野だいこに言う。「あの松を見たまえ、幹が真直ぐで、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」。これを受けて、野だいこが「まったくターナーですね。どうもあの曲がり具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と追随して、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんか。赤シャツも賛同して、そいつは面白い、吾々はこれからそう言おう--。

これがきっかけで、イギリスの画家ターナーが瀬戸内の島の名前となって登場することになったわけだ。

   DSCF1198.jpg
漱石が松山中学に赴任したのが明治28年(1895)。当時は松が青々と茂り、樹齢150年を超すものもあり、枝が垂れ下がって実に見事な景観だったという。

ところが、昭和50年代になって、マツクイムシによって、次々と松が枯れ、37年前の昭和52年(1977)に全ての松が姿を消し、ターナー島はただの岩礁になってしまった。
行政も松の植樹に努めたが、土らしい土はなく切り立った岩山だから水持ちが悪く、植樹にことごとく失敗。ここで愛媛大学の農学博士からは「元の姿に戻すのは絶望的」との見解が発表され、ターナー島の昔の姿は消え去ろうとしていた。

この時、“工夫次第では育つかもしれない”と考えた人がいた。高浜小学校の教諭だった北岡杉雄さんだ。

昭和53年から、孤立無援の中で自ら漁船をチャーターし、独力で松の植樹に取り組み始めた。最初植樹した20本のうち、3本だけ鹿沼土を使ったところ、この3本だけが日照りにも耐えて翌年まで生きていた。このような技術的な試行錯誤や夏場の水やり作業を続ける一方、台風の大波が島を襲う、日照りなど、幾多の困難を乗り越えて今の姿に蘇らせることに成功したのである。

残念なことに、専門家からは、励まされるのではなく素人だといって激しく罵倒されることもあった。費用も時間もこの事業に注ぎ込んだ北岡さんの一途な情熱によって、今のターナー島の姿があることをはっきり刻みこんでおく必要があると思う。ターナー島紹介の記述の多くに、“篤志家”が植樹に取り組んだとある。篤志家という表現でなく、なぜ北岡さんのことを明記しないのか。もっと、北岡さんを顕彰する必要があるのではないだろうか。もし、北岡さんがいなければ、ターナー島が平成19年、国の登録文化財(名勝)になることはなかっただろう。松があってこそのターナー島だ。

ようやく松は根付いたようだが、油断は大敵。島の風化、浸食はどんどん進んでいる。今後、コンクリートによって島を守る対策が必要になって来るかもしれない。
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高浜1丁目の富士電線株式会社の南西側に展望ポイントがある。ここには、子規の「初汐や松に浪こす四十島」の句碑もある。遊歩道も“守る会”の手で整備され、1年前までは小高い丘の上まで登れたのだが、今、この丘の上にソーラー発電パネルが設置され、丘上は立ち入り禁止状態になっている。

参考文献:「ターナーの松 再生」(盛重ふみこ、日興書籍)
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