レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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河辺川で、“飛び石橋”見つけた。
大洲市の河辺川沿いを走っていたら、“飛び石橋”が目に飛び込んできた。

飛び石橋とは、文字通り川に飛び石を並べて橋のようにしているもの。
人はその石を伝って渡っていく。
対岸に渡るのが橋の本来の役割とすれば、飛び石橋は橋の原型で、最も原始的な橋とも言えよう。
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このあたりの河辺川は川幅31メートルほどあるが、地区の人々は昔から、生活の知恵として、約27個の石を渡して、対岸の農地へ行く道にしていた。
今ある飛び石橋は、実に整然と整備されているなと思ったら、なんとこれ、愛媛県が平成9年(1997)に「ふるさと水と土保全モデル事業」として、35.5メートルを復元したもの。案内板まで建っていた。

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河辺川沿いの人々は、川に親しみ深い関係を持ちながら生活を続けてきた。対岸が神社に通じる道には、神を敬って屋根を付けた橋を架け、同時にそこをコミュニティーの場にもしてきた。
この飛び石も大水のたびに、壊されたが、地区民総出で修理して橋を維持してきた歴史がある。
飛び石橋は、京都の加茂川のものがよく知られるが、当然ながら各地にある。
最近は公園化された河川などにもよく採用されるが、今でも小規模な河川で橋を架けるほどでもない場所に飛び石を置いている昔ながらの“飛び石橋”が散見される。

<所在地>県道55号を走り、大洲市河辺町植松の河辺郵便局から約1キロ上流に進んだところ(河辺ふるさとの宿の手前、約1キロ付近)。
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丸山公園はシャクナゲ、山吹、つつじの競演(肱川町)
シャクナゲ谷で知られる丸山公園(大洲市肱川町上鹿野川)へ行ってみた。
名物のシャクナゲは、半分ぐらいは散っていて少し残念な状態だったが、それを補うように山吹やツツジがきれい。
特にこれからはツツジが見ごろを迎え、まだまだ花が楽しめる。
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谷に沿うように遊歩道が設けられていて、歩きながらシャクナゲや山吹などを鑑賞する。
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シャクナゲは、半分以上が散っているようだ。
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パーと、明るくしてくれるのが、山吹の花。オレンジと黄色の中間色のことを山吹色といい、小判を山吹というのはここからきているとか。道理で見ていると、豊かな気分になる?。

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これからは、ツツジが見ごろになる。ヤマツツジやキリシマツツジはまだつぼみのモノが多かった。

<交通ガイド>旧の五十崎町から肱川沿いに走り、道案内の標識に従って、シャクナゲ谷へ向かう。
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公園口に無料の駐車場(約30台)、トイレもある。

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大正期から地区のシンボル「港橋」(西条)
西条市朔日市新堀に、おしゃれなコンクリート製の桁橋が架かっている。港橋という。
大正10年(1921)の架設。県下で大正期の橋は、現在10数か所しか残っていない。それだけに貴重な存在だ。
ここは土木学会の「日本の近代土木遺産」のひとつにも選ばれている。
クラレ西条事業所に向かうすぐそばにあり、クラレとともに高度経済成長をも見続けてきた橋でもある。
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長さ20.6メートル、幅員9.2メートル。大正期にもかかわらず、幅員を大きく取っているのは、その後の経済の成長を見越してのことか。先見性のある設計者、施工者が造ったものであろう。
親柱の上に円柱形のポールを立て、さらにその上に明かりを付けた、モダンなデザイン。この橋を地域のシンボル、モニュメントに、との誇りに満ちている気がする。また、4本の親柱の周辺それぞれに余裕をもったスペースを配置している。これもユニークな設計だ。ひょっとしたら、将来の拡幅にまで配慮があったのだろうか。
   DSCF2370.jpg
親柱周辺が広くとられていて、その装飾性は珍しい。

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橋から見える光景は、とてもノスタルジック。
失礼かもしれないが、はるか昔、子供のころにどこかで見た川沿いの風景のようで、なんとなく懐かしさでいっぱいになった。増水時には、浸水しそうな屋並みが続き、橋の下には6,70センチのマゴイがのんびりと泳いでいた。まるでタイムスリップしたような風景に思えた。

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西条駅に残る近代化遺産
JR伊予西条駅に、開業の大正10年(1921)6月当時のレンガの建造物が2棟も残っている。
国鉄時代の今から90年以上前の施設がそっくり残っているのは県下でここだけ、愛媛の貴重な近代化遺産だ。
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歴史の重みを感じさせる給水塔。西条の打ち抜き水を使っている。サビが嫌でも目立つが、堂々たる姿で構内に立つ。伊予西条駅の開業当時の写真にも、この施設が写っている。

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この建物は、カーバイト倉庫。「注水厳禁」の表示が、いかにもカーバイト保管所らしいところ。カーバイトとは、炭化カルシウムの塊で、水を加えるとアセチレンガスが出る。火を付けると、燃える性質を利用して、昔、屋台の照明によく使われていたのだが、最近はほとんど見なくなった。駅では夜間整備の作業照明に使われていた。(この施設は開業から、やや遅れて建設されたとの説もある)。

西条駅の東隣には、「鉄道歴史パークinSAIJO」があり、四国鉄道文化館や十河信二記念館などがある。また、現在カーバイト庫のある南側一帯が南広場として整備されている。それだけにこのレンガ造の2施設はぜひとも保存しておいてほしい施設だ。

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大原孫三郎の“遺産”/クラレ西条の食堂、講堂、そして桜
クラレ西条事業所で、敷地内の桜を人々に見てもらうイベント、
「観桜会」がこのほど開かれ、2日間だけ事業所内の一部が一般に開放された。
満開の桜も見事だが、昭和11年(1936)7月の完成時からある食堂や講堂をじっくり見ることが出来た。
クラボウやクラレの基礎を築き、また大原美術館を造った事でも知られる大原孫三郎の“遺産”とも言える施設である。
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これが、食堂。78年も前のモノとは思えないほど、明るくてモダン。中央部を一段高くした白色の天井に茶色のラインが走る。換気口のところが洋風のデザインでアクセントになっている。
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内部はとても利用しやすく快適なのに、外観は実に平凡。切妻の木造平屋建て、見てくれよりも実質を重視した当時の考え方を見ることができる。

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ここはバザーが開催中だった講堂の内部。中央に掲げられている扁額は大原孫三郎の揮毫。
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2階部分が特徴的。ツートンカラーで支柱を丁寧に仕上げている。
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講堂の左右には、避難用のコンクリート製のスロープが設置されている。この時代から、火災などの緊急時に備えてこのような設備を造ったことに驚かされる。

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桜花が爛漫だった。
「観桜会」が開かれるようになったのは、平成4年(1992)から。今年は第23回。例年2日間で1万人が訪れる。
桜は敷地内に約100本、構内の渡り廊下沿いに約20本の桜並木ができている。
樹齢70年を超す古木も残って、見事な花の競演、それにバザーや物販、展示会もあり、家族で楽しめる。
この桜も大原孫三郎の“遺産”。工場視察に来た孫三郎が、従業員の寄宿舎生活に潤いを、と桜の植樹を指示したのが桜並木が出来たきっかけと言われる。
(今年の観桜会は4月7,8日だった。例年、満開期の2日間、4月上旬の平日に開かれる。来年の開催日は、開花期に同事業所にお問い合わせください)

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漱石のいた松山「今・昔」/4、松山中学跡
④漱石の勤務した中学校跡

漱石は明治28年(1895)4月、愛媛県尋常中学(のちの松山中学、現・松山東高)に英語の教師として赴任してきた。
119年前のことだ。
「坊っちゃん」では、新任の数学教師となっているが、実際の漱石は英語教師。それに漱石は、東京高等師範での講師経験があり、教壇に立つのは松山が初めてではなかった。赴任地にしても、「四国辺のある中学校」で、松山とはどこにも書いていない。小説に書く場合は、色々な思惑があってところどころで脚色をしているが、漱石の足跡をたどると、簡単にバレてしまう。

勤務先の中学校は、今の県庁前のNTTあたりにあり、西側角地に「漱石ゆかりの松山中学校跡」の石碑が設置されている。すぐそばには松山市役所があり、今はすっかり官庁街になっている。教育の街の雰囲気はなく、あの漱石が毎日、この地に通勤していたとは、信じられない気がする。
碑のそばに1本の大きなユーカリの木がある。これは同校北側に植わっていたもので、中学校の歴史を見続けてきた木である。
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 (漱石ゆかりの松山中学校跡の石碑。向こうに見えるのが愛媛県庁の建物。碑のそばにあるユーカリの木は同校の名残の大木である)

この学校は、松山藩の藩校・明教館を源流にして、次々と校名を変えていきながら人材を輩出していく。
明治5年に松山県学校となり、そのあと英学舎ー英学所ー県変則中学校ー愛媛県松山中学ー伊予尋常中学ー(明治25年)愛媛県尋常中学ー(明治32年)愛媛県立松山中学ー(昭和23年)県立松山第一高等学校ー(昭和24年)県立松山東高校へ。

歴史あるこの中学校は、大正5年に現在の松山東高の場所に移転した。その跡地は今のNTTが戦後に進出するまでは長い間、赤十字病院になっていたのだが、ここに赤十字病院があったことを知る人も少なくなっている。
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「漱石ゆかりの松山中学校跡」の碑には、この地で漱石が英語を教えたこと、そして松山を去る時に詠んだ漱石の句、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」が記されている。

漱石が松山にいたのは、わずか1年。帝大卒の学士が当時人口3万の松山へ、なぜ来たのだろう?。「洋行費用をつくるため」とか「失恋の痛みを癒すため」「親友・子規の郷里だったため」とか諸説があるようだ。そして、またなぜ在勤がたった1年になったのか?。「坊っちゃん」のなかに松山を離れるシーンがある。「その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした」。松山は不浄な地になっている。また、漱石の手紙によると、「人を遇する道を心得ぬ松山のものを罰したつもりだ。・・松山が余の予期したような純朴な地であったなら、余は人情に引かされて今日まで松山にとどまって村夫子を以て甘んじていたかもしれぬ」。漱石と松山は水があわず、相性が悪かったようだ。

漱石の13回忌に妻・鏡子と娘婿・松岡譲が松山を訪れ、思い出の地を回っている。その後出版された鏡子の「漱石の思い出」によると、「夏目と松山との関係は、前には子規さんで結ばれ、後では(今に至るまで)「坊っちゃん」で結ばれたといっていいでありましょうが、ここにいた1年間は夏目にとっては大変不愉快のものであったらしゅうございます」と書いている。これでもわかるとおり、坊っちゃんの松山嫌いは、大げさな誇張かと思ったら、漱石はほんとに、松山の風土や松山人を嫌っていたようだ(ただし、子規や虚子ら一部の人を除いて)。

漱石は松山から熊本へ移り、第五高等学校(現・熊本大学)の英文学教授になる。熊本では4年3か月を過ごし、新婚生活を送るとともに、ここを舞台に「草枕」などを書くのだが、最近の熊本では、漱石とのつながりを知らない人が多いといわれる。それに反して、わずか1年いただけの松山では、漱石や坊っちゃんを上手に“利用”している。こんなところが漱石に嫌われた理由なのだろうか。

参考文献:愛媛新聞「漱石の風景」平成7年5月25日-8月24日、「坂の上の雲」の松山を歩く 愛媛新聞社、「漱石と松山」中村英利子編著(アトラス出版)、「坊っちゃん」夏目漱石(集英社文庫)

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漱石のいた松山「今・昔」/3、愚陀仏庵
③愚陀仏庵(子規が居候した、漱石最後の下宿)

漱石は松山に来て、きどや(城戸屋)旅館(三番町)から愛松亭(一番町)を経て、二番町の上野義方の離れに住居を移した。明治28年(1895)6月下旬のことだった。途中で、子規が居候し52日間同居したことでも知られ、愚陀仏庵と呼ばれて、翌年4月に松山を離れるまで住むことになる。

場所は今の三越裏付近の、二番町3丁目7-6。十数年前までは料亭天平があったところで、いまはその名も愚陀仏庵という名の駐車場になっている。道路沿いの一角に「夏目漱石仮寓愚陀仏庵跡」の石碑が建っているが、辺りは駐車場や飲食店など雑然とした場所で、残念ながら明治期に子規と漱石の2大文豪が住んでいた歴史的な場所なのにどこにも、当時を彷彿させるムードはなくなっている。

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   (三越と全日空ホテルの間の道を南進すれば、愚陀仏庵のあった場所、この駐車場に出会う。その名も愚陀仏庵駐車場という)
上野は、旧松山藩の士族で70歳を超え、松山の豪商「米九」の支配人をしていた。この老夫婦と中年の娘、孫娘が住み、いわゆる素人下宿だった。平屋の母屋と2階建ての離れがあり、漱石はこの離れに住むことになる。一階は6畳と4畳半、二階は6畳と3畳半という4つの和室があった。
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     (愚陀仏庵の跡の石碑が建っている)
親友の子規がここに来たのは、明治28年8月27日だった。日清戦争の従軍記者をして帰国途上に喀血し、この肺病の療養のため、松山に帰省してきたのだ。親戚の家に1,2泊した後、漱石のところへ移ってきた。漱石はニ階に移り、一階を子規に住まわせた。「僕は2階にいる、大将は下にいる、そのうち松山中の俳句をやる門下生が集まってくる、僕が学校から帰ってみると毎日のように多勢来ている」と、漱石は書いている。

愚陀仏は漱石のもう一つの号で、この離れを愚陀仏庵と言うようになった。漱石は中学の英語教師として真面目な生活を送っていて、翌日の講義の下調べなどを欠かさず、ニ階から下りてくることは少なかったというが、時折は階下の句会にも参加し俳句に対する関心を高め、また上達も著しかった。

子規は10月19日松山を離れ、東京へ旅立った。52日間の同居生活は終わり、漱石は「見つゝ行け旅に病むとも秋の不二」などの送別の句を詠んだ。
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   (復元されていた愚陀仏庵は、4年前の豪雨の土砂崩れであとかたもなく全壊した=萬翠荘の裏山中腹)

文豪の住んだ記念すべき愚陀仏庵は、昭和20年7月の松山空襲で全焼した。昭和57年に萬翠荘の裏の城山中腹に復元され、ここで句会なども開かれて、市民にも親しまれていたのだが、平成22年7月12日の豪雨に伴う土砂崩れで全壊してしまった。関係者から、何とか再建を-、との声が高まった。再建場所の候補地は、①復元されていた萬翠荘裏②道後の旧ネオン坂③最初の2番町の愚陀仏庵跡地-の3か所。県と市の検討連絡会議はこのすべてを却下。「再建は見合わせる」との結論を出した。安全性の問題や、維持費、土地取得費の高さなどの問題があり、結局“適地がない”ということになったのだ。2階建ての愚陀仏庵は消えたが、子規のいた1階部分は、子規記念博物館内に復元されているので、当時の空気を感じて欲しい。

参考文献:愛媛新聞「漱石の風景」平成7年6月29日、「漱石と松山」中村英利子編著(アトラス出版)
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