レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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鬼北にも残る煉瓦造の倉庫
赤煉瓦になにか郷愁を覚え、魅せられるのは、自分だけだろうか。
ある研究家の説では「西洋化を始めた時、煉瓦は日本人のDNAに組み込まれた。その後は煉瓦の建造物に出会うたびに、その遺伝子がにわかに覚醒するから、郷愁を感じるのではないか」という。
ウーン、団塊の世代には納得の説である。

明治から大正にかけての約50年が“煉瓦の時代”で、近代化の波とともに各地に煉瓦建造物が造られた。
その名残りの煉瓦造の倉庫が、旧の北宇和郡広見町(現・鬼北町)にも残っていた。
鬼北では唯一のモノになっているようだ。

DSCF3575.jpg
愛媛の近代化遺産の本(「愛媛温故紀行」)に芝圓治家の米蔵として、写真の載っている建物がこれだ。

ぜひ見てみたい。
本には、詳しい所在地が記載されていないので、
鬼北の中心地にある高田商店で、配送の女性にこの煉瓦倉庫の場所について尋ねてみた。
「店内でお待ちください。社員に聞いてみますので」と。

すると、どうぞと冷たいゆずの果汁が出てきた。
さっぱりした味、うまい。もう一杯欲しかったが、お代わりを申し出る勇気はない。
店内の10人余に煉瓦倉庫情報を聞いてくれて、そのうちの1人が丁寧に行き方を教えてくれた。
旅先での親切は、本当にうれしいもの。
高田商店はとても感じのいい会社だ。皆さん! 「ゆずの里ぽん酢しょうゆ」などご愛用ください。

DSCF3583.jpg
JR近永駅前の左側、芝薬局の裏手にひっそりとたたずんでいるのを見つけた。

大正3年(1914)の建築というから、ちょうど100年前のモノだ。現所有者の方の話では、「以前は線路の向こう側にあったのを、曳家(ひきや)して、ここに移した。昔は米の倉庫として使われたようが、今は傷みも激しく、物置にしている」という。
イギリス積みで、上部にはしゃれた装飾が施されている。
入り口は鉄の扉だったが、扉の重さで煉瓦が壊れそうになったので、扉を取り外したそうだ。
補修の費用は、かなりの額になりそう。保存できるだろうか?。

参考文献:「愛媛温故紀行」(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、「鉄道と煉瓦」(小野田滋、鹿島出版会)
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「サクラビール」って知っていますか?
西予市宇和町の先哲記念館近くを歩いていたら、民家の軒下に見たことのないビールの看板が置いてあった。
大きな桜の花がデザインされて、その下に「サクラビール」の名前。
キリンやアサヒは見慣れているが、「サクラ」は見たことがない。
「サクラビール」ってなんだ。追跡してみた。
  DSCF3318.jpg
  (なぜここにあるのか、わからないが、宇和町の民家に残る「サクラビール」の看板)

ネットと図書館で色々と調べてみると、九州で最初のビール工場から産み出されたのが、サクラビールとわかった。
製造開始は大正2年(1919)のことで、帝国麦酒という会社名だった。最終的には昭和17年まで製造された。
そこから換算すると、この看板は70年以上前のモノ。マニアックな世界では、数千円から数万円の価値がありそう。

看板は別として、興味をそそられたのは、これが鈴木商店(神戸)系列のビール会社だったこと。
鈴木商店は、知る人ぞ知る、大正期の一時期に三井、三菱を凌駕し、日本最大の売り上げを誇った総合商社。

サクラビール誕生の発端は門司(現・北九州市)の地元資本が、ビール工場を計画したこと。
しかし、資金難でとん挫しかかり、そこに救世主のように登場したのが鈴木商店だった。
新会社の社名が、当初予定の牡丹麦酒から帝国麦酒に変わり、社長には鈴木商店の岡烈が就任した。(鈴木商店は、“帝国”という社名が好き?で、大正期の帝国の付いた社名は鈴木商店絡みのモノが多い)。ドイツ風のサクラビールの売り上げは好調で、次々と設備を拡充、大正15年下期まで普通配当1割、特別配当2分を継続した。
  DSCF3427.jpg
     (サクラビールのラベル=「サッポロビール120年史」より)

鈴木商店のパワーで育った帝国麦酒だったが、その鈴木によって逆に長い苦難の道を歩むことになる。昭和2年(1927)、鈴木商店が昭和金融恐慌であっという間に破産してしまったのだ。帝国麦酒は“倒産”は免れたものの、鈴木と“融通手形”を出していた関係で大きなダメージを負い、その後11年間にわたり無配を続けざるを得なかった。

昭和4年には桜麦酒株式会社に社名を変更。昭和18年に大日本麦酒と合併し、サクラビールは姿を消すことになった。この時までに、東京ビールやカブトビールなども大日本に吸収されて、ビール業界は大日本と麒麟の2社体制になった。
合併前の昭和10~14年の銘柄別平均売上比率は、アサヒ30・0%、キリン27・5%、エビス22・6%、サッポロ8.7%、そしてサクラが7・0%を占め堂々5位になっていた。6位以降はユニオン2.8%、カブト0・8%、オラガ0・6%の順。サクラは、北九州、西中国、四国を主な販売地域として健闘していた。(データは「サッポロビール120年史」による。)

大日本は戦後の昭和24年(1949)、集中排除法で、「日本」と「朝日」に分割され、その後、日本はサッポロビールに、朝日はアサヒビールに社名変更していく(「サクラ」のブランドは、サッポロビールが引き継ぎ、数年前に期間限定で復刻版が販売されたことがある)。ビール業界は麒麟を加えての3社体制が続いたが、昭和32年に宝酒造が参入(42年撤退)、同38年サントリーが再参入、沖縄のオリオンビールを加えて現在5社の寡占体制になっている(地ビールメーカーを除く)。

ビール業界には、愛媛県人が大きな足跡を残している。
分割時の大日本麦酒はシェア70%超というビールの巨大企業。その社長を昭和12年から分割時の昭和24年まで務めたのが、愛媛・内子町出身の高橋龍太郎。「日本のビール王」と称された。高橋は、戦後プロ野球の「高橋ユニオンズ」のオーナーにもなった。球団名に個人名がつくのは、後にも先にもこの球団のみ。ユニオンズの名前は、大日本麦酒時代のユニオンビールに由来している。なお、昭和46年(1971)から51年までアサヒビールの社長をつとめた高橋吉隆は、龍太郎の長男にあたる。
  IMG_3712.jpg
(高橋龍太郎の生家は今、文化交流ヴィラ「高橋邸」となっている。離れの木造2階建て入母屋造りは昭和初期の建築)

高橋の内子町の生家は、町に寄贈され、現在、文化交流ヴィラ「高橋邸」として一般開放されている。大日本麦酒時代の商品など思い出の品々も陳列されている。
(余談ながら、破たんした鈴木商店のロンドン支店長がこれまた内子町出身の高畑誠一。鈴木の大番頭・金子直吉とともにビジネスの拡大に大きく貢献した。高畑は鈴木破たん後に、子会社の日本商業を日商株式会社と改めて日本有数の総合商社に育て上げた。これがその後の日商岩井(現・双日)である。)

参考文献:「サッポロビール120年史」、「アサヒビールの120年」、「関西系総合商社の原像」(桂芳男)啓文社
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内部がすごい「俵津隧道」(西予市)
俵津隧道は、西予市宇和町から明浜町へ行く途中の野福峠にある。
大正15年(1926)の完成だから、88年前のもので、主にコンクリート製の隧道だ。
新道が出来てからは、通行量は極端に少なくなり、長さ363・6メートルもあるのに、内部は真っ暗。不気味な雰囲気となっている。

 DSCF3330.jpg
どうですか。この坑口の雰囲気は?。

坑口の左右にある壁柱(ピラスター)の上部が、三つ鉾形になっている。専門家によると、この形は全国で5か所にしか確認されていない珍しいデザインという。そのうちの3つが南予にあり、残る2つは東海地方にあるそうだ。
さらに扁額が直接彫り込まれているのも特色。
近くの三瓶隧道と似たような前面だが、どこか雰囲気が違うのは、三瓶の石と煉瓦に比べ、俵津はコンクリート製で重厚感を欠く平板な印象になっているからではないだろうか。

 DSCF3337.jpg
この俵津隧道の大きな特徴は、坑口よりも内部構造にあるように思う。
以下の内部写真を見てもらえれば、わかるが内部は坑口前後の少しの部分しか覆工事が行われず、大部分は素掘り、一部に煉瓦巻きやコンクリートの吹きつけ、コンクリートブロック覆工が見られ、延長360メートル余のなかでさまざまな工法が採用されている。こんな内部構造を持つ隧道は、めったにない。
ひんやりとした坑内、光は車のライトだけが頼り、ごつごつと側面の石が張り出していたりして、あんまりゆっくりしたくない雰囲気にあふれている。

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アーチの迫石はコンクリートで装飾されているが、その部分は歳月とともにはげ落ちつつあり、折角のデザインが台無しだ。
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俵津隧道は、愛媛県内では「千賀居」、「三瓶」とともに土木学会の近代土木遺産のBランクに選定されている。

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土蔵を包み込んだ煉瓦造りの倉庫(宇和)
西予市宇和町卯之町は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、昔ながらの“和風”の町並みが残っている。
そんな町の一角に西洋の香りが漂う煉瓦造りの蔵が、蔦に絡まれながらひっそり残っている。

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宇和先哲記念館の右隣、渡辺家の裏庭にある。
もとは、蚕種倉庫の土蔵があり、それをそっくり包み込む形で、このレンガの建物が出来た。
造った職人は大阪で技術を学んで帰り、煉瓦も地元で造ったものを使用したという。

  DSCF3311.jpg
大正3年(1914)頃の建築。イギリス積み。蔦が煉瓦をどんどん覆って、赤煉瓦の風情を“浸食”している。

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渡辺家は庄屋で、造り酒屋も営んでいた家柄。建物は築200年もの歴史がある。あの高野長英をかくまっていた部屋が今も残る。鳥居門は市指定文化財。正面側は今、ギャラリーカフェ「池田屋」として、お茶や食事も楽しめる。その店内にあるのが、酒造業を営んでいた時に使っていた煉瓦製の煙突=写真=。一見、なんでこんなものが室内にあるのか不思議に思うが、いわれを聞いて、「へー、これがその名残」と納得する。

  DSCF3289.jpg
卯之町には、煉瓦の建造物がもう一か所ある。渡辺家の近くにある末光家の「煉瓦塀」だ。ここも渡辺家の煉瓦倉庫を造った職人の手で、築かれたといい、大正3年頃のもの。和風民家が続く通りに、赤煉瓦がいいアクセントとなっている。

参考文献:「煉瓦百年物語」(大洲市)
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大正時代の風格ある登録文化財「三瓶隧道」(宇和)
石と煉瓦で築きあげたトンネルには、永年風雪に耐えてきた独特の風格がある。
97年前の大正6年(1917)にできた傑作が、三瓶隧道。
西予市宇和町から三瓶町に向かう旧道に、今も往時の堂々たる姿を見せている。
国の登録有形文化財で、土木学会の近代土木遺産ではBランクに指定、ぜひ保存してほしいトンネルだ。

  DSCF3238.jpg
まずは、トンネルの“顔”を-。アーチ部分は花崗岩、アーチの左右に立つピラスター(壁柱)も花崗岩を使い、重厚感を出している。壁面は煉瓦で飾り、帯石の上に扁額を掲げるデザイン。派手さはないが、笠石や要石もあって昔のトンネルの前面の造形物はほとんど揃っている。隧道解説の教科書で各部の“見本”に使える感じだ。

 DSCF3245.jpg
苔むして扁額も判読しにくくなっているが、右読みで「道隧瓶三」となっているのがわかるだろうか。
このトンネルのある場所は、宇和町郷内だが、起業者は三瓶村で、宇和よりも三瓶の出資が多いことから、宇和にあるのに三瓶隧道の名前になったようだ。

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これが内部の状況。地面と接している部分まで煉瓦のオンパレード。文字通りの総煉瓦巻きになっている。
長さ317メートル、幅4メートル。対向車があれば、入り口で待機することになる。ただし、現在は通行量が少なく、対向車と出くわすことはほとんどないだろう。今も7か所に照明があり、内部もきれいだ。

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煉瓦の積み方を見てください。側壁はイギリス積み(長手だけの段と小口だけの段が交互に積み上げられている)、上部のアーチ部分は長手積み(長手のみで構成)となっている。トンネルでは最も多いパターン。
このトンネルには、フレンドル積み(同一の段に長手と小口が交互に配置)の段があると隧道探訪のブログに記載があり、色々な部所で探したが、見つけることが出来なかった。煉瓦トンネルにフレンドル積みが混ざるのは、ごく稀な存在というだけに、この情報は非常に貴重。どのあたりにあるのかをご存知の方は、ぜひご教示ください。

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三瓶側の側壁に「大正6年10月竣功」と刻まれている。こんなところに銘板があるのは珍しい。

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心配なのは、三瓶側坑口の大きなクラック。このまま放置していたら、前面アーチを形作る迫石などが、剥離崩落する可能性もある。早めの調査とその結果によって補強工事の必要性があるように思う。
  
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この三瓶隧道へ向かう道沿いに、地四国巡りの石仏が数個ずつ置かれている。これらも相まって一部で心霊スポットと噂されているトンネルでもある。

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こちらは、三瓶側の坑口。苔むしていた宇和側よりも、ちょっときれい。

所在地:西予市宇和町郷内3149。県道30号線の三瓶トンネル手前を右折して旧道(現・260号線)へ進む。しばらく走れば、左手に見えてくる。
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自然と調和したダイナミックな景観美、第二女夫岩橋(八幡浜)
八幡浜市から西予市宇和町へ向けて県道25号を走っていたら、ダイナミックな鉄道橋が見えてくる。
6連のコンクリートアーチが美しい、JR四国の第二女夫岩橋(だいに・めおといわばし)だ。

  DSCF3117.jpg
当時の国鉄予讃線の最後の未開通部分が、八幡浜ー卯之町間で、そのまた最後に完成したのがこの第二女夫岩橋。
昭和13年(1938)に夜昼トンネルが開通し、翌年八幡浜まで鉄路は延びていた。
一方、南からは宇和島ー卯之町間が昭和16年に開通しており、昭和14年に八幡浜から全線開通を目指して工事を開始した。途中で、太平洋戦争に伴う資材不足で工事がストップしたりしたが、米軍が四国南西部に上陸するとの情報があり、本土防衛の緊急課題として今度は開通へ向けて人海戦術で全力注入することになった。卯之町と八幡浜の双方からレールの敷設を始めて、この第二女夫岩橋(全長49・5メートル)でドッキングすることになった。

時に昭和20年(1945)6月20日開通式、予讃線全線開通の日でもあった。終戦まで2か月もなかった。

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地区の象徴にもなっているアーチの鉄道橋。今、盛んに“景観美”がクローズアップされているが、昭和の橋梁設計者にもごく自然にこの景観に対する配慮がなされていたように思う。というのは、この橋の半径100メートル圏に3つの道路橋があるが、最も遠い双岩橋(桁橋)を除けば、県道25号に架かる夫婦橋や第二女夫岩橋とクロスするように架かっている女夫岩橋はともに充腹上路アーチ橋になっていて、アーチとアーチが美を競っている感じだ。
(手前のアーチ橋が県道に架かる夫婦橋=昭和51年10月完成=、向こう側に見えるのが第二女夫岩橋)

DSCF3110.jpg
橋のすぐそばの丘に奇岩が寄り添うように並列している、これを夫婦岩(めおといわ)といい、岩は、高さが11・5メートルと9・6メートルあり、注連縄が張られている。この一帯は公園化され、駐車場やトイレも整備されている。
自然がいっぱい、そこに人工の造形物が調和を図るように美しく存在する。

第二女夫岩橋のアーチ部分には、緑豊かなモミジが勢いよく伸びてきていた。これが秋だったら、どんな紅葉の姿を見せてくれるのだろうか。秋にもう一度、訪れたい、そんな気にさせるところだ。

参考文献:愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、八幡浜市誌
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