レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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愛媛で最も古いRC開腹アーチ橋「有枝橋」(旧美川村)
久万高原町の旧美川村有枝。国道33号のすぐそばにある旧道に、貴重な橋が隠れている。
大正11年完成で、RC(鉄筋コンクリート)開腹アーチ橋として、愛媛県下で最も古い「有枝橋」だ。
いや、デザイン上のR形状の開腹アーチ道路橋としては、“日本で最初の橋”、といわれるすごい物件なのだ。
それが今も現役として使われている。
土木学会の近代土木遺産Bランクに指定されている。つまり「県」指定文化財クラスとされている。

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これを設計したのは、愛媛県技師の坂本一平氏(のちに福岡県土木部長)だ。
愛媛県は、大正時代に愛知県奥三河地方とともにRCアーチ橋の2大地域と言われるほど、独自の様式美を持つアーチ橋の花を咲かせた地域として知られる。その最大の功労者は坂本技師であることは間違いない。この有枝橋と、御三戸橋、杣川橋(いずれも久万高原町)の三橋が現存する彼の設計だが、その後にできる数々のアーチ橋に彼の影響力は大きい。

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今の有枝橋は残念なことに、当時の親柱はなく、不自然に大きな柱がたっていて、橋の名前も竣功年月もどこにも見当たらない。
ちょうど通りかかった小学生にこの橋の名前を聞いてみた。間髪をいれず、「有枝橋です」と返ってきた。
どこにも書いてないのに、地元の人は、有枝橋と知っているのだ。長さは、31・1メートルある。

国道33号は昭和30年代から改良に着手、橋も次々と付け替えが行われるのだが、その橋の付け替え工事第一号に選ばれたのがこの有枝橋だった。約100メートル離れたところに昭和35年2月、新しく河口橋が架けられ、そこが33号線になり、有枝橋は旧道になったのだ。

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コンクリート橋建設の歴史上に名を残す「有枝橋」について、研究者の論稿(注1)から、この橋の価値をたどってみよう。

開腹アーチ橋では、鉛直材と桁との接点を直角に処理するか、曲線(R)に処理するかで、デザインが決まる。
R処理すれば、優美で古典主義的趣があり、逆に直角で処理すれば現代的ですっきりした外観を醸し出す。
構造上の強度に影響はなく、R処理は景観に対する設計者の想いによって採否が決まる。
坂本技師は大正11年、日本で初めて開腹アーチのR形状の道路橋を有枝橋として架設した。
さらに翌年、旧面河村に同様の開腹アーチ橋「瀧渡瀬橋」(現存せず)を造っている。

この論稿によると、愛媛県では、鉛直材頂部R状のスパンドレルがアーケード状のスタイルを本格的に採用した。初期の設計は坂本技師で、アーケード+リブ構造という愛媛型とも言えるスタイルを造りだした。この流れの頂点に位置するのが今は鹿野川ダムに水没している船渡川橋(昭和5年竣功)で、「国内で最も優美なアーチ橋ではないだろうか」と、論稿で称賛されている。(船渡川橋=西予市の旧野村町=は、冬場などの渇水期に見ることが出来る)。
私見では、西条市の大宮橋(昭和2年)も古典的な美しさを持ち、船渡川橋と遜色ない名橋と思う。

全国的にみると、昭和になってからR形状の橋が多くなったが、建設のピークは昭和2年からのほぼ10年間に集中、戦後はほとんど採用されなくなった。
景観より、経費カットを重視する、時代の風潮でもあるし、シンプルなデザインの方が好まれてきたとも言えよう。

(下写真は、大宮橋。鉛直材にギリシャ建築のような彫りを入れ手の込んだ施工技術を見せている)
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坂本一平と言う技師がいなければ、愛媛の山間部に美しいアーチの花が咲いたかどうか。それに、優美な船渡川橋や大宮橋は、設計者が誰なのか、わかっていない。90年以上たっても今に美しさを残し、設計計算の確かさをも実証している。人は死亡しても、その人の残した作品はそれこそ人類の遺産として今に残る。当時の技術者や施工者をたたえたい。

所在地:国道33号旧美川村有枝の河口橋近くから、県道209号美川松山線へ約100メートル。

参考文献:(注1)紅林章央、前田研一、伊東孝「わが国における第二次世界大戦以前のコンクリートアーチ道路橋の変遷」土木史研究論文集Vol.24 2005年

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格天井にカラフルな植物画が広がる、極楽堂(久万高原町)
久万高原町のふるさと旅行村(下畑野川)には、古民家を中心に5件の登録文化財がある。
そのうちの一つが、この極楽堂。
明治31年(1898)3月、地元の大工棟梁・大下小太郎によって、現・同町二名に建てられ、昭和52年(1977)、ここに移築された。
江戸期の辻堂の形式を残し、当地方の古い寺社建築の形式を伝える貴重な建築物。

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三間四方の宝形造り、四方に濡れ縁を巡らす。中に入ったら、びっくりである。
格天井に地元の植物画がカラフルに描かれている。これが極楽にも咲く花々、、、、。圧倒される美しさ。

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奥にはお地蔵さまを祀っている。
地元民の集会所的施設として使われ、また当初は四国遍路の道筋に建っていたため、遍路の仮眠の宿にも利用されたといわれる。堂に佇むと、当時の明治の人々の生活や信仰心を想像させる。

参考文献:IRC、2011,3「愛媛の登録文化財・極楽堂」(松本直丈)、文化財読本(久万町教委)
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旧大西旅館を見たことがありますか。(久万高原町)
すごい建物だ!。 文化財に指定されている建物より、はるかに観光的価値があるように思う。
圧倒されるような大きな木造3階建ての古い建物が、久万高原町渋草(旧面河村)にある。
旧大西旅館という。20年ほど前に旅館は廃業したのだが、今も看板が残り、繁栄の夢の跡を残している。

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割石川に沿って少し「く」の字形になった建物だ。道路面が2階にあたり、1階はいわば地下。旅館時代は、1階がお風呂などで、2階は経営者が住み、3階部分が宿泊施設だったという。

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山沿いの建物中央部に入り口がある。看板も健在で、今でも営業しているかのよう。
創業がいつだったのかは確認できなかった。ただ、客の不始末で火災になったり、大水が建物にまで襲いかかって来るなどの悲劇にも見舞われてきた。特に、客が多かったのは昭和30年代。上流に面河ダム建設工事が始まり、作業員ら多くの関係者が利用したのだ。大西旅館のほか、すぐそばにもう一軒、旅館があり、ともに繁盛したそうだ。

しかし、長くは続かなかった。近くの人の記憶では、20年ほど前に、旅館は営業を終え、その後は、南側の杣川橋(そまかわはし)側でたばこ店、北側で理容店の営業が行われたが、それもかなり前に閉店してからは空き家になっているとのことだ。
こんな大きな木造3階建ては、めったに見られるものではない。それにさまざまな人が利用する旅館だ。まだ、ここに泊った事のある人がいるに違いない。窓を開ければ清流の川、風光明媚な癒しの宿。川向こうから建物を眺めていたら、今にも浴衣姿の客が窓をガラガラと開けそうな不思議な気分になった。しなびた山里を行けば、こんなものにも出会える。

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面河ダムに向かう国道494号の大成入り口近くにある。標識の向こうに見えるのが旧大西旅館。(1枚目の写真に橋の親柱が写っているが、この橋が大正時代に架かった杣川橋。コンクリート充腹アーチ橋で、一見の価値あり。日を改めて紹介したい)

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愛媛で唯一の方杖ラーメン橋「中ケ市橋」(久万高原町)
面河渓や石鎚スカイラインに向かう県道12号線の久万高原町若山(旧面河村)を走っていたら、珍しい形の橋に出会った。
これが、愛媛県下に現存する唯一の方杖(ほおづえ)ラーメン橋で、「中ケ市橋」という。
土木学会の近代土木遺産Cランクに指定されている、貴重な一品。

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橋にはさまざまな構造形式分類がある。そのポピュラーなのがアーチ橋とか桁橋、トラス橋、吊り橋などだが、その分類のひとつに、ラーメン橋がある。ラーメンと言っても中華そばとは違う。ドイツ語で骨組みという意味。
ラーメン橋は、主桁と橋脚、橋台を剛結した橋で、耐震性に優れているという。さらに、橋脚部分の配置で、門型、V脚などに細分類され、橋脚を斜めに配したものを方杖ラーメン橋という。
谷が深く橋脚が建てられない場合などに採用され、美観にも優れている。

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この面河川流域は、大雨が降ると橋が流され、そのたびに住民が苦しんだ歴史がある。
中ケ市橋の親柱はゴツゴツとした荒っぽい造りだ。これは、当時の中ケ市集落12戸の苦難の象徴のように見える。
長さ22・5メートル、幅員2・6メートルの鉄筋コンクリート橋で、この川筋で初めての永久橋だった。
昭和9年(1934)3月に、総工費1,100円、集落出役900人役で完成したが、「当時としては筆舌に絶する大工事であった」(面河村誌)。ちなみに、当時の米価は1升27銭だったというから、どれぐらいの工事費だったかは、計算に強い方は計算してみてください。

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時に激しい豪雨に見舞われただろうが、80年もにわたって面河の川の流れを見続けてきた中ケ市橋。今は吹き抜ける秋風を受け、静かに渓谷の中にあった。

参考文献:「愛媛温故紀行」(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、面河村誌
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国の重要文化財「善光寺薬師堂」(鬼北町)
茅葺の3間四方の薬師堂が、緑豊かな山里の風景の中に静かに溶け込んでいた。
鬼北町小松の医王山善光寺の境内。形は小さいが、単なる古いお堂とはわけが違う。
室町時代の禅宗様式の特徴を持ち、四国で最南端にある貴重な物件で、国の重要文化財に指定されている。
堂内にある厨子も合わせて指定されていて、見どころが結構ある。

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桁行3間、梁間3間、一重、茅葺の方形造り。昭和57年(1982)の解体修理の際に、文明15年(1483)の墨書が発見され、室町末期のモノと確認された。

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これが厨子。一間厨子で、入母屋造り、板葺き。禅宗様の建造物。
安置されている木造薬師如来座像は鎌倉期の作で、像高70センチ。町指定文化財になっている。

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薬師堂の奥に、高さ30―50センチの像が14基もさりげなく置いてあった。あまりに無造作なので、参考までにとシャッターを切ったが、後でこの薬師堂の資料を見て、びっくり。これらの像は、二天十二神将という、これも町指定文化財とわかった。それなら、じっくり像を鑑賞しておけば、と思ったりした。
何もないような山里に、“さりげなく”いいものが隠れている。

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旧庄屋・毛利家住宅(宇和島市三間)
宇和島市三間町の田園地帯の山ふところ、細い道を上ったところに旧庄屋・毛利家住宅が静かにたたずんでいた。
スケール的に格別大きいわけではないが、長屋門、母屋、納屋、土蔵が中庭を中心に配置され、江戸時代の庄屋屋敷の全体像がうかがえる。
また、母屋は東北地方の曲がり屋のようにL字型になっている珍しい造り。角屋(つのや)座敷という構成をご覧ください。

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母屋は宝暦3年(1753)、初代毛利甚蔵が建てた。260年余も前のことだ。庄屋になった時は、わずか15歳で、それから12年の歳月をかけて母屋を築きあげたといわれている。
土間や勝手、奥の間などの私的空間は東西に一列に並べ、奥の間から南に座敷を並べて公的な空間とした。
結果として、畳の間は9部屋58・5畳にのぼる。極端な大広間があるわけではない。が、襖をはずせばどんどん広く使える構造にして、使い勝手のいい間取りになっている。
茅葺の屋根の上に、瓦葺きの小屋根を置く、「箱棟瓦葺き」で、これも特徴。南予の豪農の象徴である。

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細い道を行ったら、見えてくるのが長屋門。
写真では見えないが、門をくぐれば、母屋や納屋、土蔵など毛利家の全体像が見えてくるというわけだ。
家相学で“四神相応(しじんそうおう)”という、四神の存在に最もふさわしい地勢がある。
それは、「青竜(東)に流水、白虎(西)に長い道、朱雀(南)に池、玄武(北)に山稜あり」。
現地に行ってみると、これにぴったりのロケーション。初代甚蔵は、一族の安泰と繁栄を願って、ここに屋敷を造ったに違いない。
長屋門は嘉永4年(1851)に4代源蔵が建てた。長屋は、牛小屋などに分けられ、東側には隠居部屋も付属している。

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ここが土間、二つのかまどの前でばたばたと、食事を作っていただろう光景が彷彿される。

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室内に入ると、座敷が次々に出てきて、なんでこんなに座敷が必要だったのか、不思議に思う。庄屋と言うのは色々と接待などで宴会が多く、また権威の象徴として広い屋敷が必要だったのだろうか。

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室内には明治37年(1904)のオルガンが今も現役で使われている。

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長屋の牛小屋には今、当時の農具などが置かれていた。

母屋は、平成10年(1998)に、茅葺の全面張替など大修理が行われ、また長屋門も平成16年に修理された。
母屋と長屋門は宇和島市指定の有形文化財になっている。
今は「毛利家を守る会」の方々が中心になって、イベントなども行われ維持管理に努めている。

所在地:宇和島市三間町是能(これよし)419。道の駅みまから、案内標識に従って行けばいい。車で6,7分。毛利家住宅前に無料駐車場もある。また、道の駅にはレンタサイクルもあるので、風を受けながら田園地帯を走るのも楽しい。
「毛利家住宅」:火曜日は休館。それ以外の曜日は9:00から17:00まで公開されている(無料)。

参考文献:「新宇和島の自然と文化(1)」(宇和島市教委)、旧庄屋毛利家パンフレット
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和霊神社の今と、“山家事件”の謎
久しぶりに宇和島に帰り、“和霊さん”付近をゆっくり歩いてみた。
こどものころとは、違う目線で様々なモノが気になったりする。
まずは、大きな鳥居。高さは約13メートル。石造では日本一の大きさという。
松山の護国神社の鳥居も大きいと思ったが、和霊神社で鳥居を見上げたら確かにこれはでかいと実感した。

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(堂々たる大鳥居。太鼓橋の「神幸橋」を渡ったところに、随神門がある)
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(鳥居の裏側には「昭和13年10月建之」と刻まれている)

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随神門前の須賀川に架かるのが「神幸橋(みゆきはし)」という充腹コンクリートアーチ橋。
昭和7年(1932)竣功で、長さは28メートル。
太平洋戦争の空襲で、和霊神社の本殿など大部分は焼失したが、この橋は一部被害を受けながらも美しいアーチを今も残している。床面に焼夷弾の跡があると言われるが、床は傷みが目立ち、どれが戦時中の傷かは分からなくなっていた。

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橋の擬宝珠(ぎぼし)には、「山頼社」の文字や、釘抜き紋などが彫られているが、わかるだろうか。(釘抜き紋とは、菱形の模様)
山頼社とは、ここの主祭神が宇和島藩家老・山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)で、藩主・秀宗が承応2年(1653)に創建した時の社号は「山頼(やまより)和霊神社」だったため、当初は山頼社といわれ、時代とともに和霊神社に変わっていった。

昔は何とも思わなかったが、今考えてみると、一家老が神様になるのはちょっと不思議に思える。だいたい、神様とは天照大御神とか八幡宮、宇和津彦神などやたら読みにくい漢字が連なる、神話の世界がぴったりの方々のような気がする。不思議がっていたら、日本では個人が神様になるのはままあることのよう。その代表格が菅原道真。“無実の罪”で大宰府へ左遷され、その2年後に死亡した。その後に天変地異が多発したことから、道真の怨霊による祟り(たたり)と言われ、北野天満宮に祭られることになったのである。墓所は太宰府天満宮となり、天神信仰は全国に広がって、学問の神様になっていった。

山家清兵衛の場合も、同様だ。藩政改革の途上で、清兵衛は惨殺され、その死後、加害者が変死したり、天災が多発したことから、清兵衛の祟りと慄き、霊を鎮静化するため、神社に祀り込めたと言われる。その後、和霊神社の和霊信仰は中四国、九州を中心に広がり、今では仙台や大阪も含めて全国150箇所以上に和霊神社の分霊社があるのである。

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(本殿は昭和26年に復旧された。ブロンズ製の狛犬一対が本殿前に安置されている。井関農機創業者の井関邦三郎による奉納である)

“山家事件”とか“和霊騒動”といわれるのが、山家清兵衛一家惨殺事件。自分が子供のころは、敵対していた重臣の桜田玄蕃一派の陰謀と言われていたように思う。悪役の桜田が善政を行おうとした山家を殺害したという風に覚えていた。ところが、現在では、藩主・秀宗の密命によって上意討ちされたというのが定説になっている。桜田さん、ごめんなさいだ。

空襲で古文書が焼失した関係で、“山家事件”の全容は解明されることなく、今も謎が多いままだ。さまざまな伝承があり、またこの事件を題材にした芝居が中四国内に広がってフィクションの味付けがなされていった。殺害場所ひとつをとっても、松山説があって「山家清兵衛は、三津浜の難波屋の離れ座敷で蚊帳をつって寝ていて、蚊帳の四隅を切られて蚊帳ぐるみにして殺された」と、今治地方ではまことしやかに伝えられている。

史実としてほぼ間違いないといわれるのは、元和6年(1620)6月30日夜、宇和島市丸之内の現・和霊神社の場所にあった山家の自宅で、当時42歳の清兵衛が殺害されたほか、二男、三男ら数人も惨殺されたということ。事件後藩主・秀宗の夫人の3回忌法要の場で、寺の本堂の梁が落ちて、清兵衛と対立していた桜田玄蕃が圧死。さらに、事件の関係者が海難や落雷で次々に変死したことから、人々は清兵衛の怨霊の祟りと恐れたという。確かにドラマになる要素がいっぱいある。事件は、謎が残るから面白いと言えそう。

下写真は随神門に掲げられている大きさ日本一の鼻高面とお多福面。比較物がないと大きさが分からないが、ざっと1・5メートルぐらいの大きさだ。
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お多福面はちょっと怖い。
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375平方メートルもの大きな参籠所。その下には、城郭にあるような見事な石垣。さらに上部は「和霊の森」と言う常緑広葉樹の社叢(市指定天然記念物)。山頂には「鎌の江城」と呼ぶ中世の城跡があり、石垣はこの城の名残との説もある。
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参考文献:「三島信仰と和霊信仰・民間信仰」(佐々木正興、愛媛県史民俗別刷)、「愛媛県神社誌」(愛媛県神社庁)、「山家清兵衛公頼と和霊信仰」(三好昌文、季刊えひめ第6号)
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