レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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山里にある変わった建物、これなんだと思いますか。(砥部)
旧広田村(現・砥部町)の山里を車で走っていたら、変わった建物が目についた。
これ、なんの施設か、知っていますか。
まるで3階建てのような独特の越屋根を持ち、2階部分は土壁造りで、山里の風景によく溶け込んでいる。

  DSCF0514.jpg

答えは、葉タバコの乾燥施設。正確には「-だった建物」、今は農業の資材置き場になっていた。

ここ高市地区は、葉タバコ栽培が盛んで、以前はこんな施設がいたるところにあったという。
しかし、葉タバコ栽培農家が少なくなり、また一方で乾燥機械が登場したことによって、このような大規模な施設は必要なくなっていった。年々建物は姿を消し、今では同地区には数か所にあるだけ。葉タバコ栽培の歴史の1ページを物語る貴重な産業遺産になっている。

  DSCF0518.jpg
今見て記録しておかないと-。
山里のこういう建物は、無くなってから、気づくことがある。
昔は、確か、ここらにあったはずなのに、と。

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今が見ごろ!冬桜と紅葉が一緒に楽しめる中予の穴場。(東温市)
サクラの花見と紅葉見物-。奇妙な組み合わせが今、一緒に楽しめるところがある。
東温市河之内(旧川内町)の金毘羅寺と隣接する惣河内神社。
今が盛りの紅葉にしても中予地方の穴場といってもいい美しさ。それにサクラが加われば、鬼に金棒。お勧めです。
天然記念物の木々や文化財級の本堂の彫刻もあり、見どころも多い。ゆっくり散策してはいかが。

  DSCF0666.jpg
サクラは、惣河内神社の境内にある。
俳人・松根東洋城が「春秋冬 冬を百日桜かな」と詠んだことから、この桜を“百日桜”という。
秋から翌春まで次々と咲き続ける冬桜で、12月中旬が最も見ごろになる。

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バックに紅葉の赤、冬桜の白が美しさを競う。それに金毘羅寺のイチョウの黄色も今が盛り。

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金毘羅寺の参道沿いには、見事な紅葉。特に陽光が当たるところは、色鮮やかだ。

本堂前に4本の大スギが天高く一直線に伸びる。高さ約39メートル、このスギは、加藤嘉明公がお手植えしたものといわれる(市指定天然記念物)。
また、隣の惣河内神社前には、樹齢1000年という巨大なウラジロガシ(県指定天然記念物)もある。

木々が季節ごとに織りなす自然の営みの美しさも素晴らしいが、もうひとつ、この金毘羅寺にはすごい見どころがある。
本堂のいたるところに刻まれた彫刻だ。

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彫ったのは、長州大工の門井友祐。明治中期から大正10年まで、兄の宗吉とともに、高知・愛媛の両県で、多くの寺社や民家を建てていった。特に、友祐は彫刻の異才として多くの作品を残した。
後期の作としては、南光坊大師堂(今治)、興隆寺仁王門(丹原)が知られており、龍や唐獅子、獏、鳳凰、神話の世界などを生き生きとダイナミックに描いている。

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じゃれあう唐獅子。いや、けんかしているのか、噛みあってますね。

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木鼻に籠彫り(かごぼり)した傑作。波頭を基本に、蓑亀が泳いでいる。友祐の今から118年前の明治29年(1896)の作品で、優れた技巧が発揮されている。それぞれの彫刻にドラマが隠されているから、何が彫られているのか、観察してみるのも楽しい。

紅葉の名所としては、まだ知名度が低いのか、11月22日の土曜日でも訪れる人はポツリポツリだから、ゆったり散策することができた。また、付近の見どころとしては、紅葉のスポット「白猪の滝」がある。金毘羅寺から約2キロ走れば、白猪の滝無料駐車場(トイレ付)。ここから、滝までは徒歩で30分。もう少し車を使えば車と徒歩で15分と案内板に書いてあった。
【交通ガイド】松山方面からなら国道11号の三坂峠の手前に、「渋草 面河方面」の大きな道路案内標識があり、ここを右折して国道494号「渋草」方面へ走る。3キロぐらいで、バス停「金毘羅前」、河之内公民館の前が金毘羅寺。

※長州大工とは、山口県の周防大島(屋代島)から、四国に出稼ぎにきた大工の集団。多くが宮大工で四国の山間部を中心に数多くの社寺を建築して行った。江戸時代後期から大正時代にかけて活躍した。技術的に優れたものがあり、愛媛の建築業の発展に貢献した。
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山根グラウンドの観覧席と、鷲尾勘解治のすごい生きざま(新居浜)
グラウンドの観覧席が登録文化財になっているのは、全国的にも珍しい。

その例が、昭和3年(1928)に完成した新居浜市角野新田町の山根グラウンドの観覧席。
長さは約170メートル、最大27段の階段式の石積みとなっており、収容人員3万人ものスケール。
特筆すべきは、これが住友従業員の労働奉仕で出来上がったことだ。
住友に限らず社員に今、このような造成作業への労働奉仕を呼び掛けたら、果たしてどれだけの社員が集まるだろうか。

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この労働奉仕は、作務(さむ)と呼ばれた。作務とは?。ファッションに詳しい人は作務衣(さむえ)という着衣を思い出し、作務という言葉に気がつく人もいるだろう。作務衣とは、もともと禅宗の僧侶が雑事(作務)をするときに着たもの。簡単に言うと、作務とは禅宗の考え方に裏付けられた労働奉仕のこと。

この作務を指揮したのは、前年の昭和2年に住友別子鉱山(株)の最高責任者となった鷲尾勘解治(わしお・かげじ)だった。
別子銅山の近代化に貢献した広瀬宰平、伊庭貞剛とともに“別子三翁”の一人に挙げられる鷲尾は、異色中の異色の企業人といえる。

まず、その経歴。熊本第五高等学校や京都帝国大学の在学中に寺に住み込んで禅修行に励み、住友入社に当たって、大徳寺の芳春院住職・菅広州老師から受けた「下情を調べて、働くものの立場を理解し、労使協調の実を上げ、共存共栄を図れ」との教えを持ち続け、この“上下円融思想”をとことん実践しようとしたのが鷲尾だった。
それゆえ、入社後には、第一期の定期採用学卒組(文系)でありながら、生野鉱山で2か月坑内労働を体験、更に別子に来てからは希望して2年間も一坑夫となって、労働者とともに働いた。
“学士坑夫”-、こんな新入社員なんて鷲尾以外にいるわけがない。

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(鷲尾の指揮で作務によって造られた山根グラウンドと観覧席、今でも新居浜太鼓祭りの代表的な統一かきくらべの会場としても親しまれ、市内外から数万人の人が訪れる。=平成26年10月17日撮影)

鷲尾は別子鉱業所の副支配人兼労働課長になり、別子大争議の解決に取り組み、昭和2年に住友別子鉱山(株)の最高責任者に栄進する。
近代的な労務管理を取り込んだ大きな功績もあるのだが、鷲尾の真骨頂は別子銅山の鉱脈が尽きる事を見越して打ち出した「新居浜の後栄策」という取り組みだ。企業人として異色中の異色というのはこれだ。

「(住友の)工場だけを改良したところで、地方全体がこれに適するようにならねば決して事業は起こるものではない。工業都市たるには、まず交通機関が第一に必要であって、ここ(新居浜)においては築港と道路をまず整備せねばならんのです」。これが基本政策。まさに、鷲尾は一企業人でありながら、都市計画を実現しようとした。

新居浜のための策として①築港によって港を改修、大型船の出入りを可能にする②埋め立てで工場敷地を確保する③化学工業の拡張④機械工業を起こす⑤大都市計画を樹立する⑥市民に企業者と共存共栄の思想を涵養する-の6項目を上げている。
しかし、住友本社が正式に許可したのは築港計画だけだった。当時の住友幹部は「銅山がだめになれば、大阪に引き揚げればいい」との考えが強く、地方の活性化や都市計画なんかは、眼中になかった。

鷲尾のすごいところは、それでも強引に自説を推進したことだ。
なんと、鷲尾は、残る後栄策を住友別子鉱山の資金力と従業員の“作務”で実現しようとした。
この作務でまず行われたのが、山根の土俵やグラウンド観覧席の造成。このあとも、同グラウンドの400メートルトラックの整備、角野小学校校地拡張、昭和通りの拡張工事と続いていった。

昭和通りの拡張は、当初幅員8間(約14・6メートル)の構想だったが、県は「4間幅にせよ」と反対した。鷲尾は当時の新居浜町長・白石誉二郎と協議して、両方の間を取って、6間幅(約11メートル)と決めた。工事費は住友別子鉱山が出し、土地の買収費は町が出した。地元民は「田んぼの中にそんな広い道を作ってどうする!」と、あきれたという。しかし、もっと広くしていたら-今は誰もがそう思う。

作務について、鷲尾は自伝の中で次のように書いている。「私は見性寺2年、芳春院で3年、都合5年間禅寺の小僧をして、和尚様とともに作務をしたが、作務ほど清々しいものはなかった」「私が常務取締役として別子銅山の責任者となるや、新居浜方面でも作務をすることにした。-毎日曜日に朝十時ごろから始め、昼食には一同握り飯をかじって午後3時ごろに散会するのである。私はいつも参会して皆とともに作務をした。毎回約200名余りが集まって楽しく元気に作務を行った。実に新居浜の若い労働者の意気は盛んで、新居浜新都市建設に向かって頼もしい意気を昂揚したものであった」

こんな鷲尾に対し、住友本社の評価は厳しいものとなっていった。独断専行と批判する。分かるような気がする。行政がすべきことを、企業が金を出してする。今なら、株主代表訴訟を起こされかねないのではないか。

昭和6年2月、辞令が出た。「本社常務理事に」。一見、栄転のようだが、実は閑職。住友は、体よく新居浜からの転出を命じたのだ。
昭和7年2月に欧州商工業視察を命じられた。1年半の予定だったが、昭和7年4月4日付の辞令が追いかけてきた。「常務理事ヲ免ス」。昭和8年12月住友合資会社を依願退職する。51歳だった。
その後は必ずしも安楽な生活ではなかったと思われるが、新居浜に戻った昭和28年8月以降は教育者として心豊かな日々を送った。産業振興や教育文化振興、社会教育功労により、愛媛新聞社賞、県教育文化賞、勲5等瑞宝章を受賞(章)。昭和56年4月、101歳で天寿を全うした。

“別子の3翁”といわれる広瀬、伊庭、鷲尾。3人それぞれ生き方や考え方は個性的でドラマチック。結果から振り返ると「もしも、あの時にこうしていれば」と思うこともあるが、それが出来なかったのはやはり人間だからだろう。

参考文献:「鷲尾勘解治自伝」(益友会)、「ドキュメント住友城下町 混沌」(結城三郎、ダイヤモンド社)、「明治期の別子 そして住友」(藤本鉄雄、お茶の水書房)

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フクロウなど、ほのぼの木の彫刻(久万高原町)
久万高原町の道端には、木彫りのフクロウ像がところどころに置いてある。
「いったい誰が、なぜ」と思いながらドライブしていた。
そのまま旧面河村に入ったらその道沿いに、ユーモラスな木彫りの像が大量に置いてある場所に出会った。
フクロウや河童がたくさんいる。なんと展示場まである。この主とお会いして謎が一気に解けた。
「みんなが楽しい町にー」、自分の好きなことで、まちづくりにつとめる人がここにいた。

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チェンソー木彫り工房「野炭ま仙花(やすみませんか)」という。チェンソーで9割方彫り上げる大胆な木彫り。
郷里に帰って6,7年。好きなフクロウを中心に楽しい題材の木彫りを始めた。
「あなたも始めませんか、講習に3回も参加すれば彫れるようになりますよ」
才能のない自分は丁寧にお断りしたが、見ていて癒される作品のオンパレードだ。楽しい、心豊かな気分になる。

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癒しの木彫り。展示場にはフクロウや河童など楽しい作品がズラリと並べられている。ご自由にどうぞ。

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重文「豊島家」は保存修理工事中(松山市)
重要文化財で大庄屋の屋敷として知られる豊島家(としまけ)=松山市井門町=では、現在保存修理工事が進んでいる。
「井門(いど)の八棟(やつむね)造り」として、全国的にも知られる豊島家。

今回の“平成の大修理”は、主屋を主体に表門、長屋門、長屋などを対象に数年がかりの大規模のもの。
古い材料を残しながら、文化財専門の職人の手によって進む、工事の現場を見た。

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今から250年余も前の宝暦8年(1758)の建築。
茅葺(かやぶき)の大きな屋根をいくつも重ねた独特の八棟造りの主屋には、今は修理のため屋根にシートがかけられている。

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主屋では、茅の全面的な葺き替えが行われている。昭和54年(1979)の根本修理以来の大修理となる。
作業をしているのは、代々文化財級の茅葺屋根の茅葺に携わっているという専門職人。貴重な人材だ。
最近は、この分野での職人がめっきり減り、茅葺を維持するのが難しくなっている。

さらには、肝心の茅の入手も難しい。
今回の豊島家の場合、必要な茅の量は、5,000束にも及ぶ。長さ2・5メートルで、その一抱え分が1束だが、その量の多さ、想像できるだろうか。これだけの量を集めるのも一苦労。
この現場では、富士山のふもとの御殿場から確保したそうだ。

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   (専門の道具と職人の技がプラスされ、一部はすでに、葺き替えが完了している。)

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内部からは、茅葺屋根の仕組みが見えてくる。
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   (葺き替えと並行して、主屋内部の床組の補修工事も行われている)
今回の保存修理は、雨漏りや木の部分・漆喰壁の破損が目立ちだしたため、平成25年11月から着手された。
26年度からは足場を築き、主屋の茅葺・本瓦葺の屋根の葺き替えに着手、来年の春ごろまでに葺き替えは完了予定。 
これだけに終わらず、27年度以降に表門や長屋門、長屋などの修理を行い、さらに主屋の建具などの補修もして、平成の修理を終える予定だ。 

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  (シートがかけられているのが、長屋で、その右側にあるのが長屋門。ここも来年度に修理予定。)
文化財で古い部材の一つ一つが貴重なため、瓦にしてもひとつずつ番号を打ち、音で傷み具合を確認し、使えるものは残していく。保存修理工事は慎重に進めざるをえないため、時間もかかる。
修理完成後の八棟造りの雄姿をぜひとも見てみたい気持ちになった。

【豊島家住宅】
豊島家は代々、大庄屋として栄えた旧家。屋敷は3,000平方メートルあり、周囲に築地塀を巡らし、北西には壕を掘っている。主屋、表門、長屋、長屋門、米倉、衣装倉、中倉の計7棟が重要文化財。全国的にも八棟造りの代表的な建築物として知られる。ただし、同住宅は、原則非公開となっている。

※愛媛の主な庄屋屋敷(名前、住所、建築年、文化財指定区分、特徴)※
【豊島家】松山市井門町、宝暦8年(1758)、重文、八棟造り、中予で最も古い
【渡部家】松山市東方町、慶応2年(1866)、重文、瓦葺き屋根の上に茅葺の越屋根を持つ
【毛利家】宇和島市三間町、宝暦3年(1753)、市指定文化財、角屋屋敷、南予最古
【土居家】西予市野村町、文政10年(1827)、市指定文化財、四国最大級の茅葺

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登録文化財の煙突がある山に登ってみた。(新居浜)
新居浜市を車で走っていると、山にそそり立つ煉瓦の煙突がずっと気になっていた。
あるTVCMにも使われているから、ご覧になった人も多いだろう。
絵になるような、とてもいい雰囲気の光景--。現物を直接見に行くことにした。
地元の人ならだれでも知っている、通称“えんとつ山”、正式には生子山(しょうじやま)という山だ。

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現場まで車で直行というわけにはいかない。今風のスカイラインにはなっていないので、自力で登山しなければならない。
といっても、「健脚の人で10分程、並み脚の方で18分程」(入り口案内板表記)。
分かりやすい入り口は、山根グラウンドや別子銅山記念館の近くだから、その付近に駐車して、後は徒歩で登っていく。
国領川に沿って、記念館から別子ラインの道を1分も歩けば、道沿いに登山口の看板が見える(下写真)。

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ボランティアグループのおかげで登山道はきれいに整備されている。入り口には手製の杖も常備されていた。
檜の木立に、鳥の声が共鳴する。

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山道というのは結構きついものだ。
疲れたところで、ふと上を見たら、「おー」、木立の間から煙突の上の方が見えて一気に元気になる。
そしてついに見た。これが、明治21年(1888)5月に出来上がった山根製錬所の煙突だ。
なんと126年も前の、日本で最古級の重化学工業の忘れ形見である。
国の登録有形文化財で、通産省認定の近代化産業遺産でもある。

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高さは約20メートル。イギリス積みの煉瓦に一部風化が見られるものの、風格があり何よりも、孤高のりりしさがある。
さらに、この煙突は、単なる製錬所の煙突で片づけられるものではない。

時代の一歩先を行ったチャレンジの象徴といえる遺産であり、住友家の初代総理人・広瀬宰平にとっては、悔しさの残る悲劇の“負の遺物”とも言えるモノなのである。
形状のレトロさに目を奪われるだけでなく、そそり立つ煙突が、無言で語りかける別子銅山の秘められた歴史の一ページに目を向けてみよう。

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この煙突の前に、解説文が掲げられていて、その中に次のような一文がある。

「明治21年(1888)、広瀬宰平は東京大学教授であった岩佐巌を招き、この地で湿式収銅法による収銅過程で硫酸などの化学物質の抽出と更には、製鉄の試験を開始しました。官営八幡製鉄所の操業より7年前のことです。」

つまり、この山根製錬所は、単に銅を精錬するだけでなく、その過程で発生した亜硫酸ガスから硫酸を取り出し、さらに残りかすから銑鉄を製造しようとした意欲的な施設だった。広瀬は製鉄事業をも視野に入れ、強力に推進した。
ところが、技術の未熟さで採算ベースに乗らず、赤字経営に。さらに、煙突から出る亜硫酸ガスが付近の農作物に被害を出し、深刻な煙害が起こった。これで広瀬は追い詰められる。

38歳で別子の支配人になり、28年間も権力の座にいた広瀬は明治27年(1894)11月、引退を余儀なくされた。山根製錬所は操業停止、翌28年に閉鎖された。わずか6年余りで山根製錬所は歴史の幕を閉じ、煙突だけが今に残る。別子銅山の近代化は、広瀬から伊庭貞剛へバトンタッチされていくのである。

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山根製錬所は、現在の別子銅山記念館、大山積神社周辺にあった。そこから生子山の北斜面に沿って約60メートルの煙道に導かれて、煙突から排出されていた。少し前までは、煙突下部のコンクリート部分に煙道の穴が開いていて、そこから空を見ることが出来たという。

えんとつ山からは瀬戸内海まで一望できる。煙突は平成22年に耐震補強工事を終え、別子のシンボルまたランドマークとして、新居浜の繁栄を見つめ続けている。
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