レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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暖炉も洋式便器もある。新居浜の旧広瀬邸はすごーい。
広瀬宰平と言えば、別子銅山の支配人から住友家の初代総理人となり、住友グループの基礎を築いた人物。
強力な権力の座にあった彼の“豪邸”は、国の重要文化財となって、今も新居浜市に残っている。
一言でいえば、すごいスケールの和風にモダンをプラスした住宅。
明治では珍しい暖炉や洋式便器など、さすが広瀬邸と思わせる、そのポイントをスケッチしてみた。

  DSCF0188.jpg
母屋は明治10年(1877)に現在地より北に約4キロ離れた久保田に建築され、明治20年に米蔵などとともに現在地に移築された。明治22年(1889)には、母屋に接続する形で新座敷や庭園が造られた。
写真上=これが母屋の正面玄関。
2階は望煙楼と名付けられ、ここからは新居浜市内から臨海部まで見渡せる。広瀬が愛した場所と言われ、ここで住友や新居浜の発展に思いを巡らせていたのだろう。

  DSCF0185.jpg
母屋の屋根の上に見えるのが、輸入物の避雷針。板ガラスも珍しい。明治の和風の住宅に似つかわしくない感じがするが、西洋のさまざまな知識を導入していた広瀬らしい発想の代物だ。

  DSCF0214.jpg
これもびっくり、洋式便器。もちろんイギリス製。母屋2階にある。明治20年の移築時に設置されたようだ。

  DSCF0203.jpg
広瀬がいつもいた居間。ここにあるのが暖炉。その前に、掘りごたつと火鉢がある。和と洋の奇妙な同居だが、寒いときの暖炉の良さにすっかり魅せられていたそう。

  DSCF0196.jpg
来客専用のお風呂まである。楠で造られている。

  DSCF0198.jpg
望煙楼から遠く瀬戸内海をも望む一方、座敷からは、日本庭園の美が満喫できる。またこの庭園には、芝生も取り入れられており、ここにも伝統の中に洋風を積極的に取り込んだ広瀬の考えの一端がうかがえる。座敷の縁側に座り、季節ごとに色彩を変える静かな庭を見つめる--、これこそまさに至福の時のように思えた。

広瀬邸は平成15年、「別子銅山を支えた実業家の先駆的な近代和風住宅」として、母屋、新座敷、離れ、金物蔵・米蔵、門番所、乾蔵、表門の7棟が国の重要文化財に指定された。見どころがいっぱいで、とても書ききれない。時間があれば、ゆったりと明治にタイムスリップしながら見て欲しいスポットだと思う。

所在地:新居浜市上原2-10-52
料金:「広瀬歴史記念館」「旧広瀬邸」の見学料金=大人520円
営業時間:9:30-17:30(受付17:00まで)
定休日:月曜日、祝祭日の翌日、年末年始(12月29日ー1月3日)
問い合わせ:広瀬歴史記念館(0897-40-6333)
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伊予鉄横河原線「小野川橋梁」のプレートと明治の人脈ロマン
伊予鉄道横河原線の小野川橋梁に行ってきた。ここで、ぜひとも見たいものがあったからだ。
それは、小さな鉄製のプレート。
製造年とメーカー名が刻まれているというが、これがまた、謎を秘めたプレートといわれるもの。
近代化遺産に関心のある人は、実物をいやでも見ておきたくなる代物だ。

  DSCF0574.jpg
プレートは一体どこにある。
まず橋のたもとに近いところから下の桁を見ていたら、「アッ、あれだ」。
あまり迷うことなく、簡単に発見できた。

ペイントが盛られていて、ちょっと判読しにくいが、「明治32年 阪鶴鉄道 汽車課工場製造」と刻まれているのがわかる。
明治32年とは、1899年。今から115年の前のスティール桁が現役として使われているのだ。
桁は3つに分割されていて、それが2つの橋脚に乗る形で造られている。その3つのどれにも、同じプレートが付けられていた。
  DSCF0559.jpg
  DSCF0561.jpg
謎といわれるのが、なんで「阪鶴鉄道」製造のスティール桁が、ここにあるのか?。
阪鶴鉄道というのは、商都・大阪と軍港・舞鶴を結ぼうと、明治26年(1893)に大阪の財界人主体で計画された。その2年後の創立総会で社長に土居通夫(宇和島出身)、取締役の1人に池田貫兵衛(大洲・新谷出身)が選出されている。
土居は22年間も大阪商工会議所会頭をつとめた大阪財界の代表格、池田は神戸電灯の社長など、10社以上の会社役員をする神戸を代表する実業家だった。よくも、こんな“大物”が愛媛から出ていたとは、である。(余談ながら、今も大洲市新谷に残る池田貫兵衛の間口100メートルもに及ぶ豪邸は、明治期の池田の“財”を物語っている)。

阪鶴鉄道は、紆余曲折があり、明治32年(1899)までに神埼(尼崎)-宝塚-福知山間が開通している。
伊予鉄横河原線の平井河原(のちに平井)から横河原までの延長に仮免許が出たのが、明治31年9月。プレートにある明治32年に横河原までの全線開通がなされている。(全線開通は同年10月)。

この当時の伊予鉄側の人物は、創業社長の小林信近(松山出身)、2代目社長・古畑寅造(第七十九銀行頭取、明治34年取り付け騒ぎで破たん)、専務でのち第3代社長になる井上要(大洲・菅田出身)。

これら同郷の人脈ネットワークによって、橋桁が伊予鉄に来た可能性が考えられる。

  DSCF0567.jpg
         (橋脚には、石積みと煉瓦積みが併用されている)
伊予鉄にはかなりの史料が残っているのだが、残念ながらこの橋桁の購入記録は見つけることが出来なかった。
となると、推論しかない。
上記のように、すごい綺羅星のような人脈説にしておくのが明治的ロマンを感じさせ、いいのではないかと思う。
阪鶴鉄道は、鉄道国有化問題も絡んで、路線も動いたから、余材が出た可能性もあり、伊予鉄の「小林か古畑、井上」が阪鶴の「池田か土居」と交渉して入手したことにー。いや、いや単にスティール桁の実績のある阪鶴鉄道にビジネスとして独自に発注したのかもしれないけど。

明治はすっかり、遠くなった。勝手に推論していたら、これら関係者が笑っているような気がする。

参考文献:愛媛温故紀行(財・えひめ地域政策研究センター)
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山峡に見える、あのアーチ橋はなんだ。(新居浜)
新居浜市の「マイントピア別子」に向かって、県道を走っていた。
あと数百メートルの地点で、晩秋の濃い緑の右手山あいに、グレーのコンクリートの建造物が一瞬見えた。

「エー、あれ何?」という感じ。そのまま走ったがどうしても気になる。百メートル余も走ってUターン。
改めて、“物体”を観察してみた。川の対岸だから遠いし、雑木に隠れていてどうしても確認しづらい。
ぼんやりしているが、下写真をご覧ください。やっぱり「アーチ橋」だよね。
何だ、この橋は--。なぞを解明してみた。

   DSCF0316.jpg
マイントピア別子の事務室に飛び込んで、「あれなに?」。
いろいろ意見が出たがはっきりしない。
そこへ若い職員がパソコンを操作したと思ったら、一発で新居浜南高の別子銅山資料から回答を出してくれた。
この橋の名前は、「檜尾川橋(ひのきおがわはし)」。
別子鉱山鉄道下部線(通称、下部鉄道)の名残の橋とわかった。

   DSCF0321.jpg
今から120年余の前、明治26年(1893)に敷設されたのが、下部鉄道。
愛媛県下では、伊予鉄(明治21年)に次いで2番目に開設された鉄道だった。
当初は端出場から惣開まで10・5キロのコース。檜尾川橋は、開設時から端出場-板ノ元(黒石)間にあったが、最初は暗渠として造られていた。明治32年(1899)8月の洪水によって一度破壊された後、I形鋼を使って鉄橋として復旧。この鉄道が昭和4年(1929)に地方鉄道に切り替わり、一般も利用することになったことで、昭和6年(1931)コンクリートアーチ橋として架け直された。この橋が今に残っているのだ。
同鉄道は、昭和52年(1977)に廃止され、84年の歴史にピリオドを打ったが、今も各所に路線の跡が残っている。

檜尾川橋へはもっと近くに行って見てみたかったが、住友金属鉱山の許可がないと、付近への立ち入りは禁止となっているとのことで、今回はハイキングを断念した。

参考文献:HP新居浜南高校情報科学部「別子銅山88カ所・近代化産業遺産ガイドブック」
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川登の水車小屋を見た(砥部)
水車といえば、童謡「森の水車」を連想してしまう。

「コトコトコットン コトコトコットン」のフレーズが思い出されるが、
ここ砥部町の「川登の水車」は、牧歌的なモノとは雰囲気を異にする。

水車を利用して、穀物ではなく、砥部焼の原料の陶石を砕いていた。
江戸から明治期にかけて、砥部川流域で通算48基あった水車。が、今残るのは、ここだけになった。
その光景がこれだ。

   DSCF0460.jpg
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この水車、直径5.2メートルもあり、別名・太鼓水車ともいう。
明治中期に設置され、当初は松材を使った木製だったが、大正末期に鉄製に変わった。

川から引いてきた水を水車の上部にかけて、水車を回す。仕組みは単純だが、その馬力は最大10馬力もあるという。

回転運動を、上下運動に変える。杵を上下させて、陶石を砕く(乾搗=かんづき)と、水の中で砕いて粘土分と砂を分離する(水搗=みずづき)の装置を左右対称に配置し、1か所で同時に行えるようになっている。

初期の水車は、乾搗と水搗がそれぞれ別のところで行われていたが、ここのように生産工程を集約することによって、効率的に砥部焼の陶土が作られるようになっていった。
桁行10間、梁間2間の木造平屋建てのこの水車小屋は、平成15年(2003)に登録有形文化財となっている。
砥部焼を下支えした貴重な産業遺産なのだ。

  DSCF0445.jpg
見学者の多くが、川側から水車小屋を撮影して帰る。だが、この施設は内部を見学できる(ひと声かけて)。

ただ、内部は雑然としていて、足元注意だ。それでも、昔の雰囲気は十分に伝わってくる。
今も残る陶石を砕く杵。歴史を伝える品々がゴロゴロしている。

  DSCF0450.jpg
この大水車はメンテナンスも大変。これまでに鉄板を2回張り替え、ペンキも塗り替えしてきたが、もっと大変なのは、台風で川床に土砂が堆積し、その取り除きに追われること。水車屋さんは大変だった。
昭和になって、共同製土所が出来てから、水車が次々と姿を消していくことになった。

この川登の水車も今から十数年前に動きをとめた。

一時は“水車銀座”と言われたこの流域なのだが、このままでは、この水車も姿を消すことにならないか。
所有者と地域、砥部焼関係団体、それに行政の力で水車小屋を整備保存し、もう一度動かすことはできないものだろうか。

所在地:伊予郡砥部町川登708
参考文献:IRC2005年7月「愛媛の近代化産業遺産を訪ねて、登山窯水車小屋」(黒田明良)
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木造アーチ橋「神の森大橋」(砥部町)
国道11号から砥部町の旧広田村へ、国道379号を走る。
道の駅「ひろた」の手前でいやでも目につくのが、この大きな橋だ。
「神の森大橋」。
木造ながら、20トン車が通れる日本でも珍しい丈夫なアーチ橋、デザイン的にも一見の価値ありなのだが、
残念、来年1月いっぱいの予定で塗装工事が行われていた。

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林業振興のシンボルとして、今から20年前の平成6年(1994)に旧広田村が造った。
長さ26メートル、幅5メートル。
スギ材で造られている。
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下の玉谷川は清流そのもの。
この橋が、神の森公園の入り口。ここから農村工芸体験館や道の駅ひろた・峡の館などの施設へとつながる。
新年には、また新しい装いでお出迎えしてくれるだろう。

所在地:伊予郡砥部町総津1786先

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