レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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<柳井訪問記 2>白壁の町並み。内子と比較してみた。
山口県柳井市には、国の伝統的建造物群保存地区になっている地区があり、“白壁の町並み”として観光ルートになっている。「古市金屋」地区といい、江戸中期から昭和初期にかけての白漆喰塗り大壁構造の商家が並ぶ。
江戸時代にタイムスリップしたような懐かしい光景。
エヒメの「内子町八日市護国」の保存地区と比較しながら見学した。

  DSCF2448.jpg
柳井は瀬戸内海交通の要衝として商業の栄えた町だ。
繁栄の象徴のように長さ約200メートルにわたって、白漆喰塗りの商家が並び、
文字通り白壁の町並みが形成されていた。石畳のような歩道が整備され、とても歩きやすい。
一帯が白壁で埋まり、「何か懐かしい」といいながら散策する人が多い。(町並みの軒先にぶら下がっているのは、柳井の名物「金魚ちょうちん」)

  DSCF2447.jpg
柳井には、町並みの中に江戸中期の豪商の家「国森家住宅」(国の重要文化財)がある。建物の内部も見学可能で、当時の商人の暮らしぶりを垣間見ることが出来る。
ただ外見上の建物に、特別変わったところがない。今風に言えば、町並みの中でのインパクトが弱い。
私的には、同じような白壁だけが単調に続くのはちょっと退屈。時には個性的な白壁の建物が欲しくなる。


  IMG_2909.jpg
                                               」
一方、上写真のこの建物は、内子の本芳我家住宅(国の重要文化財)。漆喰を使ったこて絵、懸魚(げぎょ)など上質な意匠が見られ、柳井よりちょっと豪華なつくりが、町並みの中にあるのだ。

町の性格にも違いがある。柳井は「商家町」で、内子は「製蝋町」。
商家は繁栄すれば建物の数が必要となって、自然と増えてくるもの。柳井には、町並みと隣接したところに面積800坪で国内最大級というすごい広さの商家(油商)もある。その建物を豪華に飾るか、質素に造るかは個人の資質や地域性が影響する。柳井はどちらかといえば、機能重視。建物の意匠にはあまり気を使っていない感じだ。

ところが、内子には上芳我邸や本芳我家のように木蝋生産で財をなし、その豪商ぶりを見せつけるかのような豪邸がある。それらが重要文化財指定となって町並みの中でアクセントを付け、格好の見どころになっている。

  DSCF2445.jpg
保存地区の面積は、柳井が1・78ヘクタールで、内子はその倍近い3・5ヘクタールある。内子は長さ600メートルの町並みに91棟が伝統的建造物に指定されているから、規模的にも内子が大きい。海運・商業で栄えた柳井に比べ、木蝋生産で全国有数の産地として栄えた内子は、規模でも、豪華さでも魅力にあふれているように感じるのは、伊予人のひいき目だろうか。

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<柳井訪問記 1>元周防銀行本店の洋館を見る。
ン十年前の学生時代のサークルの集まりで、山口県にいく機会があった。
ついでに現地の気になる建造物をスケッチした。

まず、山口県柳井市。
白壁の町並みは後日にして、まず魅せられたのがこの洋館、「元周防銀行本店」=現・町並みふれあい館=。
国の重要伝統的建造物群保存地区の入り口にあって、いやでも目につく。
明治40年(1907)の洋風建築として、銀行らしい重厚ないい雰囲気を出した作品だ。

  DSCF2443-001.jpg
素性もはっきりしている。設計したのは、佐藤節雄氏。明治期の銀行建築を数多く手がけた長野宇平治氏(日本建築士会初代会長)の高弟だった建築家。しっかりした基礎理論のもとに、当時としては本格的な洋風建築に仕上げている。

正面からのデザインも風格があると感心していたら、実はこの正面デザインにはミステリーが隠れていた。
それは、正面玄関の位置が今と完成時では違っていたというのだ。

今は左右対称のデザインで、落ち着いて見えるが、完成時は今より右側に入り口が設けられていた。
その証拠写真さえ残っている。
ひょっとしたら、大先生(?)の指示で、左右対称に改築したのだろうか。謎だ。
建物に明治の歴史秘話があるなんて楽しくなる。

  DSCF2434.jpg
もうひとつミステリーがある。
上の写真で山岡鉄舟の書の横に大きな金庫があるのがわかるだろうか。
なぜか金庫を隠すように、いろいろなモノが置いてあるので写真撮影が難しいのだが、そのアップ気味の写真が下。
金庫の扉が上下に2か所ある。上の扉は手の届かないような位置。
なんで2か所あるか、わかりますか。

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係員に質問してみた。
答えは、「金庫の中に閉じ込められた時の、脱出用が上の扉」。当時は中から開けられない構造だったため、金庫内に、はしごか脚立のようなものがあって緊急時には上の扉から脱出する仕組みだったのでは、と説明された。
やはり明治ですね。

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天井デザインとシャンデリア。いい仕事をしている。

  DSCF2436.jpg
当時そのままの階段。黒光りしてここも丁寧な仕事ぶりがわかる。

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この建物は、木造2階建て延べ347平方メートル。
今は1階が「町並み資料館」、2階が柳井市出身で、歌手の松島詩子さんの記念館になっている。

松島さんは昭和2,30年代の流行歌手だが、活躍時から半世紀余もたっているから、ご存知の方がどれほどいるか。松島さんの舞台衣装、ポスター、写真、愛用のピアノなど遺品の数々が展示されている。

所在地:柳井市金屋。(JR柳井駅から徒歩10分)
開館時間:10:00ー17:00(入場無料)
休館日:月曜と木曜(祝日の場合は翌日)、年末年始
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“伊予の左甚五郎”川中夏吉の目を見張るすごーい技/谷上山宝珠寺
江戸後期から大正初期にかけて、愛媛の社寺建築は長州大工が活躍するなかで、何人かの県人の宮大工が、独自の手腕を発揮している。
前回紹介した友澤弥三郎もそのうちの一人だが、さらにもう一人、本堂建築の異才がいる。
“伊予の左甚五郎”といわれた伊予市出身の川中夏吉(嘉永6年-大正13年)だ。
代表作は伊予市上吾川の谷上山宝珠寺(たがみさんほうしゅうじ)の本堂。
全国的に本堂建築には珍しい「四手先(よてさき)」のすごい組物(くみもの)を巧みに配置した。その美をじっくりご覧ください。

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組物とは、広辞苑によると、「建築物の柱上にあって軒を支える部分。斗(ます)と肘木(ひじき)とからなる。ますぐみ。斗栱(ときょう)」と記載されている。
寺社建築でよく見かけるモノで、屋根の荷重を分散して支え、柱に伝える役割を持つ。

よく見たらわかるが、壁面にある大斗上から肘木を突き出して斗をのせ、その上に平三斗(ひらみつど)をのせた構造。
壁面から斗が一個分前方に出ることを「一手先る」といい、一手出たところが「一手先」(出組ともいう)という。
これをさらに一手外に出して組むと、「二手先」、そこからまた一つ外に出すと「三手先」というように、呼ぶ。
三手先までが一般的で、「四手先」は、多宝塔などで例外的に使用されるという。
。(「四手先」以上になると、代表的な遺例は東大寺南大門、同大仏殿の「六手先」がある。これは大仏様式のモノに限られる。文献の中には「七手先」という記述があったので、七手のモノがあるのかもしれない。)

この四手先の技法を、川中夏吉が宝珠寺の本堂建築に使っている。また同時に独特の形状の尾垂木(おだるき)を4本突き出した意匠で、見る者を驚かせる。
(ある古建築専門のブログでは「本堂で四手先組物を持つのは、奈良市の喜光寺だけではないか」との記述がある。それだけ、希少な組物が四手先だ。)

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見てください、木造建築のこの緻密な構成の曲線が醸し出す美しさ。それに、手挟(たばさみ)という屋根下の部材には、拳鼻の上に獅子が乗り、その上を籠彫りの花々が飾るすごいデザイン。正面から見えないところにも手を抜かない職人の技が活きている。

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正面から見ても、組物のオンパレードに圧倒される。

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向拝の多彩な彫刻群。鳳凰や天女の舞、木鼻には向かい合う龍、それに籠彫りで波濤と鳥を描く。

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今の本堂は間口3間、奥行き5間、入母屋造り、向拝に軒唐破風。禅宗様式を基本としている。

宝珠寺は、真言宗智山派、京都智積院の末寺。天武天皇の時代、白鳳2年(673)の創建で、その後今日までに5回造営されている。
今の建築は棟梁・川中夏吉の手によって、明治25年(1892)に着手し、竣工したのは明治38年(1905)。13年がかりで改修された。
見事な本堂なのだが、昨春まで10年余りもシートがかけられ、改修工事が続けられていたから、意外とこの本堂をじっくり鑑賞した人は少ないかもしれない。もし、この“空白の10年間”がなければ、もっともっとこの建築が注目され、四手先の異色の本堂として脚光を浴びていたのではないかと思う。
谷上山ドライブを兼ねて、珍しい建築の美をぜひ鑑賞して欲しいと思う。

川中夏吉は、南伊予村下三谷(現・伊予市)の生まれ。宮大工の兄のもとで、建築や彫刻を学び、さらに京都や奈良に修行に出て寺社建築や彫刻の技を磨いて、帰郷。地元で寺社建築に取り組むとともに、多くの弟子を育てた。
代表作が、この宝珠寺本堂や伝宗寺薬師堂(同市下三谷)で、ともに伊予市有形文化財に指定されている。

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大正13年(1924)11月12日、71歳で死去。
没後十七回忌の昭和15年(1940)に弟子たちの手によって、円型の「工匠夏吉翁碑」が、華厳寺(伊予市下三谷)の墓地内に建立されている。碑文には「翁は若くして兄を師とし、工を習い、業を成し、弟子を育てた。生れつき堂宇建築を好み、また彫刻製図は巧みであった。宝珠寺本堂や県社伊予神社などはその作である」などと記されている。

宝珠寺所在地:伊予市上吾川1419。近くの谷上山は展望台があり、伊予灘までも眺望できる。

参考文献:「寺社建築の鑑賞基礎知識」(濱島正士、至文堂)、伊予市誌(伊予市)
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明治人の情熱/地元彫刻師が神社全面に見事な作品。(松山の日吉神社)
明治期は、長州大工の造った神社の多い愛媛県だが、どっこい、愛媛県人もいい仕事を残している。
松山市南梅本町の日吉神社本殿。小さな本殿だが、細やかな彫刻が建物一面を覆う特異なつくり。
この彫刻を彫ったのは、地元の彫刻師・友澤弥三郎だ。
特に、籠彫りの技法は精緻、巧妙。長州大工の作と比べて、勝るとも劣らず。
建物は、松山市有形文化財に指定されている。

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明治15年(1882)に旧中島町の棟梁・田中富次、その門人の高石源次が建物を担当し、彫刻を友澤が施した。
一間社流造で、軒唐破風のデザイン。三手先肘木の腰組を持つ構造は珍しい。

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木鼻には、龍と獅子。長州大工の荒々しく大胆な彫刻と比べると、雰囲気を異にする。
繊細で、実に丁寧な彫り。 これが友澤の特徴だ。

  DSCF0635.jpg
ぜひ見て欲しいのが、手挟みの部分。籠彫りの手の込んだ見事な作品だ。
枝や葉で、籠のように編んだ形、そこによく見ると鷹や獅子も描かれている。

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尾垂木にも細かな彫刻が施されている。

  DSCF0628.jpg
脇障子には、鶴の透かし彫り。

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板壁にレリーフ彫刻を大きく配置する本殿は、他の神社ではめったに見られないもの。
左側面に描かれているのが、「雲を呼ぶ龍虎」。
  
  DSCF0676.jpg
右側は一部で「猩猩」といわれるレリーフだが、猩猩にしては意味不明なデザインのように思え、正体不明だ。
なにはともあれ、板の壁ですませられるところを、全面に彫刻をした友澤は、この本殿に相当の思い入れを持って、魂を込めたと思える。そのわけは、友澤が北梅本町の出身で、自分の生まれた村のお宮に人一倍愛着があったのだろう。

なお、友澤はこの日吉神社本殿のほか、東温市上村275の船川神社本殿(東温市指定文化財)でも彫刻を担当している。明治12年完成の同神社、ここでも手挟みに友澤の籠彫りの力作を見ることが出来る。

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豪壮な煉瓦造りの樋門=小松大谷池(西条市小松町)
この大きな煉瓦造りの建物が、何かわかりますか。
これが樋門(ひもん)というもの。
「堤防を貫通して設置される暗渠」のことで、ため池などの流出水量をコントロールする施設。
ここは大正時代に築造された西条市小松町の大谷池。完成時には県下最大のため池だった。
その水量を操作してきた樋門は今、その役割を終えているが、往時の姿を誇らしげに見せている。
 
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翼壁を大きく広げ、2色の煉瓦を上手に使って、堂々たる樋門に仕上げている。

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右書きで「小松貯水池」と刻まれた銘板。4重の煉瓦でアーチを描き、中央には石の要石(キーストーン)を配置した。

全国的に見て、複数の樋門を組み合わせた連結式の樋門が国・県等の文化財になっているケースが多い。なかには10連のアーチ式樋門(熊本・八代、国の重要文化財)も現存する。
それらと比較すると、大谷池樋門は、単独の形体ながら、煉瓦アーチ型ではスケール的に大きな樋門で、全国でも数少ない。日本の近代化を支えた農業灌漑施設の遺構として貴重な存在といえよう。
土木学会の近代土木遺産に選定されているのも当然だろう。

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排水口のアーチの右側には「設計監督 技手小田切豊吉」、左側には「大正3年11月築造」の石の銘板が配置されている。設計監督者の名前が大きく刻まれるのは珍しい。
だが、これは、誇りとして刻んだのではなく、将来に対する責任の証しとして個人名を出したのではないかと思う。
この大谷池の築造には、下流住民から決壊に対する不安で反対の声が強かった。その住民に安全性を強調して説得したのが愛媛県土木技師の小田切豊吉だった。だから、池築造の技術責任者として樋門に名を残し、万が一の時に責任を一身に負う覚悟だったのではないか。勝手にそう思う。

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煉瓦は、一般的なイギリス積み(長手だけの段と小口だけの段を一段おきに積む方式)。
大正時代初期には、地元に煉瓦はなく、また技術者もいなかったため、大阪方面から煉瓦を運び、技術者も招いて築きあげたという。

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今の小松大谷池。向こう側に見える橋が、高速道。
平成12年から19年度まで県営防災ダム事業改修工事が行われ、このとき樋門が廃止になったという。
同22年から、新たな周辺環境整備事業が行われ、小松大谷池は今、四季の広場、遊ロード、くつろぎゾーンの3区にわかれて、憩いの広場になっている。
あまりにもきれいに整備され過ぎて、大谷池築造にまつわる先人の血と汗の労苦が伝わらないような気がする。
文化財級の樋門にしても、以前はあった排水路が無くなり、ポツンと佇むだけ。
樋門としての風情が感じられないのが残念だ。

この大谷池築造の歴史は、文献によって完成時期などに異なる記述がある。既に官製の資料は廃棄され、大正時代の大きな工事なのに事実がはっきりしない部分が出ている。その歴史書を出版していなかったことが悔やまれる。
正確と思われる“大谷池築造史”は、着工が大正3年(1914)2月6日。池の完成は大正6年(1917)3月。道路や水路、圃場等の整備を行い、全ての工事が完了したのは大正9年(1920)12月10日で、約7年がかりの工事だったというのが事実ではないかと思う。
樋門に「大正3年11月築造」とあるから、樋門自体はそのころに完成したか、完成予定だったと思われる。


参考文献:「愛媛温故紀行」えひめ地域政策研究センター(アトラス出版)、「小松町誌」(小松町)、「大谷池の築造と今井巻太郎翁」鴨重元(「愛媛の文化」No,32)、「愛媛の水をめぐる歴史」門田恭一郎(愛媛文化双書)、HP西条市「水の歴史館」、小松町文化財読本(町教委)、「愛媛の土地改良史」(愛媛県)

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手水鉢を支える石造の「亀」.。その正体に迫る./玉生八幡大神社(松前町)
先月は、手水鉢を支えるカエルの石像をご紹介した。
今回は、その第2弾!。今度は、「亀」が手水鉢を支えている。
ここは伊予郡松前町の玉生八幡(たもうはちまん)大神社。
ご覧ください。由緒のある古い手水鉢の四隅にいるのは、まぎれもなく「亀」。

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果たしてこの亀の正体はなんだろう。

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宮司は「普通の亀とは違う。空想上のモノ」という。
この神社と亀は、特別由来があるものではないそう。

中国神話や伝説で、亀のような生物といえば、四神の「玄武(げんぶ)」か、四霊の「霊亀(れいき)」が考えられる。

四神というのは、高松塚古墳(奈良・明日香村)の壁画報道の際に登場したから覚えている人も多いだろう。
天の四方をつかさどる霊獣を四神といい、東方を青竜、南は朱雀、西は白虎、北を玄武が守る。
玄武の姿というのが、一般的には“甲羅にヘビが巻きついている亀”なのだ。
この神社の手水鉢を支える亀のどこにもヘビがいないから、玄武ではないように思える。

そうなると、四霊(麒麟、鳳凰、霊亀、応龍)のうちの霊亀という伝説の生物か。
霊亀の姿は、“甲羅の上に蓬莱山と呼ばれる山を背負った巨大な亀”といわれる。
神社の亀の姿を見ると、甲羅の上にちょっとだけ山のようなものがある。
ただ、不老不死の仙人が住むという蓬莱山にはほど遠い形だから、霊亀にも疑問符がつく。

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推理ゲームは楽しいのだが、結局は、わからない。

中国神話の藪の中に入って迷っていたら、これはひょっとしたら単に「蓑亀(みのがめ)」ではないかと思えてきた。
浦島太郎でおなじみの藻の付着した亀だ。
背中に蓑を羽織ったように見えるから、蓑亀という。
こ難しい神話の世界ではなく、長寿の象徴として、蓑亀をデザインしたのでは-。
案外、これが制作者の考えだったのかもしれない。

所在地:愛媛県伊予郡松前町大字西古泉536

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あなたは松山に世捨て人のような「十円易者」がいたことを知っていますか。
覚えている方のほとんどは50歳代以上の方だろう。亡くなってからもう39年も経つ。
ただ、松山で昭和30,40年代に青春時代を過ごした人の大多数が記憶している(と思う)、市井の有名人だった。
彼の名を、村上桂山という。
  DSCF2069.jpg
(桂山の作品。意味深な句、詩がつづられる。「久米郷土誌」から転載)

ねじり鉢巻きに、着古した着物をまとい、リヤカーに載せた小屋のなかで占った。
見料は十円という安さ。そして薄墨で半紙に、軽妙な絵と自作の句や詩をかいて渡してくれた。
戦前から亡くなった昭和51年(1976)まで約40年間同じスタイルで営業した。
気ままな自由人とも、天衣無縫の禅僧詩人とも、乞食のような世捨て人とも、人は言う。
間違いなく、松山の「昭和の奇人」の一人と言っていいだろう。

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(松山市三番町2丁目の歩道上に建てられた桂山地蔵。三周忌の昭和53年、朝になったら、突然出現していた。実は、書家の故・鴻池楽斎氏らの桂山会メンバーが前夜、勝手に設置したもの。お役所への手続きをしていたら、いつ許可が出るか分からない、設置してしまえば地蔵を撤去する人はいないだろう、との企てだった。荒削りながら味のある地蔵。昔はもっと顔の輪郭が出ていたように思うのだが、)

桂山は、漂泊の俳人・種田山頭火(明治15年~昭和15年)とどこかダブりあうところがある。
ともに山口県の出身。2人とも仏門から各地へ放浪の旅に出て、終焉の地に選んだのも松山だった。
山頭火は歩き続けて俳句を極めようとしたが、桂山は、ただただ自分の心のままに生きた。
物もなく夢も希望もなけれども唯生きることこそ無上極楽」と、彼は詠む。

桂山は、明治38年(1905)2月25日山口県熊毛郡平生町で生まれた。15歳で僧侶になるための修行に入り、26歳から放浪の旅に出た。松山に来たのは昭和10年頃で、30歳になっていた。「十銭易者」(新円切り替えで28年から10円)として、昭和12年(1937)ごろの32歳でデビュー、以降、戦中の一時期を除き、71歳で死ぬまで、松山で街角の易者として敬愛された。山頭火ブームの起こったころには、それに乗る形で、フジテレビの「小川宏ショー」を皮切りに、全国のマスコミにも登場して、一躍脚光を浴びたこともあった。

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(地蔵の裏側には、彼の代表作「つらかろう おれも乞食を 五十年」が刻まれ、横には彼の命日、昭和51年11月18日も刻まれている。)

無欲恬淡、自然のままに生きた即興詩人・桂山の作品---。
捨てきれば さらりと涼し 秋の風」  「生きておれ 食うことのみが 人の道」
「みなうそよ しゃかも こうしも きりすとも」  「死なざれば 生まれた事が 偽になる」
「彼岸花 誰がいけたか辻地蔵」 「初恋や七十年もきのうきょう」

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(地蔵は、大街道から東へ約100メートルの三番町通りの歩道上にある。昔は地蔵の前に、「民芸の店えひめ」があって、その店主が桂山会のメンバーのお一人。地蔵のお世話もしていたが、久しぶりに現地を訪れて見ると、いつの間にか、店自体が無くなっていた。歳月の経過を痛感する)

私は学生時代に、ロープウエー街の東雲神社付近で桂山師にみてもらった記憶がある。汚い小屋に十円手相の看板があったような気がする。また、ある会合で70歳代の人に、十円易者を知っているか聞いたところ、「知っている。堀之内にいた。彼は半紙に、変な線を上と下に描いて、空と大地だという。下手な変な絵と思ったね」と、今でもはっきり覚えていた。

人によって出会った場所も様々なよう。彼が易を立てた場所は、戦前は一番町の裁判所付近、昭和30年代は裁判所横、堀之内公園入り口など。40年代には伊予銀行本店西側、歩行町の三原石油横に長くいたが、ほかにも三越横、旧競輪場、NHK前、市営球場、三番町通り、ロープウエー下などで、人々の悩みと向き合い、励ましてきた。占いはよく当たったという人が多く、折に触れてみてもらったというファンも。(活動場所については、中村幸男氏の調査による=「十円易者・村上桂山 三周忌を迎えて」)

今は、覚夢桂山居士となって、浄土寺に眠る。合掌。

*「乞食」という言葉は、差別用語で新聞等では使わない。が、ここは彼の代表的句にも使われているので使わせてもらう。だけど、最近は「乞食」というような人にはお目にかからない。ひょっとしたら、今の若者には「つらかろうおれも乞食を五十年」の句の意味合いが理解されないかもしれない。最近、物乞いで送検された事案(不起訴)があってびっくりだ。今は乞食をしたら罪になるんだ!。形の上では、日本は豊かな国になっている。

参考文献:「十円易者村上桂山三周忌を迎えて」(桂山会)、「十円易者村上桂山遺作展」(福岡正信著、主催:NHK四国本部、桂山さんを偲ぶ会)、「久米郷土誌」(久米公民館)

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週末は久万高原町で、「ひなまつりまち歩き」と「しだれざくら見物」はいかが。
花見と行楽の春が来た。
週末のプランをご検討の方に、久万高原町をお勧めする。
今は、商店街に6,000体もの、ひな人形を陳列した第1回の「くままち ひなまつり」が開催中。
それに、町指定天然記念物の法蓮寺しだれ桜が週末ごろに見頃。降り注ぐような桜花の舞をご鑑賞ください。

  DSCF2099.jpg
ひなまつりは、4月26日(日)まで。
長さにして500-600メートルの商店街通り沿いの各商店が思い思いのスタイルで、おひな様を展示。
まち歩きしながら、平安絵巻の世界に浸れる。

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特に、約3メートルの高さまでひな飾りを階段状に積み上げ、それをピラミッド状にした巨大ひな飾りは圧巻だ。
それがある「あけぼの座」(愛媛信用金庫のそば)がいわば拠点、ここに2,000体がズラリ並んでいる。
なかには明治時代の逸品も飾られていた。

  DSCF2116.jpg
町並みにこれだけの数が並ぶと見ごたえがある。
平日でも、夫婦連れや女子グループがあちこちを散策し、町がにぎわっていた。
古いおひな様を活用して、町おこしをしようと、企画した人はすばらしい。また、その思いを支え、協力している商店街の方々はさらにすばらしい。「くままち ひなまつり」がこれから長く続いて、さらに発展することを願う。

  DSCF2155.jpg
一方、これが法蓮寺(同町露峰1427)のしだれ桜。
樹齢は140年と推定される。高さ8メートルから、垂れ下がる見事なモノ。
訪問した3月31日はあいにく開花待ち状態だったが、その隣に、昭和60年に接ぎ木した若木は2分咲き。巨木も4月5日(日)ごろに見ごろを迎えるだろう。
ここへは道の駅「天空の郷さんさん」から車で約15分。

もし、時間に余裕のある方は、もうひとつのしだれ桜見物をお勧めする。それは同駅から車で45分の県境に近い、「西村大師堂のしだれ桜」(同町中津西村)。樹齢230年。これもまだほとんど開花していないが、5日(日)ごろには見ごろと予測される。しだれ以外にも付近にはサクラが多く、4月12日までさくらまつりが開催中。
3,4,5日は夜間ライトアップの予定。開花状況、イベント、地図などは、「中津大字会」のホームページでご確認ください。

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三坂道路が出来て、久万に行くのもすっかり楽になった。
「道の駅さんさん」も出来て格好の立ち寄りスポットになった。ここのお勧めは、レストランでのバイキングランチ税込1,000円。キノコご飯やヨモギうどんなど、山里らしい品もあって人気がある。ソフトクリームもおいしい。
また、インフォメーションの方がとても親切で好感が持てる。
その案内所の2階では、創作こけし展が開催中。現代の名工の作品など、独創的な作品が数々並び、目を楽しませる。

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