レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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100年余前の“和と洋”のすごい豪邸(旧五十崎町)
内子町平岡の香林寺の付近を歩いていたら、田んぼ越しに壮大なスケールの屋敷が見えてくる。
主屋の巨大な屋根が、冨と権威を誇るかのように、他を圧する迫力を持つ。
藩政時代の庄屋で、明治になっても豪農として栄えた「栗田家」の屋敷である。

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敷地を囲った塀の中央部に薬医門があり、そこを入ると「間口80尺(約24・2メートル)、梁間40尺(12・1メートル)」と言われる巨大な主屋がある。明治27年(1894)に長州大工の手によって着工、完成したのは明治29年9月で、約2年9カ月がかりの建築である。木造桟瓦葺き入母屋造り2階建て。建物の規模からも想像されるだろうが、10畳敷きの部屋だけでも5つもあり、材にしても贅を尽くしたものを採用していると言われる(内部は非公開)。

  IMG_3908.jpg
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主屋の右側にあるのが“白壁に漆喰、レンガを腰壁に使った“県下でも珍しい様式の蔵。なんと米千俵を収容するといい、これを「千俵蔵」と称している。窓にはひさしを設け、その屋根は瓦葺き、持ち送りに漆喰を塗っている。
レンガは明治維新の風とともに日本中に普及して行った。愛媛では明治20年代から建造物に使われ始め、30年代から建築に採用された。ここ内子(旧五十崎)の地に、いち早く洋風を取り入れたのが栗田家の建物でもあったのだ。

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さらにすごいレンガ建築が、正面からは見えずらいが、主屋の裏側にある。
これを「宝蔵」とか、「道具蔵」という。
イギリス積み(長手の段と小口の段を交互に積み上げていく)の建築。レンガの色が鮮やか。

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   (宝蔵の正面サイド)
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   (宝蔵の左側と裏側)
レンガ積みの2つの蔵は、大正初期の建築と推定されている。
なお、栗田家の建物は外部からのみ見学可。内部非公開。

所在地:内子町(旧五十崎町)平岡1964

参考文献:「愛媛温故紀行」(えひめ地域政策研究センター)アトラス出版、「愛媛県の近代和風建築」(愛媛県教委)

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建物もレトロ、昭和初期の薬局いまも営業中。珍しい「薬の看板」もいっぱい(内子町)
大変失礼ながら、店自体が“博物館”--。
建物も店内外もレトロ感にあふれた薬局が、内子町の平岡で、今も営業中だ。
「みせ薬局」という。
旧の五十崎町で、豊秋橋から直進100メートルぐらいの位置にある。

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建物は昭和初期のものと見られるが、この2階部分がとてもユニーク。
あまり見た事のないデザインだ。和洋折衷型で、新築時は周りの人を驚かせたことだろう。

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建物とともに貴重なのが、薬の木製看板が店頭や店内に10数枚も残されていること。
店の入り口の上には、ズラリと掲げられている。どれも右から左に読む戦前のタイプ。
こんなにたくさんあることは、みせ薬局が特約店や代理店として力があったことの証明だろう。

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店内にはこんなものも。「大学目薬」の金看板。
大学目薬は、サンテの目薬で知られる参天製薬が明治23年(1890)から発売し、いまも販売されている。この金看板は、参天製薬にも保存されていないと店主はいう。

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「オピール」、「安神湯」、「百毒下し」など、レトロな看板ばかりで、大学目薬以外さっぱり聞いたことがない。
製薬会社名にしても、高橋盛大堂薬局、小林大薬房、加藤翠松堂、富松武助薬房などピンとこない。
いずれも昭和初期のもののようで、今はもう薬も会社もないものとばかり思っていた。
ところが、ネットで調べてみるとびっくり。ほとんどの会社が今もあるのである。
たとえば、上写真中央の「百毒下し」(加藤翠松堂)。今は翠松堂製薬として和漢便秘薬「百毒下し」を販売している。

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この看板の高橋盛大堂薬局は、安政5年創業の老舗で、157年経った今も、盛大堂製薬として営業している。
企業の寿命はしばしば、30年といわれるが、これら製薬会社の寿命の長さには驚くばかり。

みせ薬局は現当主で3代目と言う。1世紀近い歴史持つ。1日でも長く営業を続けて欲しいものだ。

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今も残る天神村駐在所の建物。(内子町)
内子町で古い町並みが残っているのは、八日市・護国地区だけではない。
合併で内子町になった旧の五十崎町にも、古い建築物が各所に残っている。
なかでも、平岡地区には他所では見れない珍しい建物や、すごいスケールの豪農の屋敷など、ぜひ残してもらいたい近代化遺産がある。
平岡地区を巡る旅。まずは、洋風建築の天神村巡査駐在所

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平岡地区は、旧五十崎町の中心的場所にある。
たこ合戦で知られる豊秋橋を渡って、まっすぐ進み、香林寺へ向かっていたら、この建物が目に飛び込んでくる。
結構大きい。昭和2年(1927)の建築という。
なんと言っても、半切妻屋根(はかま腰屋根ともドイツ屋根とも言う)が、誇らしげ。
そして、浮彫彫刻の大きなメダリオンが人目を引く。いかにも洋風だ。

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玄関のひさしがだいぶ傷んでいるが、このひさしに昔は右から左への横書きで「天神村巡査駐在所」と書かれていた(その古い写真がネットにあるのを見た事がある)。
入り口に場違いの白いユリが咲いていた。さりげなく歓迎してくれたのだろうか。

天神村は、明治22年(1889)に誕生し、昭和29年(1954)に五十崎町、御祓村と合併し五十崎町になった。今も小学校などに天神の名前が残っている。五十崎町は平成17年(2005)に内子町と合併したが、合併後の新しい内子町役場は旧の五十崎町役場が採用され、ちょっと変わった事態も起こっている。今の役場があるのも、平岡地区である。

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ロマンにあふれる「白石の鼻」巨石群(松山市)
高さ7メートルもの巨石が、目の前の海に立つ。
松山市高浜6丁目にある「白石の鼻」巨石群のことだ。
自然の造形物か、それとも人工の古代遺跡か-謎がロマンを広げている。

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巨石群のなかでも、シンボル的存在なのがこの巨石で、三ッ石とか白龍石と呼ばれる。三ッ石といっても、大きな岩が3つではなく、5つで巧みに構成されている。
まるでムーアの彫刻のように組み合わさっている。岩と岩の間は隙間があったりして、見事な芸術品。

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見る角度によって、さまざまな表情を見せる三ッ石でもある。
この巨石、岩の中央部の隙間から、春分、秋分の前後数日間に夕陽が差し込むことが研究者によって解明された。これによってにわかにこの巨石群が古代の太陽観測装置ではないかと、古代遺跡説がクローズアップされるようになった。その後も人為的な造形物を裏付けるような研究が進んでいる。
ただ一方では、風化と波の浸食で、軟らかい砂岩が流れ、堅い花崗岩が残って積み重なった、という自然物説も依然根強い。

あまりにも大きな岩だから、それだけで神秘的。見ていたら、なにかを語りかけてくるような気がする。人工物か自然物か、この論争はロマンにあふれた話である。

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巨石群というように、巨石は海上の三ッ石だけでなく、岸辺にもあり、これは亀石という。

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写真では距離感が分かりにくいが、三ッ石は岸辺に建つ白石龍神社から、約40メートル沖にある。

白石の鼻は、松山観光港から運転免許センターへ行く途中の県道のカーブのところにある。右手の山側に駐車できる待避所があるが、カーブになっている県道の横断は危険で、特別の注意が必要。県道から下に降りる遊歩道が整備されており、海岸に降りることもできる。

なお、巨石群を調査研究している「松山・白石の鼻巨石群調査委員会」(仲矢文和代表)では、9月20日(日)に巨石群フェスティバルを開く。講演や研究発表、夕陽の観賞会、ミニライブなどがある。前売り2,000円。お問い合わせなどは、同委員会のホームページをご覧ください。

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伊予鉄高浜駅は正面ではなく裏側にすごいデザインが隠れている。
知っているだろうか、伊予鉄道高浜駅は、正面ではなく、裏側に美しいデザインが隠れていることを。
見てください。裏側から見た駅舎の姿がコレだ。

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専門家はアール・ヌーヴォー調のデザインと言う。木材を使って曲線のデザインを施している。
今の駅舎は高浜線が電化された昭和6年(1931)ごろに建てられた。
その時は、このデザインが正面側にも採用されていた。

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↑今の正面側からの撮影。肝心の部分がのっぺらぼうで、曲線の木材部分が消えている。
これは建物改修の際に、正面側の壁をそのまま上塗りしてしまったからだ。なぜこんなことに?。木材の傷みがひどいこともあって、この部分を取り外したのはいいが、元のような曲線の木材は制作しなかった。費用を節約したのではないかと思う。結果として特徴的デザインが正面からなくなり、乗客にはほとんど見ることのない裏側にだけ往時のデザインが残っているのだ。
2階部分は今、倉庫になっている。天井が低く、住居には適さないという。

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待合室の格天井もしゃれたデザインになっている。

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こんなところにも設計者の気配りがある。

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港・高浜。駅前の県道を渡れば、興居島や中島へのフェリー、高速船の桟橋がある。
高浜の町並みに駅舎が見事に溶け込んでいる。

伊予鉄道は、日本で2番目に民営鉄道を走らせたすごーい歴史を持った会社。
今から127年前の明治21年(1888)10月に、松山-三津間を開通させた。この路線が明治25年(1892)5月には高浜まで延伸され、高浜線となった。つまり伊予鉄道発祥の路線が高浜線なのだ。この時の高浜駅は、現在地より500メートル手前で、現在地に移転したのは明治38年(1905)1月のこと。今ある建物は、高浜駅舎はとしては「3代目」だ。

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伊予鉄のレトロ感あふれる駅名表示板が消えた。(高浜駅)
伊予鉄道のバスや電車がオレンジ色に次々と塗り変わっている。
今年5月に発表された「IYOTETSUチャレンジプロジェクト」によるもので、同時に駅の案内看板もデザインを一新、順次取り換えが進んでいる。
その波がとうとう、レトロ感あふれる駅舎として全国的にも知られる伊予鉄道・高浜駅にもやってきた。
駅名看板がこのほど、現代風のデザインのものに取り換えられてしまった。
昭和初期からあった元の看板のイメージが残っていて、まだまだなにか違和感がある感じだ。

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↓これが、元の看板(昨年2月撮影)。昭和初期に建てられた木造の駅舎にすっかり同化していた。
なにか、懐かしい気持ちにさせるものだったが、、。
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ところが、実はこの昔の看板、高浜駅で今も見ることが出来る。
北側の出入り口に残っているのだ。大きな字体で「高浜駅」、レトロな雰囲気にマッチしてますね。
(しかし、これも新デザインに交換予定というから、いつまで見れるかは??)
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この駅の見どころとしては、古いレールが柱代わりに使われて、プラットホーム上の屋根を支える点。
さらに、写真↓中央の部屋の入り口に架かっている看板、わかりますか。
「駅長STATION MASTER」。今回のチャレンジプロジェクトでは観光振興への対応として英語表記の推進が掲げられているが、ここではかなり前から英語表記を併用していたのだ。

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高浜駅は高浜線電車の終点のはずだが、駅名標↑には、次の行き先として松山観光港が表記されている。
よく見ると、実線ではなく破線で書かれている。今は、バスで観光港とは連絡されているのだが、電車の観光港への延伸はずっと眠っている夢の計画。果たして目覚めることはあるのだろうか。

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高浜港桟橋の真っ前にある。駅舎は、かなり大きな建物だ。
木造2階建てで、ドーマー窓も2か所あり、三角形の屋根が3つ並ぶ。
面白い設計の建物ではあるが、この正面側のデザインは、昔と今では違う“顔”を持っていた。
長くなるので、高浜駅舎のデザインは次回へ-。

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松山市北条には江戸末期の瓦製狛犬がいる。(荒魂神社)
瓦で造った狛犬を瓦の産地・菊間でたどってきたが、菊間以外にも瓦製狛犬がいる。
旧北条市の松山市善応寺185、荒魂(あらたま)神社。
ここの本殿前にいるのが、大きなどんぐり眼が特徴の狛犬。
江戸時代末期の由緒あるもので、身体に朱が塗られている珍しいタイプだ。

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本殿前で、今は立派な御影石の台座に乗っている。高さ約70センチ。

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向かって左側の吽形(うんぎょう)は、座っている瓦製台座の一角が破損している。

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右側の阿形(あぎょう)。どちらも、顔を直角に曲げて正面を向いている。
なんといっても目が、あの土偶の目のようにでかい。

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もうひとつ、ここの狛犬は朱で塗られていたようだ。今もところどころにその痕跡が残る。

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銘が刻まれている。
「文久3年(1863)9月吉日 氏子中」(阿形)、「世話人 石丸光治 細工 則門栄十良」(吽形)。
年号は、明治から、慶応、元治、文久、万延、安政とさかのぼっていく。
つまり文久は、江戸時代の末期。
北条では、藩政時代の初めに隣の菊間の影響で瓦製造が始まった。明治大正期には、県下で菊間に次ぐ瓦の産地になっていく。瓦は北条の大きな産業となっていた。このため、瓦関係者が瓦製狛犬を寄進したものと思われる。

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本殿床下に置かれているこの箱のようなものは何か?。
実は、これが平成19年7月に、御影石の台座に変わるまで、狛犬がずっと座っていた台座なのだ。
箱も朱塗りにして、狛犬との一体感を出していたもののようだ。

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新しい台座が出来た時、この箱型台座を捨てようとの話があったそうだ。
その時、古老から保存しておこうとの声が出て廃棄処分を免れた。
TVの「なんでも鑑定団」でもよく言われるが、箱は年代などの分かる貴重な品。この箱の内側には、制作年や制作者が記載されていたのだ。それによると、制作年は「慶応元年(1865)」、制作者名は「高市大工 鹿蔵」などが読み取れる。
時代の流れを推理すると、狛犬は奉納されてからしばらくの間、台座なしか、別の台座に鎮座していて、2年後にこの朱塗りの箱型台座に座るようになったようだ。

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風情のあるたたずまいを見せる荒魂神社。

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内子笹まつりは6-8日です。
四国を代表する七夕祭りとして知られる「内子笹まつり」が、8月6日(木)開幕した。
内子町の本町通り約500メートルに50本以上の笹飾りがぶら下がる。

8日(土)まで。7日(金)は午後7時から笹踊りが繰り広げられる。
(出遅れて、内子到着が遅くなってしまい、写真は光量不足で失敗作。我慢して見てください)

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親子連れらが、夕涼みを兼ねて訪れ、カラフルな笹飾りに「わぁ、きれい」。

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期間中は午前8時30分から午後10時まで、本町通りは歩行者天国となる。

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鳥獣戯画の大きな“壁画”。これがどのように作られているか。現地でじっくり見て欲しい。

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色とりどりの笹飾りが、通りをふさぐかのように垂れさがっている。

なお、会場周辺に無料駐車場がある(役場内子分庁、伊予鉄南予バス内子営業所、JAたいき、ショッパーズ内子店、内子自治センター、内子分庁第2駐車場)。町並み駐車場(有料)は午後6時まで。

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八幡神社の瓦製狛犬。鬼師「光野武三郎」を追って今治から堀江へ。
今治市菊間町で、瓦製の狛犬を訪ねる旅の第4弾。
私の調査では、菊間に現存する瓦製狛犬は4か所と思う。したがって、今回が、菊間編の最終回。

菊間町浜1363の八幡神社に行ってみた。入り口の鳥居前に、「八幡大神」と書かれた大石の立つ神社。
長い石段を上った所に、いぶし銀の狛犬が向かい合って出迎えてくれた。

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↑ 神社に向かって右側に、阿形の狛犬がにらみを利かす。

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↑ 左側には、吽(うん)形。修復の跡も痛々しいが、顔の迫力は大したもの。
前腕の筋肉の盛り上がり具合もいい。

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阿形の瓦製台座に刻まれている文から、この狛犬は江戸後期の天保9年(1838)に作られ、明治36年(1903)に再建されたようになっている。
そうなると、この狛犬は明治36年のものなのか?。もし明治のものなら文化財級と思われるが、、、。

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ところが、吽形の台座には「昭和27年秋」と刻まれていた。??
台座と狛犬が別々なのか、それとも、阿形と吽形で制作年が違うのか。

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制作年のカギを握るのが、阿形に刻まれている「細工 光野武三郎(みつの・ぶさぶろう)」という名前だ。
「光野」の名前は、菊間の“鬼師”として、代々続くビッグネーム。
5代目光野武七、6代目が光野松四郎(錦松)、7代目光野貫一郎、8代目光野公平、そして現在の9代目が光野幸士。
また、貫一郎の叔父に光野亀太郎がおり、荒神社などの狛犬を作った人物として知られる。6代目以降は錦松を名乗り、今も「錦松工房」という屋号で、鬼がわらや瓦の工芸品などを作っている。

が、「武三郎」という、名前はこれまで出版された各種史料に記載がない(私の調査の範囲ではだが、)。
この人物の活躍した時代がわかれば、昭和のモノか、明治のモノかが判明する。
錦松工房で、聞くしかない。

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   (石段を登り切ったところの注連柱のそばに、光野武三郎制作の瓦製狛犬が鎮座する)

壁面に大きな鬼がわらのある菊間町浜3-3の錦松工房を訪問、9代目光野錦松さんや家族の方に「武三郎」について尋ねてみた。
意外なことに、武三郎がどういう親族関係なのか、今の光野さん方ではよくわからない。
光野さんのお母さんが、関係者に電話でいろいろ聞いてくださった。それでも、武三郎を知る人がつかまらない。
分からないことが分かったと、おいとましようとしたときだった。

「あんた、武三郎さんのこと知っているの!」、お母さんの声が聞こえた。
電話を代わってもらい、電話の主で窯元の安永友喜さんから聞いた話は次の通りだ。
--菊間町浜の八幡様の狛犬は、武三郎さんが一対を作り、菊間の自分(安永友喜)の窯で焼き、奉納した。昭和27年のこと。寄進したのは安永卯喜右衛門さんと橋田○○さん。武三郎さんは松山市堀江の高橋さんの製瓦屋にいた鬼師。6代目錦松の兄弟ではないかという。
その時に古い狛犬があったかどうかはわからないと。

なるほど、寄進した安永さんの名前が台座にも彫られていた。
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一方、武三郎が働いていたという松山市堀江町の高橋さんの製瓦工場はもう20年も前に閉鎖され、工場跡にはアパートが建つ。
それでも武三郎さんについて断片的に知る人が、残っていた。

そのうちの一人が、乗松敏夫さん(松山市福角町)=昭和7年生まれ。
「自分が20代のころ、車で瓦を運ぶ仕事をしていて、その時、武三郎さんと知り合った。武三郎さんは相撲取りのように太っていて、私があった時はもう70歳ぐらいだったように思う(別の人は、70歳ではないだろうが、老けて見える人だったという)。家の棟上げ後には、よく一緒に酒を飲んだ。工場の一角に部屋があり、単身で赴任していた。鬼師だから、竹べらを持たせたら、それはもう細かい、いい仕事をしていた。名人だったね。堀江の民家の鬼瓦は武三郎さんのモノが多いのではと思う。彼の里は今治方面と聞いていたが、、」と、言う。
また、別の人は、武三郎さんは“流れ”の鬼師というのか、堀江地区の瓦業者数軒から、注文を取って、鬼を作っていたのではないか。作り始めたら泊まり込みだったという。

武三郎と一緒に働いた人の妻は、「武三郎さんは、盆のころに今治に帰り、その後再び堀江に帰ることがなかった。病気になっていたようで、まもなく亡くなったという話を聞いた」と。

↓これが武三郎さんの“遺作”とも言える龍の置物。
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乗松さん方の床の間には、武三郎が作って贈ってくれた龍の置物2点が今も残されていた。

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市井の職人の作品は顧みられることが少ない。狛犬や鬼、龍など身近にある品々にも、職人が心血を注いでいるモノが多い。
彼らの作品を再評価する時に来ている。

*取材にご協力いただいた菊間町の錦松工房、9代目光野錦松、安永友喜、松山市堀江町の高橋憲章、同市福角町の乗松敏夫の各氏とご家族の方に深く感謝申し上げます。

【訂正(2015,10,20)】本文で菊間の瓦製狛犬は4か所と表記していますが、1か所記載漏れがあり、5か所の誤りです。漏れているのは瓦製灯篭があることで知られる金刀比羅神社です。ここには、金婚記念として奉納されたもの(昭和20年)など、2対があります。さらに、池原神社(菊間町種)にもあるとの情報があります。ここが確認できれば、6か所になります。

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