レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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和霊神社の今と、“山家事件”の謎
久しぶりに宇和島に帰り、“和霊さん”付近をゆっくり歩いてみた。
こどものころとは、違う目線で様々なモノが気になったりする。
まずは、大きな鳥居。高さは約13メートル。石造では日本一の大きさという。
松山の護国神社の鳥居も大きいと思ったが、和霊神社で鳥居を見上げたら確かにこれはでかいと実感した。

  DSCF3450.jpg
(堂々たる大鳥居。太鼓橋の「神幸橋」を渡ったところに、随神門がある)
  DSCF3456-004.jpg
(鳥居の裏側には「昭和13年10月建之」と刻まれている)

DSCF3439.jpg
随神門前の須賀川に架かるのが「神幸橋(みゆきはし)」という充腹コンクリートアーチ橋。
昭和7年(1932)竣功で、長さは28メートル。
太平洋戦争の空襲で、和霊神社の本殿など大部分は焼失したが、この橋は一部被害を受けながらも美しいアーチを今も残している。床面に焼夷弾の跡があると言われるが、床は傷みが目立ち、どれが戦時中の傷かは分からなくなっていた。

DSCF3467.jpg
橋の擬宝珠(ぎぼし)には、「山頼社」の文字や、釘抜き紋などが彫られているが、わかるだろうか。(釘抜き紋とは、菱形の模様)
山頼社とは、ここの主祭神が宇和島藩家老・山家清兵衛公頼(やんべせいべいきんより)で、藩主・秀宗が承応2年(1653)に創建した時の社号は「山頼(やまより)和霊神社」だったため、当初は山頼社といわれ、時代とともに和霊神社に変わっていった。

昔は何とも思わなかったが、今考えてみると、一家老が神様になるのはちょっと不思議に思える。だいたい、神様とは天照大御神とか八幡宮、宇和津彦神などやたら読みにくい漢字が連なる、神話の世界がぴったりの方々のような気がする。不思議がっていたら、日本では個人が神様になるのはままあることのよう。その代表格が菅原道真。“無実の罪”で大宰府へ左遷され、その2年後に死亡した。その後に天変地異が多発したことから、道真の怨霊による祟り(たたり)と言われ、北野天満宮に祭られることになったのである。墓所は太宰府天満宮となり、天神信仰は全国に広がって、学問の神様になっていった。

山家清兵衛の場合も、同様だ。藩政改革の途上で、清兵衛は惨殺され、その死後、加害者が変死したり、天災が多発したことから、清兵衛の祟りと慄き、霊を鎮静化するため、神社に祀り込めたと言われる。その後、和霊神社の和霊信仰は中四国、九州を中心に広がり、今では仙台や大阪も含めて全国150箇所以上に和霊神社の分霊社があるのである。

DSCF3487.jpg
(本殿は昭和26年に復旧された。ブロンズ製の狛犬一対が本殿前に安置されている。井関農機創業者の井関邦三郎による奉納である)

“山家事件”とか“和霊騒動”といわれるのが、山家清兵衛一家惨殺事件。自分が子供のころは、敵対していた重臣の桜田玄蕃一派の陰謀と言われていたように思う。悪役の桜田が善政を行おうとした山家を殺害したという風に覚えていた。ところが、現在では、藩主・秀宗の密命によって上意討ちされたというのが定説になっている。桜田さん、ごめんなさいだ。

空襲で古文書が焼失した関係で、“山家事件”の全容は解明されることなく、今も謎が多いままだ。さまざまな伝承があり、またこの事件を題材にした芝居が中四国内に広がってフィクションの味付けがなされていった。殺害場所ひとつをとっても、松山説があって「山家清兵衛は、三津浜の難波屋の離れ座敷で蚊帳をつって寝ていて、蚊帳の四隅を切られて蚊帳ぐるみにして殺された」と、今治地方ではまことしやかに伝えられている。

史実としてほぼ間違いないといわれるのは、元和6年(1620)6月30日夜、宇和島市丸之内の現・和霊神社の場所にあった山家の自宅で、当時42歳の清兵衛が殺害されたほか、二男、三男ら数人も惨殺されたということ。事件後藩主・秀宗の夫人の3回忌法要の場で、寺の本堂の梁が落ちて、清兵衛と対立していた桜田玄蕃が圧死。さらに、事件の関係者が海難や落雷で次々に変死したことから、人々は清兵衛の怨霊の祟りと恐れたという。確かにドラマになる要素がいっぱいある。事件は、謎が残るから面白いと言えそう。

下写真は随神門に掲げられている大きさ日本一の鼻高面とお多福面。比較物がないと大きさが分からないが、ざっと1・5メートルぐらいの大きさだ。
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お多福面はちょっと怖い。
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375平方メートルもの大きな参籠所。その下には、城郭にあるような見事な石垣。さらに上部は「和霊の森」と言う常緑広葉樹の社叢(市指定天然記念物)。山頂には「鎌の江城」と呼ぶ中世の城跡があり、石垣はこの城の名残との説もある。
DSCF3463.jpg
参考文献:「三島信仰と和霊信仰・民間信仰」(佐々木正興、愛媛県史民俗別刷)、「愛媛県神社誌」(愛媛県神社庁)、「山家清兵衛公頼と和霊信仰」(三好昌文、季刊えひめ第6号)
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