レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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松山市の太鼓橋エレジー
今と昔、下の写真で光景を見比べて欲しい。
ここは、松山市御幸の龍泰寺前の大川に架かる太鼓橋。
一本石の積み重ねという珍しい石造アーチ橋が、今は無残な姿となっている。
文化財保護と日常生活ー、昔から言われてきた問題がここにもある。

<昔>
EPSON001-001.jpg
<今>
IMG_2933.jpg

 昔といっても、今の姿になったのが平成19年のことだから、たったの6年ほど前のこと。それ以前の太鼓橋の姿は、なによりも美しかった。昔の写真を見て欲しい。半円の上部が平らな路面よりこんもりと盛り上がっている。アーチが側面からくっきりと見え、光線によって川面にも投影される。この橋があるだけで、寺の多いこの町に落ち着いた静かな雰囲気を醸し出していたのだ。

 もちろん、単に美しいだけではない。全国的にも珍しい形式、構造を持つアーチ石橋なのだ。一つには、橋の幅は1.86メートルなのだが、それが幅いっぱいの長い石を並べる形で、構成されていること。この橋幅一本石の橋は全国に他2例しかない(島根・石見銀山五百羅漢橋、広島・縮景園跨虹橋)。

 また、特徴としては、①材質が堅い花崗岩(広島・倉橋島産)を使っていること。石橋の多い九州では、安山岩、沖縄では石灰岩が主体でいずれも軟質。花崗岩を使っているアーチ橋は全国で数例しかない。②勾欄(こうらん=欄干のこと)がない。③アーチ橋の頂上部が平面から露出していること。=上記昔の写真参照。時代を遡るほど露出度が大きく、こんもりと盛り上がっていたという。④水面下にもアーチがあり、全円形状になっているとの伝承がある。(ただ、この点は、掘り返し調査をしたわけではないが、可能性は薄いとみられている)。

 橋の全体像を記しておくと、長さは3.2メートル、幅1.86メートル、アーチの内径3.38メートル、同外径3.67メートルのこじんまりとした橋で、車で走っていたら見逃してしまうほど。龍泰寺の所有。

 これだけの貴重な橋と思われるのに今、文化財としての脚光を浴びることもなく、自身の本来の美しい姿を皆に見せることもなくなっている。こんな悲しい橋になったのには、当然ながら理由がある。

 松山市の文化財に指定してはどうかの話は、今から32年前、昭和56年(1981)にあった。龍泰寺の総代から松山市教育委員会に文化財指定の提議がなされた。それから1年がかりで審議が続けられたが、その最終結論は「見送り」だった。なぜ、文化財指定に至らなかったのか。

 文化財指定の大きな壁になったのは、①建造時期がはっきりしないこと②生活道として使われている③水害の原因のひとつになる可能性があるーーだった。

 この太鼓橋については、これまで、「元禄11年(1698)の築造」と記載されたものが多い。これは龍泰寺に言い伝えられていたもの。龍泰寺が現在地に建立されたときが元禄11年で、この橋も同時にできていたというのである。ただこれを裏付けるものがないのが最大の悲劇の始まり。同寺は太平洋戦争の空襲で全焼し、古文書もすべて焼失して消え去っている。

 元禄説をフォローするものとしては、2説がある。まず、①初代松山藩主の松平定行が長崎探題時代に習得した技術を持ち帰って、造られたとの説がある。確かに長崎に行っていた事実はあるが、松山に帰ってから50年後に太鼓橋を造った計算になり、ちょっと不自然か。②龍泰寺の隣に黄檗宗・千秋寺があり、この寺は中国の高僧即非の勧請開山で、中国風の伽藍を造った大工職人が、アーチ橋の技術を持っていて、交流のあった龍泰寺前に太鼓橋を造った可能性がある、との説。ただ、①と②のどちらも、断定するだけの裏付けがない。

 というよりも、逆に元禄説を否定する研究がある(河合勤「龍泰寺の太鼓橋について」伊予史談)。一つは、長崎はアーチ橋建造技術を域外に出さなかったといわれ、技法的にも、九州のモノとこの太鼓橋では違いがあるという。

 もし、元禄説が裏付けられれば、画期的なことになる。なぜなら、四国には江戸時代のアーチ橋は確認されていないし、前記の五百羅漢橋より数十年、縮景園跨虹橋よりも80年以上古い橋が松山にあったことになる。確定すれば、間違いなく国レベルの文化財指定だ。

 それに、橋の頂上部が露出している点や壁石が乱れ積みという独特の形式をもつことから、ひょっとしたら松山地方か瀬戸内の石工がアーチ理論を学んで独自に造り上げた可能性もある。結局、出生の秘密はわからないが、謎がいっぱい残るロマンのある話だ。どなたか、本格的な研究してみては、どうだろうか。

 また、文化財指定の壁になったのが、この橋が生活に使われていること。文化財指定申請がでた昭和56年の3年ほど前に、橋の東側にコンクリート橋を継ぎ足し、自動車等の利便を図っていたのだ。このコンクリートをはがす必要がある。そうすると、自動車の通る橋を新しく架けなければならない。ところが、龍泰寺の参道は狭く、太鼓橋の位置が中途半端で、架橋場所がないのである。太鼓橋ができた当時は、歩行者の通る橋であって、自動車が通ることは想定していなかった。それに、この橋が川幅を狭めているから、水害の恐れがある。一部には撤去をしろとの声もあり、松山市文化財指定専門委員会は文化財指定が水害を招くことを恐れ、県の河川改修の方向を見守ろうとの空気が強まり、文化財指定を見送ったのだ。移築案も含め、経過を見守ることで今日を迎えている。

 その後、平成19年には、龍泰寺の本殿新築工事が始まり、その工事車両を通すため、太鼓橋をコンクリートで固め、今のようなさびしい姿になってしまったのだが、これから先、周辺環境に、なにが起こるかは分からない。いつの日か、いつの日か、昔の太鼓橋が美しい姿で蘇ることがあるといいのだが、、、。


参考文献:河合勤「龍泰寺の太鼓橋について」伊予史談265号昭和62年4月、愛媛新聞「アーチ文化と松山・太鼓橋」昭和57年3月2日~6日、「土木遺産 日本編Ⅲ」ダイヤモンド社、山野芳幸「道後・城北界隈はええとこぞなもし」エーシー、松山市立清水小学校「清水の里」。
取材協力:龍泰寺の舛田道子さん、昔の写真提供:清水公民館
写真撮影:平成25年3月14日
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