レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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山根グラウンドの観覧席と、鷲尾勘解治のすごい生きざま(新居浜)
グラウンドの観覧席が登録文化財になっているのは、全国的にも珍しい。

その例が、昭和3年(1928)に完成した新居浜市角野新田町の山根グラウンドの観覧席。
長さは約170メートル、最大27段の階段式の石積みとなっており、収容人員3万人ものスケール。
特筆すべきは、これが住友従業員の労働奉仕で出来上がったことだ。
住友に限らず社員に今、このような造成作業への労働奉仕を呼び掛けたら、果たしてどれだけの社員が集まるだろうか。

  DSCF0308-001.jpg
この労働奉仕は、作務(さむ)と呼ばれた。作務とは?。ファッションに詳しい人は作務衣(さむえ)という着衣を思い出し、作務という言葉に気がつく人もいるだろう。作務衣とは、もともと禅宗の僧侶が雑事(作務)をするときに着たもの。簡単に言うと、作務とは禅宗の考え方に裏付けられた労働奉仕のこと。

この作務を指揮したのは、前年の昭和2年に住友別子鉱山(株)の最高責任者となった鷲尾勘解治(わしお・かげじ)だった。
別子銅山の近代化に貢献した広瀬宰平、伊庭貞剛とともに“別子三翁”の一人に挙げられる鷲尾は、異色中の異色の企業人といえる。

まず、その経歴。熊本第五高等学校や京都帝国大学の在学中に寺に住み込んで禅修行に励み、住友入社に当たって、大徳寺の芳春院住職・菅広州老師から受けた「下情を調べて、働くものの立場を理解し、労使協調の実を上げ、共存共栄を図れ」との教えを持ち続け、この“上下円融思想”をとことん実践しようとしたのが鷲尾だった。
それゆえ、入社後には、第一期の定期採用学卒組(文系)でありながら、生野鉱山で2か月坑内労働を体験、更に別子に来てからは希望して2年間も一坑夫となって、労働者とともに働いた。
“学士坑夫”-、こんな新入社員なんて鷲尾以外にいるわけがない。

  DSCF4724.jpg
(鷲尾の指揮で作務によって造られた山根グラウンドと観覧席、今でも新居浜太鼓祭りの代表的な統一かきくらべの会場としても親しまれ、市内外から数万人の人が訪れる。=平成26年10月17日撮影)

鷲尾は別子鉱業所の副支配人兼労働課長になり、別子大争議の解決に取り組み、昭和2年に住友別子鉱山(株)の最高責任者に栄進する。
近代的な労務管理を取り込んだ大きな功績もあるのだが、鷲尾の真骨頂は別子銅山の鉱脈が尽きる事を見越して打ち出した「新居浜の後栄策」という取り組みだ。企業人として異色中の異色というのはこれだ。

「(住友の)工場だけを改良したところで、地方全体がこれに適するようにならねば決して事業は起こるものではない。工業都市たるには、まず交通機関が第一に必要であって、ここ(新居浜)においては築港と道路をまず整備せねばならんのです」。これが基本政策。まさに、鷲尾は一企業人でありながら、都市計画を実現しようとした。

新居浜のための策として①築港によって港を改修、大型船の出入りを可能にする②埋め立てで工場敷地を確保する③化学工業の拡張④機械工業を起こす⑤大都市計画を樹立する⑥市民に企業者と共存共栄の思想を涵養する-の6項目を上げている。
しかし、住友本社が正式に許可したのは築港計画だけだった。当時の住友幹部は「銅山がだめになれば、大阪に引き揚げればいい」との考えが強く、地方の活性化や都市計画なんかは、眼中になかった。

鷲尾のすごいところは、それでも強引に自説を推進したことだ。
なんと、鷲尾は、残る後栄策を住友別子鉱山の資金力と従業員の“作務”で実現しようとした。
この作務でまず行われたのが、山根の土俵やグラウンド観覧席の造成。このあとも、同グラウンドの400メートルトラックの整備、角野小学校校地拡張、昭和通りの拡張工事と続いていった。

昭和通りの拡張は、当初幅員8間(約14・6メートル)の構想だったが、県は「4間幅にせよ」と反対した。鷲尾は当時の新居浜町長・白石誉二郎と協議して、両方の間を取って、6間幅(約11メートル)と決めた。工事費は住友別子鉱山が出し、土地の買収費は町が出した。地元民は「田んぼの中にそんな広い道を作ってどうする!」と、あきれたという。しかし、もっと広くしていたら-今は誰もがそう思う。

作務について、鷲尾は自伝の中で次のように書いている。「私は見性寺2年、芳春院で3年、都合5年間禅寺の小僧をして、和尚様とともに作務をしたが、作務ほど清々しいものはなかった」「私が常務取締役として別子銅山の責任者となるや、新居浜方面でも作務をすることにした。-毎日曜日に朝十時ごろから始め、昼食には一同握り飯をかじって午後3時ごろに散会するのである。私はいつも参会して皆とともに作務をした。毎回約200名余りが集まって楽しく元気に作務を行った。実に新居浜の若い労働者の意気は盛んで、新居浜新都市建設に向かって頼もしい意気を昂揚したものであった」

こんな鷲尾に対し、住友本社の評価は厳しいものとなっていった。独断専行と批判する。分かるような気がする。行政がすべきことを、企業が金を出してする。今なら、株主代表訴訟を起こされかねないのではないか。

昭和6年2月、辞令が出た。「本社常務理事に」。一見、栄転のようだが、実は閑職。住友は、体よく新居浜からの転出を命じたのだ。
昭和7年2月に欧州商工業視察を命じられた。1年半の予定だったが、昭和7年4月4日付の辞令が追いかけてきた。「常務理事ヲ免ス」。昭和8年12月住友合資会社を依願退職する。51歳だった。
その後は必ずしも安楽な生活ではなかったと思われるが、新居浜に戻った昭和28年8月以降は教育者として心豊かな日々を送った。産業振興や教育文化振興、社会教育功労により、愛媛新聞社賞、県教育文化賞、勲5等瑞宝章を受賞(章)。昭和56年4月、101歳で天寿を全うした。

“別子の3翁”といわれる広瀬、伊庭、鷲尾。3人それぞれ生き方や考え方は個性的でドラマチック。結果から振り返ると「もしも、あの時にこうしていれば」と思うこともあるが、それが出来なかったのはやはり人間だからだろう。

参考文献:「鷲尾勘解治自伝」(益友会)、「ドキュメント住友城下町 混沌」(結城三郎、ダイヤモンド社)、「明治期の別子 そして住友」(藤本鉄雄、お茶の水書房)

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