レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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伊予鉄横河原線「小野川橋梁」のプレートと明治の人脈ロマン
伊予鉄道横河原線の小野川橋梁に行ってきた。ここで、ぜひとも見たいものがあったからだ。
それは、小さな鉄製のプレート。
製造年とメーカー名が刻まれているというが、これがまた、謎を秘めたプレートといわれるもの。
近代化遺産に関心のある人は、実物をいやでも見ておきたくなる代物だ。

  DSCF0574.jpg
プレートは一体どこにある。
まず橋のたもとに近いところから下の桁を見ていたら、「アッ、あれだ」。
あまり迷うことなく、簡単に発見できた。

ペイントが盛られていて、ちょっと判読しにくいが、「明治32年 阪鶴鉄道 汽車課工場製造」と刻まれているのがわかる。
明治32年とは、1899年。今から115年の前のスティール桁が現役として使われているのだ。
桁は3つに分割されていて、それが2つの橋脚に乗る形で造られている。その3つのどれにも、同じプレートが付けられていた。
  DSCF0559.jpg
  DSCF0561.jpg
謎といわれるのが、なんで「阪鶴鉄道」製造のスティール桁が、ここにあるのか?。
阪鶴鉄道というのは、商都・大阪と軍港・舞鶴を結ぼうと、明治26年(1893)に大阪の財界人主体で計画された。その2年後の創立総会で社長に土居通夫(宇和島出身)、取締役の1人に池田貫兵衛(大洲・新谷出身)が選出されている。
土居は22年間も大阪商工会議所会頭をつとめた大阪財界の代表格、池田は神戸電灯の社長など、10社以上の会社役員をする神戸を代表する実業家だった。よくも、こんな“大物”が愛媛から出ていたとは、である。(余談ながら、今も大洲市新谷に残る池田貫兵衛の間口100メートルもに及ぶ豪邸は、明治期の池田の“財”を物語っている)。

阪鶴鉄道は、紆余曲折があり、明治32年(1899)までに神埼(尼崎)-宝塚-福知山間が開通している。
伊予鉄横河原線の平井河原(のちに平井)から横河原までの延長に仮免許が出たのが、明治31年9月。プレートにある明治32年に横河原までの全線開通がなされている。(全線開通は同年10月)。

この当時の伊予鉄側の人物は、創業社長の小林信近(松山出身)、2代目社長・古畑寅造(第七十九銀行頭取、明治34年取り付け騒ぎで破たん)、専務でのち第3代社長になる井上要(大洲・菅田出身)。

これら同郷の人脈ネットワークによって、橋桁が伊予鉄に来た可能性が考えられる。

  DSCF0567.jpg
         (橋脚には、石積みと煉瓦積みが併用されている)
伊予鉄にはかなりの史料が残っているのだが、残念ながらこの橋桁の購入記録は見つけることが出来なかった。
となると、推論しかない。
上記のように、すごい綺羅星のような人脈説にしておくのが明治的ロマンを感じさせ、いいのではないかと思う。
阪鶴鉄道は、鉄道国有化問題も絡んで、路線も動いたから、余材が出た可能性もあり、伊予鉄の「小林か古畑、井上」が阪鶴の「池田か土居」と交渉して入手したことにー。いや、いや単にスティール桁の実績のある阪鶴鉄道にビジネスとして独自に発注したのかもしれないけど。

明治はすっかり、遠くなった。勝手に推論していたら、これら関係者が笑っているような気がする。

参考文献:愛媛温故紀行(財・えひめ地域政策研究センター)
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