レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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もし終戦が3カ月遅れていたら!!
<終戦特別版>
あなたは知っているだろうか。
あと3か月終戦が遅れていたら、この四国が地上戦の舞台になっていた。その可能性が高かったことをー。
沖縄のような悲惨な戦いが、まず高知、愛媛で繰り広げられたかもしれないのだ。
目前に迫っていた“本土決戦”、今になってわかる緊迫した日米両国の戦略。
終戦記念日を前に、昭和20年にタイムスリップして、今の平和を考えてみるのもいいだろう。

    DSCF0318.jpg
(米軍は20年11月1日に九州3か所に一斉上陸、その2日前の10月30日に陽動作戦として四国南部への上陸作戦を考えていた) 

 昭和16年(1941)12月8日ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。日本軍は当初優勢に戦いを進めたのだが、昭和17年(1942)6月のミッドウエー海戦の敗北で潮目が変わっていく。以後、ガダルカナル、サイパンと、日本の敗色が濃厚となっていくのである。そして、昭和20年(1945)3月から、結果として日米最後の大規模戦闘となった沖縄戦に突入していく。

 本土も昭和19年11月から米軍機による爆撃が始まっていた。軍需工場、港湾への攻撃から始まり、翌20年3月には東京大空襲に代表されるように大都市や航空基地への空襲、そして6月からは中小都市へ空襲が本格化していく。愛媛県下でも7月に松山や宇和島にB29の焼夷弾が雨のように降り注ぎ、多くの犠牲者が出ていた。

<アメリカの攻撃戦略> 
 そんな状況下、アメリカは、日本本土侵攻作戦を策定した。昭和20年5月25日の統合幕僚長会議で最終プランが決定され、6月29日には大統領も承認した。全体の作戦名は「ダウンフォール(滅亡)作戦」という。その中身は2つの作戦によって構成されていた。まず一つは、オリンピック作戦と名前を付けた昭和20年(1945)11月1日開始の九州南部への上陸作戦であり、もう一つは昭和21年3月1日開始の関東上陸作戦で、これはコロネット作戦と命名されていた。

 九州に上陸してアメリカが狙ったのは、本土での決戦を援護するための空軍基地を手に入れること。11月1日を期して、宮崎海岸、志布志湾、吹上浜海岸の3か所を一斉に同時攻撃して上陸を図る。それぞれ3個師団を投入して、というから1か所12万もの兵力で一気に九州南部を占領する構想だった。

 この九州上陸作戦の前に10月27日、薩摩半島西方の甑島(こしきじま)列島を占領。さらに陽動作戦として10月30日開始で計画されたのが、四国上陸作戦だった。四国南部に2個師団(8万人)を上陸させようとしたのだ。

 なぜ四国を狙ったか。アメリカの深謀遠慮がそこにある。つまり、四国を攻めれば、日本は近畿、中国路から海路、援軍を四国に送り込むだろう。そこで、アメリカはその援軍を海上で撃破して、日本の戦力を削ぐとともに、目を四国に向けさせておいて、一気に九州南部に攻め入る戦略だったのだ。

<日本の防衛戦略>
 とかく日本は、情報戦でさっぱりだったと言われているが、おっとどっこい、この時点になって日本はアメリカの戦略を大筋でつかんでいた。「米軍が本土に侵攻してくる時期は、昭和20年秋」と予測。「上陸地点は、南九州そして関東沿岸」、また上陸予想兵力においても、米軍の構想とほぼ同じようにはじいていた。さらには、四国に関して「九州攻撃に先行もしくは並行して四国を攻撃する算段大」と、四国上陸も予想していた。

 日本は持てる力のすべてを結集してアメリカ中心の連合軍を迎え撃つ、防衛戦略を立てた。すべてを決するとの強い意気込みで、これを「決号作戦」という。まず兵力を補うため、満州や北方からの部隊転用を図るとともに、根こそぎ動員が一次から三次の3回に分けて行われ、必要な部隊を新編、充足するとともに防御陣地の構築や特攻を含む戦闘訓練に力を注いだ。

 四国はどんな防衛態勢だったか。
 四国防衛軍となったのは、司令本部を高知県高岡郡新改村(現・土佐山田町)に置く第55軍(司令官・原田熊吉中将)だった。その下に“剣山部隊”といわれた歩兵第344師団があり、ここが四国の西南部を守る部隊。そして、愛媛関係分に絞ると、その下部に本部・八幡浜の歩兵第352連隊が配置され、その連隊につながる3つの大隊が南予に配備された。連隊本部と第一大隊は八幡浜を拠点とし、第二大隊は宇和島、第三大隊は吉野生村吉野(現・松野町。後に拠点は高知県蕨岡・現四万十市に移動)を本拠にしていた。大隊兵員は、それぞれ2,883人となっていた。

 各大隊がなにをしていたか。おそらく軍事訓練が中心だったのではないかと想像するが、第三大隊の行動について、最近興味深い研究が発表されている。それは、矢野和泉氏(「松野町戦時遺構調査会」代表)の「松野町の戦時遺構調査と研究」である。

 矢野氏らの現地調査や聞き取り調査で、終戦間際の昭和20年7月ごろ、第三大隊が松野町でなにをしていたかが解明されている。大隊のうちかなりの人数は、アメリカ軍の侵攻に備えて、塹壕掘りに明け暮れていたのだ。
<塹壕とは、「野戦で敵の攻撃から身を隠す防御施設。溝を掘り、その土を前に積み上げたもの」(広辞苑)>
     DSCF0322.jpg
            (観福寺裏山の塹壕は傾斜を利用して構築されている)
 大隊が松野町にいたのは、6月25日から7月末までのわずか、1カ月程度。町内の学校、神社、寺、民家に2千8百人余が分散して駐留して、人海戦術で集中的に塹壕掘りに打ち込んだ。矢野氏らの現地確認作業で、これまでに4か所の塹壕を確認。さらに証言からもう1か所あったことがわかってきた。所在地をリストアップすると、吉野地区の①観福寺裏山②土佐越③鳥居(安西氏所有山林)④伊井公園、それに富岡地区の⑤富岡久米地ーの5か所である。
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             (竹林の中に約20メートルの塹壕の跡が残る)
 戦後68年も経過しているだけに、雑草や雑木などに覆われ、崩れも目立って元の完全な姿では残っていないが、中には長さ30メートル、幅1・5メートル、深さ1メートル、途中幅1メートルの洞窟が残っている塹壕もあった。これら塹壕で、土佐湾に上陸し県境から松野に侵攻してくるアメリカ軍を迎撃する態勢を整えようとしていた。しかし、この塹壕はほとんどが未完成のまま、放置されたとみられている。完成させるゆとりがもう残されていなかったのだ。沖縄が占領されたことから、本土決戦の四国上陸が、迫ってきたと考えざるを得なかったのだろう。土佐湾により近い場所へ。第三大隊は、慌ただしく、本拠を高知県蕨岡村(現・四万十市)へ移していった。

 昭和20年8月15日、無条件降伏。本土決戦は、幻に終わり、四国が血塗られた戦闘の舞台になることは免れた。あの沖縄戦の悲惨さを想う時、四国も一つ間違えれば、沖縄のようになっていたかもしれない。太平洋戦争で多くの人々の命が失われた。その犠牲の上に今の日本の平和がある。この夏、戦争について、平和について、考えてみてはどうだろうか。

(写真は、いずれも矢野和泉氏に提供していただきました。もし、矢野氏のような方がいなければ、戦時遺産は埋もれたまま消え去っていくだろう。矢野氏らの研究に深謝します。人々の記憶は日々薄れていく。今のうちに、何らかの形で記録にとどめておくべきものも多いように思う。)
参考文献:「松野町の戦時遺構調査と研究」矢野和泉、「土佐湾本土決戦史」山崎善啓・高知新聞企業、「本土決戦日本内地防衛軍」茶園義男・不二出版、「昭和20年8月、愛媛の本土決戦準備始末」池田宏信・晴耕雨読、「本土決戦準備<2>」防衛庁防衛研修所戦史室・朝雲新聞社
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