レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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明治の実業家・池田貫兵衛とその“豪邸”(大洲市)
大洲市新谷町にひときわ目立つ“大邸宅”がある。
これが明治期、主に神戸を舞台に活躍した実業家・池田貫兵衛が郷里に建てた屋敷である。
日本で二番目の電力会社「神戸電灯」を造るなど、数々の企業の重役を務め、神戸の近代化に大きく貢献した。
郷土愛も強い人物で、明治の愛媛出身の実業家として、もっと知られていい傑出した人物と思う。

IMG_3932.jpg
間口の長さは、ざっと100メートル。青石の石垣の上に板塀がずーと伸びる。中央には櫓門のような正面入り口。外からも2棟のレンガ造りの蔵が見える。そのうちの1棟はなんと3階建て。すごいスケール感を持った、明治期の豪邸である。
         DSCF0064.jpg
池田貫兵衛(いけだ・かんべい)は、天保13年(1842)新谷藩重松村(現・大洲市五十崎町)の庄屋・安川源左衛門の3男として生まれた。16歳の時に下新谷村の池田嘉兵衛の養子となった。傾いていた池田家再興のため、医師を志して長崎に行く。が、藩命によって、医への道が閉ざされるのだが、時勢を読み、横浜へ、そして神戸へと移動して貿易商として頭角を現していった。

茶や樟脳の貿易で実績を上げ、その間に、第65銀行頭取、神戸区取引所理事長、神戸電灯社長、阪鶴鉄道創立委員など、明治31年(1898)のデータによると、貫兵衛は当時10社もの重役を兼務していた。なかでも、神戸電灯は東京に次ぐ日本で二番目の電力会社で、その実質的推進役となった。貫兵衛は電気産業の創始者として、歴史に名前を残している。

また、愛媛にからむ会社としては「喜多組池田河内合名会社」を上げることができよう。木蝋精製・貿易の会社で、社名の「喜多」とは喜多郡から、「池田」は貫兵衛、「河内」は大洲に臥龍山荘を建てたことで知られる同じ新谷出身の河内寅次郎のこと。喜多郡の木蝋を精製し、輸出した。また、晩年には三島(伊予市)や砥部の陶器の輸出を行い、また貫兵衛の没後、池田商会は、伊予市の郡中港埋立地に陶土工場を造り、ここは“池貫工場”と呼ばれていた。
          DSCF0066.jpg
ひときわ異彩を放つ3階建てのレンガ造り倉庫。みなとまち・神戸の雰囲気が突然、新谷にやってきた感じだろう。

貫兵衛は、明治30年代に病を得たこともあって、郷里・新谷にこの居宅の建設を計画した。宮岡晋作氏の「池田貫兵衛大人の事績」によると、貫兵衛の夫人が台湾に樟脳の買い付けに行った際、暴風で船が難破、樟脳の大部分を失って神戸に戻ってきた。「これで、池田も破産か!」と思われたが、なんとその時、内地では樟脳が極端な品不足。船に残っていた樟脳で、現在の金額にしてざっと6億円もの大儲けになったという。貫兵衛は、「この金は自分で儲けたものではない。郷里に持ち帰り、新谷の人に配る」といって、着工したのがこの屋敷の建設だったという。

当時の人夫の日当は1日8銭だったが、この屋敷の工事では1日12銭が支払われた。何十人もが毎日参加し、庭木や庭石など材料も経費を惜しまずで、にわかに“池田さん景気”が町内外で起こったと言われる。数年かけての工事で、明治35年(1902)に完成した。落成式には、新谷村民一家残らず酒肴を配られ、門前に櫓を建て、十余俵のもちまきが行われ、祝賀の大宴会は1週間も続いたという。

また、郷里のために、新谷銀行の創設に尽力し、小学校に多額の寄付を行う一方、多くの地元出身者を引き立てたりした。

しかし、貫兵衛は、地元に長く住むことはなかった。屋敷が出来て5年後の明治40年8月に、神戸市の宇治山別宅で死去した。66歳だった。まさに巨星落つ。新谷で盛大な本葬が行われた。墓は神戸市の春日野墓地にある。台とともに高さ約4メートルの花崗岩製の堂々たるもの。さらにそのかたわらに、「池田翁の碑」(高さ2・5メートル、幅1・3メートル)があり、彼の業績、人柄などが紹介されている。

これに対し、郷里には、何があるだろうか。戦後、屋敷の敷地の3分の1が市の所有になったが、公民館別館として使われた建物や茶室は取り壊され、跡地は荒れるにまかしているよう。このままでは、池田貫兵衛という人物について、知る人も少なくなる一方だろう。貫兵衛は深い愛着を持って郷里に対応したのに、その郷里は時とともに冷たい仕打ちしか、しないのだろうか。

屋敷所在地:大洲市新谷290
参考文献:大洲市誌、愛媛温故紀行(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)、池田貫兵衛と池貫工場(森岡正雄)、愛媛県の近代和風建築(県教委)、明治期における役員会の規模と役員(和田一夫)
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[2016/01/17 19:42] URL | kei #- [ 編集 ]

池田貫兵衛屋敷
池田貫兵衛屋敷を修復管理したい、管理人になって。私はそう思っています。

外観、門構え、庭園、果実の樹木、千年杉、野鳥、米蔵、使用人休憩所、大八車の倉庫、煉瓦造りの三階建て倉庫(蔵)、屋敷が何棟も続き、元所有地の公園、宮、墓・・ずっと長い横並びの土地が、池田氏所有の物です。大洲市に寄贈した部分は返却して戴きたいです。

私は東京出身ですが、大洲に嫁いで、現在、街ガイドの勉強中です。先日、池田貫兵衛屋敷の内外を見学させて戴きました。現在の所有者の夫人に施錠を解いて貰い、隅々まで拝見しました。さて、氏が新谷に銀行設立をした時代は、「あさが来た」と同年代でしょうか。お教下さい。詳しい文献がありません。
[2016/01/18 09:46] URL | 八島みつ #0FtB7ubA [ 編集 ]

「あさが来た」と池田貫兵衛
八島様のご質問にお答えします。
池田が設立を推進した新谷銀行は、明治29年(1896)に開業しています。一方、「あさが来た」の広岡浅子(嘉永2年=1849~大正8年=1919)の実業家としての足跡をたどりますと、明治17年炭鉱事業に参画、同21年加島銀行を設立、同34年日本女子大学校設立、同35年大同生命創業です。
池田(天保13=1842~明治40=1907)は、明治25年に神戸電燈社長、第65銀行頭取など明治31年には10社の役員に名を連ねています。活動時期はほぼ同時代。拠点は池田が神戸、浅子が大阪。関西圏ですから、交流があったとも思われますが、私はその具体的な裏付け資料は確認していません(ご存知の方がいれば、ご教示ください)。また、同ドラマに出る五代友厚は大阪商法会議所の会頭ですが、この五代と深い交流があったのが宇和島出身の土居通夫(のちに同会議所会頭)。明治28年設立の阪鶴鉄道では、土居が社長、池田は取締役になっており、両者には交流があったようです。
[2016/01/21 14:22] URL | makuriou #- [ 編集 ]


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