レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
プロフィール

まくり王

Author:まくり王
FC2ブログへようこそ!



最新記事



最新コメント



最新トラックバック



月別アーカイブ



カテゴリ



訪問No.



検索フォーム



RSSリンクの表示



リンク

このブログをリンクに追加する



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



QRコード

QR



スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

徳冨蘆花の心の“闇”と今治、そして文学碑
来島海峡大橋を臨む今治港。その地に異色の文学碑が建っている。
世界的な建築家の丹下健三が設計した珍しいもので、2メートル余の高さの御影石をモニュメントに使う。
明治の文豪・徳冨蘆花(明治元年1868-昭和2年1927)の文学碑だ。
蘆花は、思春期の多感な1年余をここ今治で過ごした。
今治を愛し追憶している蘆花。
さまざまな心の葛藤と戦ってきた蘆花は、瀬戸内の今治にひとときの安らぎを見出していたのではないだろうか。

  DSCF0405.jpg
      (丹下健三設計の個性的な蘆花の文学碑。バックには、来島海峡がー。蘆花もここで海をながめていたのだろうか。)
 明治時代の最大のベストセラーといわれるのが、徳冨蘆花(本名・健次郎)の代表作「不如帰」(ほととぎす)だ。蘆花は熊本県水俣の代々、惣庄屋や代官をつとめる経済的には恵まれた旧家で生まれた。しかし、5歳上に兄が、ジャーナリストの徳富蘇峰(文久3年1863-昭和32年1957)のいたことが、蘆花を終生苦しめることになる。秀才とたたえられる兄、いわゆる「賢兄愚弟」の関係にあって、内向的な性格が、劣等感をどんどんエスカレートさせていくのである。徳冨の「とみ」という字にしても、蘆花は冨を使い、蘇峰は富。蘆花はどうしても兄とは別にすることにこだわった。

 蘆花が今治に来ることになったのも、蘇峰との確執が大きな原因だった。

 明治11年(1878)の10歳の時に京都・同志社英学校に入学。12歳の時に退学して熊本に戻っていた。兄との劣等感に苦しむとともに、若い男の血潮とも戦っていた。蘇峰が新妻を迎えたことがさらに、鬱屈した関係になり、明治18年(1885)に、母親らとともに16歳でキリスト教の洗礼を受けたが、それ以降も、兄弟の溝は日に日に深まっていった。

 これを心配した両親が同年3月、蘆花を今治にいたいとこの横井時雄(今治教会牧師、のち同志社社長、衆議院議員)に預けることになったのだ。蘆花はキリスト教の伝道を手伝うとともに、今治英学校で英語教師となって過ごす。京都で2年余英語を学んだだけの16歳が、英語を教えるというのだから驚かされる。当然、語学力不足で、失敗も多かったというが、徐々になれてきて生徒にも人気があったとも言う。今治でようやくこころの平穏をえたのではないか。この今治滞在中に、漢詩の詩作を始め、文学に目覚めたという。蘆花という雅号をつけたのもこの時であった。

 今治の暮らしは、横井が京都・同志社へ移ることを転機にして、ピリオドを打つことになる。1年4カ月の日々だった。明治19年(1886)6月7日、今治を去る。その時の今治伝道日記、末尾の記述は名文である。

「夕風そよぐ甲板に佇み、後に去り行く今治の町を眺めていると、銀河につづく墨絵の陸(おか)に灯火の影がちらちらと映り、まるでそれは夢のように美しかった。いや、ひょっとすると今治における一年四カ月にわたる伝道生活は、夢の中の出来事であったかも知れぬ…と、暮れなずむ景色の中に、すでに点景となって遠ざかる今治の町をながめながら、そう思ったのである。」
             DSCF0412.jpg
            (この碑文を書いたのは、大三島出身の“現代書道の巨匠”村上三島だ)

 文学碑に刻まれているのは、「伊豫の今治 今治は余に忘られぬ追憶(おもいで)の郷(さと)である」-。
これは、大阪から別府までの船旅をした際の紀行文「木浦丸」の一節である。蘆花が今治での思い出を書いた作品は、「黒い眼と茶色の目」、「思出の記」(舞台を宇和島に変えている)、「冨士」などがある。

 蘆花は、今治を後にして、再び同志社へ入学。そこで新島襄の義姪と恋をしたが、反対されて熊本に帰郷した(この恋愛は「黒い眼と茶色の目」に詳しい)。余談ながら、この“恋愛事件”には、NHK大河ドラマ「八重の桜」の八重も登場し、彼女にも反対されることになる。

 放浪の後、21歳で蘇峰の経営する民友社に入り、記者となる。そして、明治31年(1898)11月から国民新聞に連載を始めたのが「不如帰」。主人公・浪子の「人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」は、日本の近代文学の名セリフのひとつといわれる。そのあとの「自然と人生」「思出の記」で、ベストセラー作家となった。漱石がでるまでは、蘆花が明治最大の文豪と言われたのだが、今日、文学史上での評価は未確定ともいう。代表作が文語体で書かれていることが不人気の要因の一つと見られるが、前記の日記の一節を読んだだけでも、名文家であったことは間違いない。

 永年精神的に葛藤していた兄の蘇峰とは、思想的にも相容れなくなり、明治36年(1903)についに「告別の辞」を発表して絶縁するのであった。

 物心ついてから、兄と比較し比較され続け、半世紀にも渡ってこころの闇となって引きずり続けていた兄との不和ー。蘆花が病で倒れた昭和2年(1927)9月、伊香保温泉で和解する。
 病床で蘇峰が言う。「おまえは日本一の弟だ」。
 蘆花は「兄貴こそ日本一だ。どうか今までのことは水に流してくれ。後のことは頼む」
 和解が成立した翌日、蘆花は息を引き取った。58歳だった。

(敬称略)
参考文献:「蘆花徳冨健次郎第1部」中野好夫、筑摩書房、「瀬戸内しまなみ海道 歴史と文学の旅」森本繁、浪速社、「愛媛の文学」図子英雄、愛媛県文化振興財団

 にほんブログ村 地域生活(街) 四国ブログ 愛媛県情報へ
にほんブログ村

愛媛県 ブログランキングへ


 
スポンサーサイト


コメント

コメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


トラックバック
トラックバック URL
→http://makuriou.blog.fc2.com/tb.php/47-78cd29ad
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。