レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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消える、クラボウ北条工場-
今から75年前の昭和13年(1938)にできた工場だ。
倉敷紡績北条工場。クラボウの工場として親しまれて、最盛期には2,000人もの従業員が働いていた。
合理化の一環でこの6月末で閉鎖し、今は内部機械の撤去作業中。
そして、11月から施設解体工事が始まろうとしている。この広大な工場は更地になるのだ。
その跡地は、太陽光発電所になる案が有力になっている。
今見ておかないと、、、、。
北条海岸沿いの懐かしい工場のすべてが間もなく、うたかたの夢のように消え去ろうとしている。

 DSCF0463-001.jpg
  (正面入り口から撮影した倉敷紡績株式会社北条工場。戦前からある大きな貯水塔や三州碧南産の濃い朱色の瓦が目を引く)

 昭和7年(1932)、クラボウは新しい工場建設を計画し、候補地として香川県志度町と愛媛県北条町(のち北条市、現松山市)の2か所が有力だった。しかし、この時は、設備の改修に計画が変更され工場建設は一時中止になったが、5年後の昭和12年(1937)に新工場建設案が再浮上することになる。この工場誘致に貢献したのは、北条町の前町長松田喜三郎代議士。町長時代から熱心に誘致活動を続け、その熱意はクラボウを動かし、その後、松前町も候補地に名乗りを上げ競合したが、最終的に北条に決まり、地元の雇用を確保することになったのである。
    DSCF0519.jpg
(完成当時の北条工場。写真右側が正面入り口、そばには今も残る大きな貯水塔が写っている。写真下側がノコギリ屋根の工場。上部にある建物が女子寄宿舎群だが、一部はすでに解体されている。写っている大きな煙突は、松山から行く場合の目印になったというが20年以上前に解体された。=「回顧65年」から転載)
 敷地約3万坪(9万9千平方メートル)を買収し、昭和12年(1937)6月に着工、翌13年10月落成したのが北条工場。クラボウ創立50周年記念事業として、理想的な工場の建設が目標だった。

 工場建設に当たって、当時の大原孫三郎社長(1880-1943)=後に大原美術館を造った人物=は、「紡績工場らしくない明るい工場をつくる」「敷地内に、生産設備と福利施設を上手に調和させる」「後から設備の補足の必要がないよう完成工場をつくる」などを指示した。
 従来の紡績工場は、正門を入ると真正面に煙突や赤煉瓦壁があるーこの定型を破ることを指示した。今工場を見ると、その思想が見事に反映されているのがわかる。配電も全部ケーブル式地下配線で、構内から電柱が消えている。
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(防火壁で囲われているため、工場のノコギリ屋根は地上からは見えない。屋根に上がると、工場の屋根のすべてがノコギリ状。その広さに圧倒される)
 この工場には、女子寄宿舎7棟、男子寄宿舎1棟、社宅55棟が付属していた。
 またクラボウは、若年労働者を企業内で教育して社会に還元するとの理念をもっており、工場内に専門・専修学校があった。北条工場には鹿島家政専門学校があり、昭和40年(1965)のデータでは、本科(3年制)に204人、専攻科(本科修了後の2年制)107人が在籍していた。仕事と勉強を両立させていたわけだ。

 さらに従業員の演劇、音楽、いけばな、茶道、書道、洋画、写真などの文化サークルや、各種スポーツ部もあり、バレーボールや野球部は今年の閉鎖時にもまだ活動を続けていた。音楽サークルのOB・OGは、今でも北条公民館に集まって歌を楽しんでいる。多くの方が60歳を越えているのだが、、。

 従業員は、愛媛県出身者が圧倒的に多かった。昭和28年(1953)の記録によると、当時の従業員数1,176人のうち男性の97%、女性95%を愛媛県人が占め、平均年齢は22・2歳。若い人には、あこがれの職場で、入社の競争率は高かったという。工場内の寄宿舎には男女542人が住み、青春時代を送っていた。
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(女子寄宿舎の「あやめ寮」。女子の若年従業員が楽しく生活することができるようクラボウの労務管理によって、他の繊維業界よりも定着率はよかったという) 
 女子の寄宿舎だけで7棟もあったのだが、機械設備の更新で、生産性が向上するのと反比例して、人手を必要としなくなっていく。昭和58年(1983)の従業員は607人に減っていた。そして、今年3月下旬、「製品価格の下落で繊維事業の収益力が低下しているため、国内の生産設備の集約化」の一環として北条工場の閉鎖が発表された。6月末で閉鎖。最後の従業員数は最盛期の10分の1以下、わずか136人にまで減っていた。

 今も2階建ての女子寄宿舎が2棟残る。無人となった室内。最近まで使われてきただけに、住んでいた人の息遣いが聞こえるような生々しさがまだ残っていた。寄宿舎からは、何人もの人が通り過ぎて行った長い長い屋根付きの通路が工場まで伸びている。また、寄宿舎の隅に、もう10年以上も使われていないが、大きな洗濯室棟が残っていた。一度に50人以上が洗濯できる。昭和レトロを象徴するような洗濯板も残されていた。現場に立つと、ここで、わいわい言いながら洗濯する若い女子工員たちの姿が浮かんでくるような気がした。
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   (寄宿舎から工場へ長く続く通路。いったい何人が歩いたことだろうか)
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               (洗濯機が普及するまで、使われていた洗濯場。干し場にもなっていた)
 北条工場については北条市誌に次のような記述がある。
「紡績と織布の2部門を直結する合理的な工場として創業したので、低コストで生産を上げることができるため、どのような局面にあっても最後まで残る工場であろうとの評価さえある」、「市内からの通勤者も頗る多い。親子2代や兄弟で勤務している者もあり、『倉紡一家』を形成している家も出てきている」。

 安い輸入繊維の流入による環境の悪化は、当時の想定を上回るものがあったのだろう。戦前では最後の新鋭工場といわれたクラボウ・北条工場は、75年で歴史の幕を下ろすことになった。11月には施設取り壊し作業が始まる。すべての解体作業は約半年かかる予定。来年4,5月には、ここに工場があったことが夢だったかのように、広大な平地のみが広がっていることだろう。
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(操業以来ずっと栄枯盛衰を見続けてきた貯水塔。クラボウ北条工場ののシンボルだ。これを含め全ての施設の解体作業がこれから始まり、約3万坪、坊っちゃん球場4個以上の広大な更地が出現する。昭和25年3月には、昭和天皇もご臨幸された立派な工場、多くの人々の思い出を残す工場でありながら、今のところ、記念碑を建てる計画を聞かない。あまりにも寂しいことではないか-)

所在地:松山市北条1005
(伊予鉄バス北条バスターミナルから徒歩約3分)
参考文献:「回顧65年」(倉敷紡績株式会社)、「倉敷紡績100年史」(同)、「産業の松山」(松山商工会議所)、「北条市誌」(北条市)
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