レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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庄屋屋敷の謎。パート2【3-2】
今治市大西町にある庄屋・旧井手家の住宅。
誰もが、その外観を見て驚く。
屋根の上に天水瓶(てんすいがめ)が2基、“鎮座”しているのだから。
前回はこの建物の歴史を探っていったが、今回は最大の謎「天水瓶を屋根の上に置いたわけ」を解いていく。

   DSCF0365.jpg
(明治4年に建て替えられた旧井手家の庄屋屋敷。屋根の上に天水瓶が-。右に一部見えるのは樹齢400年もの大きなくすの木=天然記念物)
 
 【2】なぜ天水瓶を置いたのだろうか?。
 普通想像するのは、「防火用」に置いたのでは、、、-と思うだろう。そうかもしれないが、瓶の大きさからいってこれは余り実用的とは思えない。今でも天水桶(てんすいおけ)を屋根の上に置く建物がある。高野山の金剛峯寺だ。ここは、防火が目的だった。この寺の屋根が、檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)だったから、火の粉が飛んできて、屋根に燃え移らないよう、桶の水をまいて類焼を防ぐのが狙いだった。しかし、旧井手家住宅は最初から本瓦葺き。防火が主目的とは、ちょっと違うような気がする。

 実は、庄屋の家が本瓦葺きというのも、大胆なことなのだ。その証拠に、旧井手家住宅より約80年も後にできた松山市の庄屋・渡部家住宅(松山市東方町、慶応2年上棟、国の重要文化財)では、主屋は本瓦葺きだが、瓦屋根の上部に茅葺の越屋根をあえて配置して、武士ではなく農民であることを示したという(下写真参照)。そんな時代背景のもとで、天水瓶を屋根上に置くのは、城の二の丸、三の丸にしかないこと。にもかかわらず、あえて天水瓶を置いたのはよほどのことであることが、分かっていただけるだろうか。
           DSCF0056-001.jpg
   (松山市の庄屋・渡部家住宅主屋=国重要文化財=。屋根には越屋根を設けてあえて、農民を示すため茅葺にしている) 
 あえて天水瓶を置いた意図とは、何か-。ズバリ言うと、格式の象徴として、井手家を誇るために置いたと思われる。松山藩がなぜそんなことを許したのかが疑問になる。なぜ許されたのか--それは大坂の陣の井手家の功績により、認められたと伝えられている。武士が、大庄屋・井手家の財力に屈している姿が見えてくる。参勤交代の折には、藩主が一度ここに宿泊し、波止浜から江戸に向かったと言われている。

 このように判断する根拠は、文政元年(1818)に作成された松山藩の歴史書「却睡草(めざめぐさ)」に、この天水瓶のことが、さまざまに記載されているからだ。それによって、この珍しい建物が江戸時代後期から存在していたことやそのいわれなどが分かってくるのである。
 「却睡草」というのは、松山藩士・安井熙載(1790-1827)が松山藩内の逸話や伝承など176編をまとめたもの。この内容の多くは、久松家が明治11年にまとめた松山藩史「松山叢談」内にも転記されている。

「却睡草」で天水瓶の庄屋屋敷について記述された部分を抜粋すると、

 「野間郡庄屋喜三郎なる者ハ豪家也、舟をももち、酒をも造り、金夥(おびただ)しく、人にもかし、(中略)国中ニて屋根へ天水をあくる事停止也、二、三ノ御丸の上ニ水かめあるのミ也、然(しかる)ニ此男方にハこれをあけたり、これハ大坂陣のせつに、蒲生氏の時なる歟、舟を差出し、殊外軍用を達せし故、その礼として望の儀差免し可申と有之ニ付、天水を願ひしとそ、今ニ水かめをあけたるよし也、甚希有成金持なり、野間郡大庄屋ニ我ら縁者あり、此家の老人の物語せし也。」

 野間郡(のまごおり)というのは、松山藩の領地で菊間、大西、波方、旧波止浜町、旧乃万村の範囲。37の村に分かれ、37人の庄屋がいた。それを束ねていたのが、大庄屋で、代々その位置にいたのが、井手家であった(6,7、9代の当主を除き大庄屋。前回の井手家系譜参照)。

 「却睡草」の記述を要約すると、庄屋の喜三郎は大金持ち。屋根に天水瓶を置くのは禁止され、城にあるだけなのに、この男は天水瓶を屋根に置いている。これは、大坂の陣の際に、舟を提供したり、軍資金や兵糧米などの物資を寄進して協力したので、その礼の望みを聞いたら、天水瓶を置くことを希望し、それが認められたという-、老人から聞いた話であるとしている。

 この「却睡草」の記述には、喜三郎という肝心の人物が井手家の当主にはいないなど、資料的価値に疑問点もあるのだが、野間郡内に天水瓶を置いた屋根の例は井手家以外に伝えられておらず、この文章は井手家のことを書いたものと推察されている。

 この文章によると、当時、天水瓶を屋根に置いたのは城の二の丸、三の丸のみ-とある。松山城の二の丸、三の丸に天水瓶があったのか?。どちらの建物も明治初年に焼失して今はない。外観を写した古い写真はない。絵図は残るが、外観の姿はわからない。だから松山城の二の丸、三の丸の屋根に天水瓶があったのかどうかは、確認できなかった(古文書等で松山城を研究されている方があれば、ご教示ください)。ただ、隣の高知城の二の丸(明治6年解体)の古写真には、屋根に天水瓶(天水桶?)らしきものが写っている。城の部分の却睡草の記述には信憑性があるのではないだろうか。

 結局、この屋敷の屋根上に天水瓶を置いたのは、野間郡の大庄屋をしてきた井手家が、農民の身分でありながら、城にあるのと同様に天水瓶を置いた屋敷を建て、その権威を野間郡一帯に、いや松山藩内に示した、と考えるのが妥当ではないだろうか。

 シリーズ第2回として天水瓶を置いたなぞ解きをした。最後に残る大きななぞは、「なぜこの建物が、文化財になっていないのか」「なぜ保存運動が頓挫したのか」「なぜ見捨てられたように物置になっているのか」をテーマに、旧井手家庄屋屋敷シリーズの最終第3部として、「政治に翻弄された保存活用計画、保存活動の盛衰、そして今後どうなるのか」を、9月25日(水)から掲載(予定)する。

所在地:今治市大西町新町、(JR大西駅前徒歩1分。駅前から天然記念物の大きなクスの木が見える。その木の隣が旧井手家の建物)
参考文献:「江戸期の野間郡と大庄屋井手家について」(怒麻18号、近藤福太郎)、「大庄屋井手家建物の調査を担当して、旧井手家庄屋建物第二次調査報告」(怒麻14号、河合勤)、大西町誌、「大樟」(旧野間郡大庄屋保存会)、「大西の史跡を訪ねて」(大西町教育委員会)、「却睡草・赤穂御預人始末」(伊予史談会)、「城⑦四国」(毎日新聞社)

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