レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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銅像より橋になりたい-宇和島・穂積橋
宇和島市内にあるなんの変哲もない、小さな橋である。
この橋を「穂積橋」という。その名前を聞けば、橋にまつわるエピソードを御存じの方も多いだろう。
銅像になるより橋になることを望んだ明治の偉人-、
“民法の祖”とたたえられる穂積陳重(ほづみ・のぶしげ、1855-1926)の名前を冠した橋だ。
偉くなると、とかく謙虚さを忘れ、上から目線の人の多い昨今。
陳重の足跡をたどるとともに、改めてその考え方を現代に問いかけたい。

  DSCF0115-001.jpg
   (観光客以外は、人も車もここが穂積橋と知ってか知らずか、何の感慨も持たずに渡っているように思えた)
                DSCF0107-001.jpg
 (橋のたもとに小公園があり、ここの石碑に、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」と陳重の意思が刻まれている)
 明治期の宇和島は、綺羅星のように各界に人材を輩出している。その一人が、穂積陳重。安政2年(1855)宇和島市中ノ町(現・京町)生まれ。幼少期から俊童の誉れ高く、15歳で藩の貢進生に選ばれて大学南校(東京大学の前身)に入学して、法学を専攻。その後、イギリス、ドイツに留学して法学を研究。帰国してからは、東京大学法科大学教授となり、33歳でわが国初の法学博士となった。陳重は、わが国の法律・政治の世界の先駆者として、71歳で生涯を終えるまで常に最前線で活躍した人物だった。

 彼の業績のひとつは、梅謙次郎、富井政章とともに、明治民法典の起草にあたったこと。民法の生みの親といわれるゆえんだ。また、彼はあの大津事件の際には、同じ宇和島出身の大審院長・児島惟謙から意見を求められ、「外国でも敗戦国でない限り自国の法律を曲げた例はない」「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」と、進言して惟謙を支えた。

 彼は、愛郷心も強く、市制施行や郷土の学生への教育などでも、宇和島を温かく支援、これら功績に対し宇和島市が、陳重の死後、胸像の建立を穂積家に申し出たところ、「胸像となって同郷の万人に仰ぎ見らるるよりは、橋となって公衆に履んで渡らるるを以て無上の光栄となす」との生前の意思から、遺族に固辞された。このため、改めて改築中の本開橋(注1)を穂積橋として名前を刻みたい-と申し出て承諾を得た。昭和5年(1930)、今の鉄筋コンクリート造りで辰野川に架かる「穂積橋」が誕生したのである。昔も今も、銅像や記念碑が乱造される傾向が強いが、「橋となって踏んでもらいたい」という人物は、彼以外に聞いたことがない。

 また、陳重は地方自治についても熱い思いを持っていた。それが端的に表れているエピソードがある。大正11年(1922)11月25日、当時の皇太子殿下(のちの昭和天皇)が宇和島に来られた時のことである。

 殿下に供奉する列の順番は、県が決めていた。まず、伊達侯爵、ニ荒(ふたら)伯爵=宇和島出身、政治家、官僚=、穂積男爵、続いて県の高等官、それから市長という順番だった。ところが、当日朝に陳重が市長を呼んで「順序を変更して市長を第一としておいたから承知せよ」とのこと。市長は驚き躊躇した。「旧藩主の伊達侯、ニ荒伯、穂積男爵らの上位につくことは、甚だ心苦しい」と市長。それに対し陳重はいう。「自分たちは一市民として奉迎のため帰省したものだ。市長は市民全体の代表者として上位につくことが当たり前。県の定めたことは間違っているのみならず、高等官級の下位に市長を置くなどはもってのほかの無礼である。ぜひ第一に進むよう」。こうして、皇太子の後にまず、宇和島市長が続くことになったのである。さらに、城山にて茶菓のもてなしのシーンにおいても、皇太子の前面が市長の席で、その左右に宮内大臣、武官長、伊達侯、穂積男爵らが座り、知事などの席は別卓だった。

 宇和島市民にしてみれば、びっくりするような、溜飲が下がる出来事だったのではないだろうか。今も、皇族の方々が各地をご訪問されているが、その際の案内の役割は、陳重の思いが活かされているだろうか。

      DSCF0147-001.jpg
    (陳重と弟・八束の兄弟が幼少期を過ごした家の長屋門。宇和島城城山の中腹に移築されている。)

 陳重は学究一途にとどまらず、貴族院議員や枢密院議長にもなる。男爵、勲一等旭日桐花大綬章を受けた。

 余談ながら、穂積家は、祖父や父が国学者で、教育に熱心だったと言われるが、陳重をはじめ驚くほど多くの学者が次々に出て近代日本の建設に貢献する。この学者一家の華麗な登場人物の一端をのぞいてみる。

 陳重の兄・重頴は第一国立銀行頭取、弟・八束は「民法典論争」で大きな役割を果たした憲法学者。陳重の妻・歌子は渋沢栄一の長女である。
 陳重の長男・重遠は「日本家族法の父」といわれ、最高裁判事にまでなっている。重遠は最高裁判事時代の昭和25年(1950)に尊族殺重罰規定を違憲とする少数意見を書いている(親殺しに重罰を科したこの規定は、重遠の意見から23年後の昭和48年に、法の下の平等を規定した憲法に違反するとして最高裁が違憲とした。その後、刑法の該当条項は削除された)。
 また孫の重行は、大東文化大学の学長をつとめた近代イギリス史専攻の学者である。

(注1)穂積橋の前の橋名には、文献によって本開橋説と新開橋説の2説がある。現地掲示板をはじめ、穂積橋関係記事の多数派が本開橋説を採用している。これに対し、「新宇和島の自然と文化(1)」や「南予の群像」には新開橋との記述がみられる。市教委に問い合わせたところ、「決定的な原本資料は見つからなくなっている。ただ、石碑に刻まれた橋名には本開橋とあるため、本開橋が正しいと思われる」との見解だったため、本稿では本開橋と記述した。

穂積橋所在地:宇和島市錦町と新町の境(JR宇和島駅から徒歩3分。宇和島国際ホテル近く。郷土料理「ほづみ亭」の隣)
参考文献:「新宇和島の自然と文化(1)」宇和島市教育委員会、「山村豊次郎傳」井上雄馬著、山村豊次郎傳記刊行会、「南予の群像」新愛媛
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渋沢栄一と穂積橋
穂積橋の名前の由来となった穂積陳重のことであるが、宇和島藩の出身の人で、若い頃上京、南校(東大)を卒業し、日本で最初の帝国大学法学博士の五人の一人で、日本における民法の生みの親と言われている。日本資本主義の父と言われる渋沢栄一の目に留まり、長女歌子と結婚している。仲人は児島惟謙。渋沢の継嗣の篤治はのちに廃嫡となっておりしっかり者の長女歌子とその婿の穂積は渋沢家に強い影響を与えていた。穂積は、本業の民法関係のほかに隠居論という大部を出版しており、社会の実態、民意への強い関心は彼の法学の中心をなすものと言えよう。渋沢ファミリーの中でも重きをなすひとであり、また、歌子と共に大の歌舞伎好き。
渋沢は、静岡藩から明治政府に移る際、大久保一翁に強い指示を受けている。幕府の大久保一翁は、幕末の公武合体論のなかで、松平春嶽、伊達宗城と付き合いの多い関係にあり、維新政府で民部・大蔵卿の立場にあった伊達の圧力があった可能性が大きい。また、そのことが、宇和島藩の俊英の穂積陳重を栄一の長女の婿に迎えた一つの要因である可能性がある。
渋沢栄一は、あちこちに銅像のある人で、写真の旧養育院のモノは、当院のシンボル。他に、日本銀行の前、帝国ホテル、一橋大学などにも像あり。岳父の銅像のこと百も承知で、以下の大見得を切ったのではなかろうか。しかし宇和島の「穂積橋」の説明碑に渋沢の銅像のことは、以下の様に一言も書いてない。
・・・・・
ほづみばし   橋名の碑   
法学博士男爵穂積陳重先生は、我が郷土の生んだ偉人であり、われら市民の慈父である。曽て同郷有志の間に、先生の銅像を建設したいという相談が起こった際先生は徐にこれを志りぞけ先生は銅像にて同郷萬人に仰ぎ視らるるよりは、橋となって公衆に履んで渡らるるを以て無上の光栄とす。と仰せられて、容易にこれをご承認下さらず。  偶々本年の春、本間橋が改築されたので、茲に有志は県の許可を得てその名を改めほづみばしと称して先生永久の記念とした。ああ、橋名すでに命ぜられて先生今や亡し、我等は銅像を仰いで高徳を敬慕できぬけれど、この橋をわたって伏して深恩に感謝することを忘れてはならぬ。御即位大禮記念事業の一つとして  昭和五年十月十日 これを建つ
渋沢と伊達宗城の関係はつづいており、明治18年に「養育院」の運営に伊達宗城を引っ張り出している。
陳重逝去後、穂積橋が出来たが、この時長命の渋沢栄一は存命であり。当時の関係者は、名前の由来の銅像のことを知っていたと思われ、橋の傍らのガス灯の存在が渋沢の影をうかがわせるが、存命の渋沢に 遠慮があって碑に名前を上げていないのであろう。年を経て、渋沢栄一の銅像の関与のことは、忘れ去られている。(東京都健康長寿医療センターのホームページ、養育院・渋沢記念コーナー参照)
[2015/09/19 14:40] URL | 稲松孝思 #- [ 編集 ]


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