レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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千野々橋VS発電所。どちらが先にできたのか?(西条)
(前回の続き)愛媛県下で最も古い鋼鉄製のボウストリングアーチ橋、「千野々橋(ちののはし)」。
西条市の加茂川上流に架かる。親柱には、大正14年(1925)5月完成-と刻まれている。
これに対し、この橋を渡って数百メートルの場所にある住友共電・大保木(おおふき)発電所も、同じ大正14年の3月完成と、同社のホームページに記載されている。
おや?、同じ年に両方が完成とは、、。

発電所の重い資材を川向うに運び込むのは困難だ。
だから、橋を吊り橋から鉄橋の千野々橋に変え資材を運び入れたのではないのか。
橋の完成した後に発電所が完成していないと、おかしいことになる。
完成時期は、どちらかが間違っているのではないか。このミステリーの解明を試みた。
   DSCF1121.jpg
100%間違いないと思われるのが、千野々橋の完成時期の方だ。親柱に、はっきり大正14年5月と刻まれているから疑問の余地はない。

なら、発電所の完成時期が間違っているのではないか。
住友共電のホームページには、「当社の水力発電所の中で最も古い発電所です。完成年月・大正14年3月」と記載されている。
さらに、同社の社史「住友共同電力のあゆみ」(創立80年記念誌)にも、同様の記述がみられるのだが、問題になるのは、その完成年月を裏付ける立証資料の記述がないこと。例えば、当時の監督官庁への届け出記録や新聞報道、建物の完成記録・棟札など、裏付けるものが記載されていない。

同社にも問い合わせた。その結果は、「調べてみたが、なにぶん古いことなので裏付け資料は発見できなかった。当時のことを聞いている社員もいないように思う。どんな工事をしたかは、想像しかない。関係官庁には“大正14年3月”完成と報告し続けており、その記述は間違いないと思っている」
              DSCF1120-001.jpg
完成時期を巡って「千野々橋VS発電所」は、どちらも一歩も譲らない。

そこに登場するのが、元高校教師S氏(現・大阪府在住)のこの地区(旧大保木村)の歴史に関する論稿である。
S氏は平成17年から19年にかけて、西條史談(西條史談会)に「現地調査に基づく旧大保木村の歴史」、「旧新居郡大保木村の歴史と年表」の論稿を発表された。

そこに千野々橋と発電所のことに触れている項目がある。
「高田屋商店の前に鉄線を張り渡し、吊り橋をかけてあったが、発電所を造るために鉄橋に架け替えて、トラックにて重量ある機械を運び、発電機を設置、昭和3年、住友共電大保木発電所が完成した」。
さらに年表でも大正14年に「千野々に大保木発電所の工事が始まる」とある。

実にわかりやすい、辻褄の合う説である。
なんだ、“発電所は、鉄橋の完成後に着工し、完成は昭和3年”、それなら納得、納得。である。

しかし、何かがおかしい。S氏の論稿は、現地の人から聞き取りをしてまとめたもので、文書等の資料で裏付けられたものではない。住友共電のHPと同じで、根拠が記載されず、立証力が弱いのである。残念ながら大保木村の歴史資料はほとんど残っていない。あるのは、S氏の書いたものばかり。S氏の記述が大保木村の歴史になっている。果たしてそれはすべて正しいのだろうか。
特に、昭和3年に完成したとの、根拠はどこにあるのだろうか。(昭和2年5月に別子鉱山の電気事業が土佐吉野川水力電気株式会社に名義変更する際、その譲渡工作物の中に大保木水力発電所の名前があり、この時までに同発電所は出来ていたのがわかる)

それならば、現地のお年寄りに、橋と発電所の関係について、聞きまくってみた。
残念ながら、大正末期の、今から90年前のことについて記憶のある人とは、ほとんど出会えなかった。
だが、そのなかで、注目される発言を聞きとることができた。

それは「川から発電機械を上げたと聞いたことがある」というもの。古老が集まった時に話していたという。
ウーンン!。
まさか、重い発電機を川から引き上げるとは、、、。機械・資材を対岸から川に降ろして、川を渡して川向かいの岸の上に引き上げる手法を使ったというのだ。確かに、切り立った崖だけでなく、場所によってはややなだらかな角度のところもある。ウインチやころ、馬車などが投入されたという。つまり、橋は使わなかったので、橋と発電所が同じ大正14年に完成したというのは、あり得るということになるのだ。

重いものを川から崖上に運び上げるのは無理で、橋を架けて渡しただろうと、現代人は発想してしまう。
考えてみると、近くで鉱山採掘をしていた「住友」の工事だ。鉱山関係の機械や索道もあったし、また人力で何でもやってしまう時代でもあった。さらに、この付近には、昔川渡しがあったとの情報も得た。これらのことから、古老の証言通り、橋を使わずに、発電所の建設工事が行われた可能性はあると思われる。

千野々橋は、果たしてどんな目的で造られたのか。「愛媛温故紀行」(えひめ地域政策研究センター、アトラス出版)には“かつて高知県への幹線ルートとして計画された”と記載されている。が、その後の流れから見て、それは表向きの見解で、実態としては、住友のために造られた橋だったような気がする。それが発電所の建設に間に合わせるかどうかは別として、その後の設備増設や保守管理に千野々橋は、重要な橋となっていったのは間違いない(バイパス完成までは)。半面、高知との幹線ルートとは程遠い存在といえるだろう。

結局のところ、橋と発電所の完成時期について、断定できるものは確認できなかった。
現時点では、住友共電には第三者にわかる立証資料がないし、S氏のこの件についての論稿は確たる裏付けに乏しい。発電所がいつできたか?、どこかに裏付ける資料はないものだろうか-。ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ、ご教示をいただきたい。

(S氏にも取材を申し込んだが、事情があって応じてもらえなかった。私は、S氏の大保木村の歴史に関する数多くの論稿を、高く評価し、顕彰する者のひとりである。)

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