レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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千島艦事件の光と陰 Ⅰ
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千島艦事件の光と陰

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愛媛県で起こった事件、それも国際問題化した事件でありながら、時の流れとともに人々の記憶から消えていく。そんな事件を伝える碑が、松山市堀江町の浄福寺境内にひっそりと建っている。
「千島艦遭難碑」。力強く大書された字は、あの東郷平八郎元帥の揮毫である。日本海軍の軍艦「千島」とイギリスの商船が衝突、千島はあっという間に沈み、乗組員90人中74人が死亡した大惨事である。
 明治という時代を背景に、事故は事件へと姿を変えていく。千島艦事件の光と陰を以下の4部構成でまとめてみた。
Ⅰ、事故から事件へ
Ⅱ、2人の日本人の悲劇
 1、部下の後を追った元分隊長
 2、歴史から消えた水先人
Ⅲ、子規と千島艦事件
Ⅳ、西条にある殉職者の碑


Ⅰ、事故から事件へ

 事故が起こったのは、今から121年前。日清戦争の足音が近づいていた明治25年(1892年)11月30日午前4時57分ごろ。場所は松山市の興居島(ごごしま)と睦月島との中間、釣島水道でのこと。日本海軍の水雷砲艦「千島」(排水量750トン)とイギリスのP&O社の商船「ラベンナ」(3,257トン)が衝突。千島の右舷中腹にラベンナ号の船首が、いわゆるT字形にぶつかり、千島はわずか2分で沈んだ。千島乗組員90人のうち、救助されたものは、艦長心得の鏑木(かぶらぎ)誠大尉ら16人だけ、残る74人が犠牲になった。ラベンナ号は船首に損傷があったが、死傷者はゼロ。千島は海軍がフランスに発注して建造した新造船で、フランスから神戸に回航している途中、あとわずかのところで悲劇の船となってしまった。
 ラベンナ号は、生存者を乗せて、松山・堀江沖に来て錨を下ろした。その時、当時の堀江村民は全長119.6メートルのその巨体に驚くとともに、船に駆けつけて何が起こったのかを初めて知るのだった。村民約50人が5昼夜にわたって救助捜索活動に従事した(のちにこの活動を県知事が表彰)。軍艦「筑波」「葛城」「摩耶」なども駆けつけ大捜索を繰り広げたが、一人として救助も遺体収容もできなかった。翌年1月になって、2遺体が発見されたが、残る72人の遺体はついに確認できなかった。
 
 巨費を投じた軍艦が沈み、74人もが殉職したとあっては、相手商船への非難が一気に高まるのは当然だろう。
その一方で、軍部は自らに責任追及の火の手が上がるのを防ぐのに躍起になる。当時開かれたていた国会の質問にこんなくだりがある。「千島艦が死んで、その艦長がいきているが、はなはだおかしいことである」-。千島の艦長が艦と命をともにしなかったことを糾弾する声さえ上がっていたのである。軍部は翌年1月25日に軍法会議を開き、艦長(心得)の鏑木大尉に「怠慢の行為なきを以って免訴」と判決を出す。艦長の責任を不問とする一方で、事故の責任を相手に向けていく。その標的になったのが、ラベンナ号の水先人で唯一の日本人の北野由兵衛(きたの・よしべい)だった。彼は2月には罰金の有罪判決を受け、4月には水先免状3か月停止の審問決定も受け、事故責任のすべてを背負わせられていく。(北野については、Ⅱ部で詳述する)

  軍部のメンツと国民の声に押されて、日本政府はイギリス企業を相手に法廷闘争へ突入する。
明治26年(1893年)5月6日、P&O社を相手取って横浜のイギリス領事裁判所に85万円の損害賠償を提訴した。P&O社は逆に10万円の賠償を求めてきた。この1審では、P&O社の10万円の請求は却下されたものの、日本側の請求には判断がされなかった。P&O社は上海のイギリス高裁へ控訴。この2審判決(26年10月25日)では「瀬戸内海は公海であり、日本国の領海ではなく、その主権の及ばない海域である」と、驚くべき法理を展開しており、日本の完全敗訴になってしまった。ここでのイギリスの無茶な主張に国民の憤りはますます高まった。
 海軍大臣・西郷従道は、宇和島出身で“民法の祖”といわれる穂積陳重ら司法関係者で6人委員会を設置、この事件の審査をさせている。その結果、同委員会は12月2日、「勝訴すると敗訴するとを問わず、日本帝国政府は意を決して、英国枢密院へ上訴すべき」と進言した。国のメンツをかけた戦いとなっていく。
 ついに明治27年1月、英国枢密院に上訴。同年7月に判決がでた。判決は、「上海での判決を破棄、横浜に差し戻し」だった。日本にとっては、訴訟費用は膨らむばかりで、時間だけが過ぎていくことになった。
 そんな時、イギリスは日本との関係を考慮して和解の打診をしてきた。結局、日本は明治28年9月、P&O社が1万ポンド(当時約9万円)と訴訟費用を支払うことで和解する。2年以上もの歳月をかけて、日本が得たものは、当初要求額85万円のわずか11%だった。

 この千島艦事件の歴史的位置づけとしては、大きく2点が指摘できよう。1点は、日本が訴訟当事者として外国の法廷に出た初めての訴訟事件であったこと。2点目は、領事裁判権という不平等条約について、その改正に向けて大きな世論を巻き起こす一つのエポックになったことだ。領事裁判権というのは、日本国内での外国人犯罪を日本が日本の法律で裁けないことを意味する。千島艦事件でも、相手・ラベンナ号の船長を直接取り調べることはできていない。訴え先はイギリス領事裁判所で、日本人には全く不平等な扱いだった。
 領事裁判権の不利益を痛感させる事件が、千島艦事件の6年前、明治19年(1886年)10月24日、紀州沖で起こっている。イギリスの貨物船ノルマントン号が座礁沈没し、イギリス人ら乗組員は全員助かったが、日本人乗客23人は全員船中に取り残されて死亡した。これがノルマントン事件だ。イギリス人船長らはイギリス領事によって神戸で裁かれ、「早くボートに乗り移るようすすめたが、日本人は英語が分からず、船内にこもって出ようとしなかった」との乗組員の陳述を認め、船長以下全員無罪の判決だった。
 この判決に国民の怒りは爆発。それらによって、兵庫県知事は、イギリス人船長を殺人罪で告訴、これにより横浜のイギリス領事館判事は禁固3か月の有罪判決を下したが、死亡者への賠償金はなにもなかった。
 領事裁判権への批判が渦巻いている中で、またも起こった外国船の事故が千島艦事件。不平等条約改正への機運を高める結果となり、明治27年(1894年)7月の日英通商航海条約の調印を皮切りに、欧米各国と次々に条約を改正、領事裁判権は撤廃されていった。多くの犠牲を払って、日本の近代化は進んでいった。

*千島艦遭難碑

 事故から25年後の大正6年(1917年)1月14日、当時の堀江村長や浄福寺住職ら村民有志の手によって「千島艦遭難碑」が、救助基地となった堀江・浄福寺境内に建立された。25周忌で建てられ、以降、110周忌まで法要が営まれてきた。碑が建ってからでも100年近い歳月がたち、碑の裏面の刻字は、まったく読み取れなくなっている。当時どのような文言書かれていたのか。ここに記載しておこう。

「明治25年千島艦建造功竣リ佛国ヨリ回航ノ途11月30日拂暁堀江湾ニ於テ英国商船ラベンナ号ト衝突シ貴島海軍大尉以下74名艦ト共ニ沈没又大正5年11月有志相謀リテ其英霊ヲ弔シ此ノ碑ヲ建ツ」


(第二部「2人の日本人の悲劇」は、2月末掲載予定です。)





 
 
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