レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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漱石のいた松山「今・昔」/3、愚陀仏庵
③愚陀仏庵(子規が居候した、漱石最後の下宿)

漱石は松山に来て、きどや(城戸屋)旅館(三番町)から愛松亭(一番町)を経て、二番町の上野義方の離れに住居を移した。明治28年(1895)6月下旬のことだった。途中で、子規が居候し52日間同居したことでも知られ、愚陀仏庵と呼ばれて、翌年4月に松山を離れるまで住むことになる。

場所は今の三越裏付近の、二番町3丁目7-6。十数年前までは料亭天平があったところで、いまはその名も愚陀仏庵という名の駐車場になっている。道路沿いの一角に「夏目漱石仮寓愚陀仏庵跡」の石碑が建っているが、辺りは駐車場や飲食店など雑然とした場所で、残念ながら明治期に子規と漱石の2大文豪が住んでいた歴史的な場所なのにどこにも、当時を彷彿させるムードはなくなっている。

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   (三越と全日空ホテルの間の道を南進すれば、愚陀仏庵のあった場所、この駐車場に出会う。その名も愚陀仏庵駐車場という)
上野は、旧松山藩の士族で70歳を超え、松山の豪商「米九」の支配人をしていた。この老夫婦と中年の娘、孫娘が住み、いわゆる素人下宿だった。平屋の母屋と2階建ての離れがあり、漱石はこの離れに住むことになる。一階は6畳と4畳半、二階は6畳と3畳半という4つの和室があった。
   DSCF2212.jpg
     (愚陀仏庵の跡の石碑が建っている)
親友の子規がここに来たのは、明治28年8月27日だった。日清戦争の従軍記者をして帰国途上に喀血し、この肺病の療養のため、松山に帰省してきたのだ。親戚の家に1,2泊した後、漱石のところへ移ってきた。漱石はニ階に移り、一階を子規に住まわせた。「僕は2階にいる、大将は下にいる、そのうち松山中の俳句をやる門下生が集まってくる、僕が学校から帰ってみると毎日のように多勢来ている」と、漱石は書いている。

愚陀仏は漱石のもう一つの号で、この離れを愚陀仏庵と言うようになった。漱石は中学の英語教師として真面目な生活を送っていて、翌日の講義の下調べなどを欠かさず、ニ階から下りてくることは少なかったというが、時折は階下の句会にも参加し俳句に対する関心を高め、また上達も著しかった。

子規は10月19日松山を離れ、東京へ旅立った。52日間の同居生活は終わり、漱石は「見つゝ行け旅に病むとも秋の不二」などの送別の句を詠んだ。
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   (復元されていた愚陀仏庵は、4年前の豪雨の土砂崩れであとかたもなく全壊した=萬翠荘の裏山中腹)

文豪の住んだ記念すべき愚陀仏庵は、昭和20年7月の松山空襲で全焼した。昭和57年に萬翠荘の裏の城山中腹に復元され、ここで句会なども開かれて、市民にも親しまれていたのだが、平成22年7月12日の豪雨に伴う土砂崩れで全壊してしまった。関係者から、何とか再建を-、との声が高まった。再建場所の候補地は、①復元されていた萬翠荘裏②道後の旧ネオン坂③最初の2番町の愚陀仏庵跡地-の3か所。県と市の検討連絡会議はこのすべてを却下。「再建は見合わせる」との結論を出した。安全性の問題や、維持費、土地取得費の高さなどの問題があり、結局“適地がない”ということになったのだ。2階建ての愚陀仏庵は消えたが、子規のいた1階部分は、子規記念博物館内に復元されているので、当時の空気を感じて欲しい。

参考文献:愛媛新聞「漱石の風景」平成7年6月29日、「漱石と松山」中村英利子編著(アトラス出版)
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