レトロ旅えひめ巡り
愛媛県のノスタルジーを求めての旅ガイド。近代化遺産の建造物や農漁村の原風景、いつかどこかで見た光景を紹介していきます。古いえひめを一緒に探してみませんか。
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千島艦事件の光と陰  Ⅱ
Ⅱ、2人の日本人の悲劇

 二つの船が運命の糸に操られて釣島水道で出会ったとき、大きな惨事が起こった。74人もの尊い人命が失われたが、悲劇はこの人たちだけにとどまらない。千島艦で運命を狂わされた2人の日本人がいた。一人は「千島」の分隊長だった二木(ふたつき)勇次郎大尉。そして、もう一人は相手のラベンナ号に乗船していた、ただ一人の日本人で、水先人の北野由兵衛だ。

①部下の後を追った元分隊長
 
 千島は日本海軍が明治22年(1889年)11月、フランスのロアール社に発注した水雷砲艦とか通報艦(艦隊司令官の指示を各軍艦に伝える)といわれる小型の軍艦である。当時の日本は軍艦の建造能力に乏しく、イギリスやフランスへ建造を依頼していた。千島は速度が売りで、当時の軍艦は平均13ノット程度だったが、千島は22ノット出る設計だった。翌明治23年の1月に起工、同年11月進水、明治24年4月には機関の据え付けも終わり、試験走行を始めたのだが、困ったことが起こった。汽缶の不具合で蒸気のパワーが上がらず、蒸気漏れがあったりして、どうにも設計速度が出ないのだ。
 欠陥のある危険な船と知ったら、あなたならどうするだろうか。千島の艦長に次ぐ地位にあった二木分隊長は、フランスからの受け取りに反発した。しかし、その行動は上司にうとまれる結果を招いた。海軍上層部は軍備増強と対仏関係を優先的に考えていたからだ。二木分隊長に待っていたのは“左遷”だ。千島回航委員から外され、突然、フランスへの留学の異動を発令されたのだ。
 千島艦事件を研究している松尾忠博氏(松山市堀江町)によると「この留学は、普通なら官報に載せるべきものなのに、それが載っていない。恣意的な異動である証拠」と言う。千島受け取り交渉の妨害になる二木大尉を追放することに狙いがあったとみる。
 二木大尉フランスに留学という形で残り、一方、千島はそれからも試験運航、補修の繰り返しをすることになる。最終的には19ノット出ると認定、価格を値下げさせて千島を受け取ったのは明治25年4月。試験走行開始から1年もたってのことだ。新造船なのに千島は最初から、とても新鋭艦といえる状態ではなかった。

 日本へ回航を始めても、やっぱり機関が故障し、リスボンで修理するなど多難なスタートだった。フランスを4月17日に出港、地中海からスエズ運河、インド洋を経て約7カ月かけて11月24日ようやく長崎にたどり着いた。この地で新たに12人を乗組員として補充、総員90人として、最終目的地の神戸に向かうことになる。この補充が、結果的に犠牲者を増やすことになっていく。11月30日未明、神戸まであと少しのところで、悲劇が起こるのである。
 殉職者74人の中には、二木大尉の後任として千島分隊長に任命された貴島才蔵大尉も含まれていた。これも運命のいたずらか。二木大尉の不自然な異動がなければ、貴島大尉が千島に乗ることもなかっただろうに。

 二木大尉は約1年間フランスに留学。回航中の千島がまだ地中海にいた明治25年7月に帰国していた。その4ヵ月後の同年11月に、千島艦事故が起こり、多くの戦友を失った。そして、翌年5月、二木大尉は東京の自宅で自殺する。(海軍は、彼の死を病死として記録しているが、親族がその後、自殺と語っている。)

 なぜ、彼は自殺したのか。「千島の受け取りに反対しきれず、そのために多くの同僚を死なせてしまった」との思いが強かったといわれる。またさらに、死によって、軍部に抗議するとともに、受け取り交渉の経緯や恣意的な異動などの真相を解明してほしかったのだとも推測されたりしている。それに加えて、千島分隊長から異動後の彼に対する軍の処遇等を考えると、兵学校を首席で出たエリート軍人の挫折と孤立感が、彼を死に追い込んでいったのかもしれない。ただ一方では、自殺動機は複合的なものが多いし、現代人の今の考え方や判断では捉えられないものが、明治の軍人の考え方にはあるようにも思うのである。
 結果的に、鹿児島出身の29歳の海軍軍人は、自らの命を絶って、兵士たちの後を追った。

 今、二木大尉は東京・青山霊園に眠る。その墓の近くに「軍艦千島乗員死者哀悼碑」が建立されている。彼はあくまでも千島の乗員と一緒にいたかったのだろうか。


②歴史から消えた水先人

 パイロットという職業は、空だけに限らない。海にもパイロットはいる。水先人とか、水先案内人という職業である。船舶の往来の激しい内海などでは、不慣れな船長は操船が大変。そのために船長を補助し、船を安全かつ効率的に導くのが、水先人の仕事だ。
 千島艦事件の相手船・ラベンナ号にも一人の日本人の水先人が乗船していた。北野由兵衛(きたの・よしべい)という。彼こそ、日本人初の水先人免状(西洋型船)の取得者だ。当時、将官待遇を得ていたほどの人物。しかし、この千島艦事件で人生は暗転。彼の栄光は、闇の中に消えていく。


 海軍の出来たばかりの船が沈み、犠牲者も74人。相手船の水先人として、北野は日本中から非難を浴び、矢継ぎ早に裁きの場に引き出されていく。誰かに事故責任を押し付けないと、メンツの立たない海軍。その格好の標的に北野はされてしまった。領事裁判権のため、日本人にイギリス人船長は裁けないが、日本人なら日本の手によって自由に裁けたのである。
 明治25年(1892年)11月30日が運命の事故日。北野は翌年2月24日、長崎地裁で過失致死傷罪で罰金200円の有罪判決を受けた。そして、同年4月1日の長崎船舶司検所での海難審問では、「臨機の処置を施するに当たり、その時期を逸した」と認定され、3か月の免状停止の判定を下される。当時の不平等条約のもとでは、ラベンナ号船長の取り調べさえできず、日本人・北野への調べだけでスピード決着が図られたのである。
 今となっては、真の事故原因を究明するのは難しい。ただ、現在では「事故は千島艦側の操船ミスで起こった可能性が高い」と指摘する研究者もいる。

 北野という人物についてふれておこう。正確な出身地や生年月日はわかっていない。ただ、長崎地裁判決(明治26年)で、年齢は58歳7カ月と、記載されている。また、「因島市史」の水先人の活動の項目で、郷土史家が北野のことに触れている談話があり、因島市(現在は尾道市)椋浦町(むくのうらちょう)の出身と推定されている。

 北野がまず歴史に名を残すのは、「日本パイロット協会史」(社団法人日本パイロット協会発行)である。明治10年(1877年)10月に施行された「西洋型船水先免状規則」によって行われた初の水先試験で、北野は合格者3人のうちの1人だった。1人はドイツ系のイギリス人、もう1人は北野の後輩の富田市兵衛という人物である。この年、水先免状を授与されている。北野は以後、神戸を拠点として、「和泉灘より瀬戸内を通過して長崎まで」の水先業務に従事し、日本の水先人の先駆者だったことは間違いない。

 明治20年代には、日本海軍の軍艦を香港から回航し、その際には将官待遇を得ていた北野。だが、千島艦事件後、彼はすべてを封印した。いや、海軍によって封印させられたというべきか。彼の事件後の生活や心情を伝えるものは一切残っていない。「何も話さないことを条件に、海軍が彼の生活の面倒を見たのではないか」と、この事件を研究している松尾忠博氏(松山市堀江町)は推測する。
 日本人初の水先人という栄光は、明治という時代によって蹂躙(じゅうりん)されていった。


(第Ⅲ部 子規と千島艦事件は、3月上旬掲載予定です)
 
 



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